第一章:平凡な日常と奇妙な夢(02)
その日の放課後、視聴覚室の奥にある旧資料室では、ひとりの男子生徒が静かに本のページをめくっていた。
飯島朋春。無口で、必要最低限の会話しか交わさない彼は、教室では常に窓際の影に溶けるように存在していた。友人と呼べる相手も少なく、むしろ意図的に距離を置いているような印象を持たれていたが、彼にはその孤独すら心地よかった。
薄暗い資料室の中、古い哲学書を前に、朋春はふと手を止めた。
──また、あの夢のことが頭をよぎる。
(……どうして、こんなにも鮮明なんだろう)
夢の中の“姫”は、確かに美しかった。けれど、それ以上に、そこに満ちていた“静寂”が、彼の心に深く残っていた。
白い空間に響く、風のような音。沈黙の中にある、名状しがたい懐かしさ。誰かが彼を必要としているような、けれど触れることも叶わない焦燥。
そして──「八徳」という言葉。
朋春はページを閉じ、棚の一番上にあった『漢籍の精神構造』という古書に手を伸ばした。
(八徳……仁、義、礼、智、信、忠、孝、悌。どこかで読んだことがある)
その瞬間、背後の扉が軋んで開いた。光が差し込み、影が差す。
振り向くと、そこには松岡田ゆり菜が立っていた。
「あ、ごめんね……飯島くん? 生徒会の備品チェックで来たんだけど……」
「……いいよ。僕もすぐ出る」
短くそう答えると、朋春は資料を丁寧に棚に戻した。
けれど、棚の隅に見つけた一枚のメモが、彼の手を止める。
『八徳をもって姫を救え』
そこに書かれていたのは、まさに夢の中で聞いた言葉だった。手書きの走り書きで、日付も何もない。だが、確かにそれは現実に存在していた。
朋春の手が、思わず震えた。
そんな彼の表情に気づき、ゆり菜が眉をひそめる。
「……どうしたの? 何か気になるの?」
彼は少し迷ってから、そのメモを黙って差し出した。
ゆり菜がそれを受け取り、文字を目にした瞬間、顔色が変わった。
「これ……」
息を呑むゆり菜の表情に、朋春は確信する。
──彼女も、同じ夢を見ている。
ゆり菜の指が小さく震えていた。けれどその瞳には、ただの恐怖ではなく、何かを確かめたいという強い意志が宿っていた。
「……ねぇ、飯島くん。これ……夢で見た?」
彼はうなずいた。
そのとき、ふたりの間に確かな空気が流れた。何かが、繋がったような。共通する“異常”を共有する者同士にしか生まれない、奇妙な連帯感だった。
ゆり菜は視線を外し、ゆっくりと窓の外を見た。
「私も……数日前から、ずっと。同じ夢。銀色の髪の人が倒れてて、黒い何かがそばにいて……あの声が、『八徳をもって姫を救え』って……」
彼女の声は震えていたが、それでも明確に事実を語っていた。
朋春は、そのままゆり菜に向き直る。
「……沢村さんと西原も、同じ夢を見てる。今日、昼に話してた。廊下で」
ゆり菜の目が大きく見開かれた。
「本当に……? 他にも? ……じゃあ、私たちだけじゃないんだ……!」
思わず口にしたその一言に、彼女の胸からは深い安堵が漏れた。
ひとりじゃない。それだけで、どれだけ救われるか──その事実が、彼女の頬に微かな笑みを戻した。
その夜。
また、夢が訪れた。
姫のいる白い空間。
彼女の額には、微かに赤い亀裂が走っていた。痛ましいほどに儚く、見ているだけで胸が締め付けられる。
そして、黒い異形が、再び彼らの前に現れた。
──残るは四つ。
──八徳が、全て揃わねば、姫は永遠に目覚めぬ。
その言葉は、眠りの中で誰に向けられるでもなく、全員の心に同時に刻まれていった。
──つづく