16. 人肌
ベッドに潜って、なんとか落ち着かないと、と枕に顔を押し付けて泣いていると、しばらくして扉がノックされた。
「こないでって言ったでしょ!」
ベッドの中から大声を上げると、応えたのはカレルではなかった。
「お嬢さま」
部屋の外から、ヤナが声を掛けてきた。
「入ってもよろしいでしょうか」
「だ、だめ!」
慌ててそう拒否して、またベッドに潜り込む。
でも案の定というかなんというか、ドアの開く音がしたかと思うと、こちらに近付くヤナの足音が耳に届いた。
「お嬢さま?」
「だめって言ったのに……」
「聞こえませんでした」
しれっとそう返事すると、ヤナはベッドのすぐ横に立ち止まったようだった。
「お嬢さま、お顔を洗いましょう。目が腫れてしまいますよ」
当然、わたしが泣いていることは承知しているのだろう。
それなら隠れることもないか、ともぞもぞとベッドから顔を出す。
それを見たヤナは笑みを浮かべる。それから、抱えていた水の入った桶を、ベッド脇にあったサイドテーブルの上に置き、それごとわたしの前に運んできた。
「さあ、どうぞ」
今のやり取りで、とりあえず涙は引っ込んでしまった。わたしはザバッと桶の中に手を突っ込むと、それでバシャバシャと顔を洗う。
顔を上げたところで、ヤナが手拭いをわたしの顔に押し付けた。
「ちょっ」
「綺麗に拭きましょうね」
そう言って、優しい手つきでわたしの顔を拭いていく。
「じ、自分で、やる」
合間にそう訴えるが、ヤナは手を止めることはなかった。手も指の一本一本まで丁寧に拭いていき、その間わたしは、されるがままだった。
拭き終わった彼女は、一度身体を起こして桶の縁に手拭いを置き、またサイドテーブルを脇に動かす。
それからどうするのかと思ったら、こちらを向いて、両腕を広げた。
「えっ」
そして自分の胸にわたしの顔を押し付けるようにして、両腕でわたしを包み込む。
「ヤナ?」
「お嬢さま。泣きたいときは、人肌を感じるといいんですよ」
いつになく優し気な声で、耳元でそう囁いた。
ふいにまた涙が出そうになって、わたしは懸命に目に力を入れて堪える。
「し……知らなかったわ」
「お小さいときはともかくとして、今はお一人ですものね」
そして続けた。
「だから私が抱き締めます」
ぎゅっと腕に力がこもって、身体を押し付けられる。
人肌を感じるといい、という意味がよくわかった。
なんて安心感だろう。人の温もりは、なんて温かいんだろう。
『手も繋げないし、頭も撫でられないし、抱き締められもしない』
今、そのうちのひとつが、叶った。
与えられるということは、幸せなことなんだ。堪えられない涙が、ヤナのメイド服を濡らしていく。
彼女は小さく笑うと、こう付け足した。
「それから、兄さんの代わりでもあります」
「カレル?」
腕の中で、ヤナの顔を見上げる。苦笑交じりに彼女は教えてくれた。
「兄さんが、淑女に異性が触れてはいけないからと、私に頼みに来まして」
「そう……」
では、本当はカレルがこうしたかったということだろうか。
「それに、同性でも異性でも、どっちにしろ、嫌いな人では嫌でしょう?」
わたしが、『大っ嫌い』と言い捨てたことも知っているらしい。
なんだか恥ずかしくなってきて、しばらく唸ったあと、なんとか口を開いた。
「……嫌いと言ったのは……嘘だわ」
「それはよかったです」
背中をポンポンと叩かれて、思わず身を委ねる。温かくて気持ちいい。
そうだ、幼い頃は、お父さまやお母さまがこうしてくれていた。
失ったものを再び取り返したような、妙な、でも心地良い、そんな気分になる。
しばらくそうしていると、今度は抱き締められていることに落ち着かなくなって、彼女の胸元に手を押し当てて身体を離した。
「も……もういいわ」
「はい」
ヤナは口元に笑みを浮かべたまま、またわたしの正面に立った。
そして次の言葉を待っている。
「あ、あの……」
「はい」
「カレルに……謝らなきゃ。ひどいことを言ったわ」
「謝らなくていいですよ。あの人は基本的に非常識なんですから。少しは痛い目を見るといいんです」
平然とそう話すヤナに、笑いが漏れた。
「それはそうだけど、だからといって、ひどいことを言っていいことにはならないでしょ」
「お嬢さまは優しすぎます」
「普通です」
ヤナの口調を真似てそう返すと、少しの間二人で顔を見合わせて、そしてどちらからともなく、笑い合った。
本当のところ、わたしには、『普通』がどういうことかはわからないけれど。
◇
何度か鏡を覗き込んで、どうやらいつもの顔に戻ったことを確認すると、わたしは一階まで階段を下りる。
すると、一階ではカレルがなにをするでもなく、ウロウロと歩き回っていた。
その様子がちょっと面白かったので黙って眺めていると、わたしの姿が目の端に映ったらしいカレルが、ハッとしてこちらに勢いよく振り返る。
そして慌てたように、深く腰を折った。
「お嬢さま、申し訳ありませんでした」
謝ろうかと思っていたのに、先に謝られてしまった。
「なにを謝るの?」
「勝手にお嬢さまの心の内を推測して、勝手に怒って、しかもそれがまるで見当違いだったことです」
頭を上げないまま、カレルはそうまくし立てた。
わたしは中央のテーブルまで歩み寄ると、椅子を引いて腰かける。
「まあ……見当違いっていうほどでもないわよ」
むしろ、図星だった。だからこそ激高してしまったのだ。わたしは自分を納得させるために、あの喩え話を考えたのだ。
でもそれを素直に認めるほどには、割り切れていなかった。
それからも、まともに顔を見られなくて、わたしはテーブルの上で手を組んで、意味もなく指遊びをしたりする。
しばらくそうしていたが、これではダメだ、とどうにか決心して、謝意を口にした。
「あの……。あれは、八つ当たりだったわ。……ごめんなさい」
「いえ! お嬢さまが謝られることでは」
慌ててそう制止してくるが、わたしはふるふると首を横に振った。
「いいえ、やっぱり八つ当たりはよくないことだし」
「別にいいですよ」
言われてわたしは顔を上げる。
カレルは口元に笑みを浮かべて、こちらを見つめていた。
「大丈夫ですよ。八つ当たりしたいときには、僕でよければいくらでも」
その言葉に、心の中でホッと胸を撫で下ろす。カレルには申し訳ないが、そんなわがままが許されることが嬉しかった。
「そう? じゃあ今度から、どんどん八つ当たりしようかしら」
照れ隠しに、そんな戯れ言を口にする。
それにもカレルは笑みを返してきた。
「ええ、もちろん」
「そんなこと言って、知らないわよ」
「大丈夫です。僕は第一の従者ですから、むしろ八つ当たりされたいくらいです」
「それは……ちょっとおかしくない……?」
「おかしくないです」
「おかしいわよ」
わたしがそう呆れた声を出すと、カレルは楽しそうに笑った。




