15. 喩え話
そう言うと、彼はきゅっと唇を引き結ぶ。まるで涙を流すのを我慢するかのように。
「僕がここに来てから、公爵夫妻は一度もこの塔を訪れていません。いったいどれくらい、ここに来ていないのですか」
「何年かしら。覚えていないわ」
確か、わたしが十歳のときに妹が生まれたはずだから、六年だろうか。
もう数えることはやめたから、すぐには出てこない。
「僕は、使用人たちはともかくとして、ご両親は様子を見にやってくるべきだと思います。非情です。薄情です。恨み、そしてそれを伝えてもいい状況だと思います」
彼の握った拳が、ぶるぶると震えている。
なぜカレルが憤っているのだろう。
そんなに怒ることではない。わたしを怖がらないカレルには、両親の気持ちなどわけのわからないものなのかもしれない。
「たとえば、ね」
「はい」
わたしは声が震えないように気を付けながら、軽い調子で話し始める。
「カレル、その椅子に座って」
わたしは、わたしの向かい側にある椅子を指差す。
「え? お嬢さまの前で座ったりはできません」
従者として弁える、ということだろう。でもどうせ誰も見ていないのだから、そんなに気にすることでもない。
「いいから。座って」
「そう仰るなら……」
不承不承といった感じではあったが、カレルはわたしが指差した椅子にすとんと腰かけた。
「あっ、そんな座り方をしたら」
「え?」
「壊れるかも」
「えっ」
突然に脈絡もないことを言われて驚いたのか、カレルは腰を浮かせた。
わたしはふっと笑う。
「嘘よ」
そしてすぐさま否定した。それから目を白黒させているカレルに、また座るように促す。
今度は、カレルは椅子を気にしながら、そうっと慎重に腰を下ろした。
「ね? それと同じだわ」
「同じ?」
「毎日毎日、いろんな人から『壊れるかも』って言い続けられてごらんなさい。そんな馬鹿な、と思っていた人だって、さっきカレルが座ったように、躊躇なく腰を下ろすことはできなくなるわ」
わたしの説明に不本意ながらも納得できたのか、彼は一度なにかを言いかけたが、なにも発することなく、口を閉じた。
「だから、お父さまやお母さまを責める気はないのよ」
口の端を持ち上げ、わたしはそう話を締めくくる。
しばらくの沈黙がわたしたちの間に訪れた。
そう、どうしようもないことなのだ。人の心を動かすことなどできない。
魔法があればそれも可能なのかもしれないが、わたしはなんの力も持たない、普通の人間なのだから。
すると、カレルはぽつりと問うてきた。
「その喩えは、誰が考えたんですか」
「え? わたしに決まっているじゃない」
「そう、ですか」
それだけ返して、カレルは目を伏せて黙り込む。
その姿を見た途端、カッと身体が熱くなった。
憐れまれた。
自分を納得させるために、懸命に理由を考えたのだろう、と彼に思われたのだ。
気の毒に、可哀想に、不憫だ、と。彼の表情がそう語っている。
ぶるぶると身体が震え始める。わたしは膝の上で、ぎゅっと拳を握る。
馬鹿にして。見下しているんじゃないわよ。憐れまれる筋合いはない。
内から湧いてでる声は、八つ当たりだ。わかっている。
わたしは紛うことなき、哀れな人間だ。
でもどうしても、なにか言わずにはいられなかった。
「……カレルだって、お父さまたちと一緒じゃないの」
わたしの絞り出すような声に、彼は驚いたように目を見開く。
「カレルだって、わたしが『黒き魔女の魂のカケラ』を持っているからそうして世話をしてくれているんじゃない」
「お嬢さま……」
「なにが違うの? 根本的なところは一緒じゃない!」
『カケラ』を持っているから避ける。
『カケラ』を持っているから近寄る。
どちらにしろ見ているものは、わたしの中にあるとかいう、『黒き魔女の魂のカケラ』だ。
わたし自身を見ている人間は一人もいない。
この世の中に、ただの一人も。
わたしはそんな、惨めな存在なのだ。
そうした暗い感情が、どんどん胸の内から湧いて出てくる。そして一度噴き出した感情を制する術を、わたしは知らなかった。
「わたしがいったい、なにをしたっていうの? 黒い髪と赤い瞳で生まれてきただけなのに!」
こんな小さな塔に閉じ込められて、たった一人で生きなければならなくて。
もちろん、何不自由ない生活をと、いろんなものを支給されてきた。それが『黒き魔女』への恐怖から来るものだとしても、実際、この塔の中で、一人で生きてこられた。
だから満足しろというのか。恨まずにいてくれと願うのか。
本をたくさん読んで、経験したような気分になっても、実際にはなにもしていない。
どんなにワクワクする冒険譚を読んだって、心ときめく恋物語を読んだって、世界の生き物の図鑑を読んだって。
わたしは結局、この塔の中に一人、取り残されているだけなのだ。
皆に疎まれるわたしは、手も繋げないし、頭も撫でられないし、抱き締められもしない。
一人でベッドに潜って泣くだけ。
赤い瞳からボロボロと涙が零れ落ちてきて、テーブルの上の、ぐしゃぐしゃとペンで消された魔法陣を濡らした。
本当に魔法が使えたら、嫌なこと全部、消してしまうのに。
「……嫌い」
みんな、みんな、嫌い。
「お嬢さま」
「カレルなんて、大っ嫌い!」
これ以上、みっともない姿を見せたくなくて、椅子からバッと立ち上がると、階段に向けて走った。
背後でカレルが慌てて立ち上がる気配を感じる。
「お嬢……」
「ついてこないで!」
それだけ言い捨てると、わたしは三階まで一気に階段を駆け上がった。




