20. わたし自身を
夕食も終え、お風呂にも入って、あとはのんびりと過ごしたあとに、眠ろうか、というとき。
ヤナは使った食器を持って、屋敷のほうに行ってしまった。
わたしはぼんやりと、一階の椅子に腰掛けて、彼女が帰ってくるのを待っていた。
いつもは屋敷から帰ってきたヤナが、わたしが眠りやすいようにと、髪を左右にふたつにわけて、耳の下あたりでゆるく結んでくれる。
簡単なので自分でやればいいのだろうが、ヤナは「これも仕事なので」と頑なにやらせてくれない。
でも彼女にばかり頼むのも、どうなんだろう。
ヤナからは、髪を結われたりしているし、手も取ったりされるし、先日は抱き締められたりもした。彼女は、『手を繋ぐ』『頭を撫でる』『抱き締める』と、誰かにしてもらいたかったことをしてくれる。
でも、ヤナだけというのも、なんとなく申し訳ない気がしてしまう。これではまるで、ヤナだけを信頼しているみたいだ。
じゃあカレルにも頼んでみるべきか。
いや別に、抱き締められたいとかいうことではないんだけれども。というか、それはちょっとダメだと思うんだけれども。
ただ、そもそも最初は、カレルが髪を結いたいとか言っていたわけだから、それを拒絶し続けているのは、彼の忠義に応えていないということではないのだろうか。
わたしは、火の始末をして調理場から出てきたカレルに声を掛けてみる。
「あ、あの……カレル」
「はい、なんでしょう。お嬢さま」
「そ、その……」
快活に返事をしてきた彼に、なんと言えばいいのかわからなくなって、しばらく自分の指をもじもじと弄んでしまう。
「どうしました? どうぞなんでも仰ってください」
なにか面倒なことを頼むから躊躇しているとでも思われたのだろう。カレルはこちらに歩み寄ってきて、不思議そうにわたしの顔を覗き込んできた。
一度、声を掛けてしまったのだから仕方ない。言わないと。
「あの……あのね」
「はい」
「カレルは……だ、第一の従者なんでしょ」
「はい、そうです!」
彼はそう元気よく返事をすると、胸を張った。
「じゃ、じゃあ、髪を結んでちょうだい」
「えっ」
カレルはそう漏らして、固まってしまっている。
最初に主張していた様子から、ぜひ、と飛びついてくるのではないかと考えていたわたしは、予想が外れて恥ずかしくなってきた。
以前は、やりたいやりたいと食い下がってきたくせに。
「嫌ならしなくていい!」
この空気を誤魔化したくて、わたしはぷいと顔を横に背ける。
「嫌じゃないです、嫌じゃないです!」
カレルは慌てて胸の前で両手を振った。
「ぜひやらせてください!」
「そう。じゃあ、お願い」
わたしはホッと息を吐く。カレルはバタバタと「えっと、ここ……あ、あった」などとつぶやきながら、櫛とリボンを準備する。
それからわたしの背後に立つと、話しかけてきた。
「どうしましょうか」
「……任せるわ」
「かしこまりました。じゃあ、今日はゆるく三つ編みにしてみましょう。朝になったらふわふわの髪型になってますよ」
「三つ編みなんてできるの」
「ヤナで練習したって言いましたよね」
「子どもの頃の話でしょ」
「指は案外覚えているものですよ」
そして優しく髪を櫛で梳き始める。
するとなんだか落ち着いてきて、先ほどのことを訊きたくなってきた。
「ねえ、カレル」
「なんでしょう」
「あんなに結いたがっていたのに、なぜ躊躇したのよ」
わたしの質問に、カレルは少しの間、うーんと唸って、それからぼそぼそと話し始めた。
「ええと……なんというか……」
「なに?」
「あの頃は、お嬢さまはお嬢さまでしたが、今は、お嬢さまという人を知ったからというか……。だからちょっと気恥ずかしいというか……」
「わたしという人?」
「よくわからないですよね、すみません。なんて言えばいいか……最初は、『お嬢さま』という記号だったけど、今は『お嬢さま』という人間というか……。いや、記号はさすがに失礼ですね……。うーん、なんだろう」
悩むカレルを背後に置いて、わたしは前を向いたまま、息を呑んでいた。
いた。いたんだ。
『わたし自身を見ている人間』が、ここに。『黒き魔女の魂のカケラ』を持つ人間ではなく、わたしを見ている人が。
胸にこみ上げてくるものがある。じんわりと視界が滲む。
慌てて下唇を噛むと、わたしはなんとか涙が零れるのを堪えた。
◇
髪を結われているうちに、なんだか気持ちよくなってきて、急激に眠気が襲ってきた。
うつらうつらとしながら、舟を漕がないようにしないと、とがんばっていたのだが、結局、眠り込んでしまったらしい。
ふと、ボソボソとした声が耳に入る。
「ヤナはどうしても無理?」
「普通に無理。がんばればいけるかもしれないけど、起きちゃう」
「お嬢さま、細いからいけるって」
「兄さんがあとで怒られればいい話でしょ」
カレルとヤナの囁き声が聞こえて、うっすらと目が覚めたが、なんとなく目を閉じたままでいた。
兄妹二人きりだと話し方が変わるんだな、なんてことを思いながら、ぼうっと会話を聞く。
「怒られるだけで済めばいいけど」
そんな言葉が顔の近くで聞こえてきたと思ったら、背中と膝裏に手が差し入れられた感触がして、ふわっと身体が浮き上がった。
「そっとね、そっと」
「うん」
ゆっくりと階段を上っていく感じがする。ヤナが足音を忍ばせつつも先に上がり、三階の部屋のドアを開けたようだ。
夢の中みたい。ふわふわして、気持ちいい。
カレルって案外、力があるんだな。すごい安定感。支えている手も大きくて。
ずっとこうしていたいくらい。
そんなことをぼんやりと考えていると、どうやらベッドに到着したらしい。
ゆっくりと横たわらせられて、もぞもぞと身じろぎすると、二人がじっとわたしを見る視線を感じた。
「起きて……ない」
「大丈夫っぽい」
起きているのに。気付かれてないみたい。半分眠っている感じだからかしら。
「おやすみなさい、お嬢さま」
そんな小さな声がして、パタンと扉が閉まる音がした。
いい夢が見られそう。それとももう夢の中かしら。
幸せって、こういうことかしら。
そんなことを思いながら、わたしは柔らかなベッドの中で、眠りに落ちていった。




