第一章:平凡な日常と奇妙な夢(01)
昼休みの教室はざわついていた。
弁当のふたがあちこちで開かれ、笑い声と箸がぶつかる音が入り混じる。廊下からはバスケ部の掛け声、遠くで誰かが走る足音。けれどそのざわめきの中で、沢村聡美はただ一人、窓際の席でペットボトルの水をじっと見つめていた。
水面がわずかに揺れている。それは彼女の手が小さく震えているせいだった。
(やっぱり変だよ……)
頬に落ちた髪を耳にかけながら、彼女はもう一度、自分の胸の内に問いかけた。
──今朝もまた、同じ夢を見た。
白い床。横たわる女性。そして、あの黒い異形の存在。
「八徳の徳を以って、姫を救え」
夢の中でその言葉が響いた瞬間、身体の内側が何かに突き刺されたような衝撃を覚えた。冷たいというより、生きたまま凍らされたような感覚。心の奥がぎゅっと縮まり、息が詰まった。その感覚は目覚めた後も消えず、通学中も、授業中も、ずっと彼女の心を支配していた。
(あれ……私だけじゃないよね?)
そんな気がしていた。
周囲の友人たち──特に創の様子を、彼女は今朝からずっと観察していた。彼は明らかにおかしかった。まばたきの間隔が異様に遅く、顔色も冴えない。何よりも、あの朝のホームルームのとき、窓の外を見ている彼の目は、何かを思い出して苦しんでいるようだった。
聡美は机の上に両肘をついて、手のひらで顔を隠すようにしてうつむいた。
──こわい。
心の奥にあるその一言を、誰にも言えずにいた。
でも、誰かに話さないとおかしくなってしまいそうだった。
教科書を読んでも、黒板を見ても、何一つ頭に入らない。昨夜、夢から目覚めたときに濡れていた自分の頬を思い出すたびに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(私……泣いてたんだよね、夢の中で)
しかも、ただ泣いていただけじゃない。夢の中の自分は、泣きながら、その女性に向かって必死に手を伸ばしていた。助けようとしていた。でも届かない。どんなに走っても、叫んでも、間に合わなかった。
──その瞬間、あの異形が現れたのだ。
誰かに、この夢のことを話すべきだ。
でも、誰に? 信じてもらえる保証なんて、どこにもない。
そんなふうに迷っていた時だった。
聡美の視界の隅に、ふと誰かの背中が入った。前の席──西原創が立ち上がって教室を出ていく。その後ろ姿に、彼女は条件反射のように立ち上がっていた。
(西原くんも……きっと、見てる)
聡美は、誰にも何も言わずに席を立ち、ペットボトルを握ったまま廊下へと続く扉を押し開けた。
放課後が近づいていた。
日差しが傾き、廊下の窓に差し込む光が、赤く長い影を伸ばしている。
その先に──創の姿があった。
彼は廊下の突き当たり、誰もいない掲示板の前で立ち止まり、じっと紙面を見つめている。けれど、目はどこか虚ろで、まるで現実の何かを見ているようには見えなかった。
「……西原くん」
勇気を振り絞って声をかける。
創がゆっくりとこちらを振り返る。その顔に浮かんだ表情は、彼女が予想した以上に重たく、疲れ切っていた。
「……ああ。沢村さん」
その声を聞いた瞬間、聡美の胸の奥に何かが溶けたような気がした。
言葉にできなかった感情が、ぽろぽろとこぼれ落ちていく。
「……夢、見てるよね。ここ数日、同じ夢……」
創の目がわずかに見開かれた。その瞬間、二人の間に沈黙が落ちる。
廊下を吹き抜ける風の音が、やけに大きく聞こえた。
「君も……?」
それだけを呟くように尋ねた創の声には、驚きと安堵、そして微かな恐怖が入り混じっていた。
聡美はただ、無言で小さくうなずいた。
それだけで、二人は自分たちが“同じ世界”を生きていることを理解した。
奇妙な夢の中で繋がっていた線が、現実でようやく交差した瞬間だった。
──つづく