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3-1.部屋の記憶

 なじんだベッドの上で、あぐらを組んだ足には真新しい毛布の感触を、背中には懐かしい壁紙の感触を受けながら、彼女は膨らんだ腹越しに、足の間に広げた絵本に目を落としていた。正方形に近い形の――今は開かれて長方形になっている――表紙は黄色く、その中では、いくつも重なった細く黒い線で、人や、家や、家具や、何かよく分からないペンギンのような奇妙な生き物が描かれている。読書灯の小さな橙色の灯りと、夜の暗く淡い空が、そんな彼女の手元を照らしていた。

 読み終えて、翻訳者の後書きに添えられた十五年前の日付に驚き、何度読んでもいつ読んでも、全く意味が分からないという感じ方が何も変わらないことに呆れ、それでも目にするたびに好きになり、そして、たとえばこいつが、めくった先のページで、今度は見たことのない真似をやらかしたりするのではないかと期待して、わくわくとしているのも同じままだと確かめ、彼女はそれを閉じた。

 顔を上げると、すぐ脇に窓があった。ガラス越しに、長い間、目を覚ますと初めて目にし、眠る前に最後に目にしてきた光景が広がっている。

 二十年ほど前、その部屋をあてがわれた日、自分の部屋を持ったことに喜んだ彼女は、空っぽの本棚の前にしゃがみ込んで、どうやってここを満たしていこうかと想像を巡らせていたが、ふと振り返りベッドに上ってカーテンを開けると、せき止められていた陽光が部屋にあふれ、一瞬、その中で溺れてしまうのではないかと思ってしまうほどの感動を覚えたものだった。二階のその部屋から見えたのは、なだらかに下っていく斜面に沿った家々の屋根、そしてその先に広がる海だった。それは、階段を上る足取りが身籠もって重くなった他は、昔のままに彼女には思えた。

 あるとき、ちょうど窓の外、目の前に木が茂り、視界を遮ったことがあった。海は、水平線から少し上の空、そしてそこにあった雲や星ごと隠れ、彼女の落胆ぶりは自分自身驚いてしまうほどだった。そしてその頃交通事故で負った怪我のために長い間入院し、病院から帰った時には、そんな光景を見るのが怖く思えた。しかしいざ久しぶりに戻った部屋で窓に目を向けると、昔に感動を覚えたままの海が見えた。まるで、自分が落ち込んでいた記憶が、入院していた日々とともに、悪夢か何かででもあったかのように。悪夢はどれだけ心を痛めつけても、目を覚ませば、あっさりと消えてなくなってしまうのだから。

 彼女は窓を開けた。空気はいくらかひんやりとしていたが、風はなく、穏やかだった。夜の海はひたすら暗く、闇そのものだった。ざわめくようなたくさんの小さな光や、雲の輪郭が見える空とは違って。海から目線を上げていくと、丸い月に行き当たる。目をこらすと、その周りに満ちる淡い星の光が、徐々にはっきりとしていった。そしてふと気づけば、ほんのかすかに、波の音が耳に届いている。

 こうやってわずかな感覚を捕まえられる時間を、彼女は心から好んでいた。そして腹に当てた手の下で、自分の一部であって別物でもあるという不思議な存在感が、同じ時間を過ごしている。それを初めて認識した時には戸惑うだけだった彼女も、今ではすっかりと、その存在を受け入れていた。

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