Episode/middle 会長・空海の知られざる休日
息抜きの幕間。
―――時は少し遡り、事件・「神、虐殺の理を得る」が起きる前の話である。
休日、陽だまりの窓際にあるソファ―――昼間だと言うのに暖色のランプが気怠げそうな雰囲気を充満させている部屋に寝っ転がっているのは、何を隠そう会長―――空海無垢美である。ソファに横になり、溢れんばかりの蔵書が積まれている床をぼーっと眺めながら手頃な所に置いてある、そのためだけに置かれたようなミニテーブルの上から菓子を摘めば、それを何の躊躇いもなく無造作に口に放り込む。相当高価な菓子なのだろうが、彼女にとっては何も有ってないようなものである。
地上数十メートルに建てられたこのタワーマンションの上階。都心でこの物件なれば、恐らく家賃五十万は下らないだろう。その高みから見る景気は、荘厳かつ幽幻。諸行無常に移りゆく儚き栄華の都である。だが、そのような壮大な景色には一切の興味がないのか、一瞥しただけであとは振り返りもしなかった。世捨て人、仙女、外宇宙から見下ろす者とも形容されることがあるが、それはこのような普通の人ならば圧倒されるような事柄・事象が起こっても、驚くことなく、それどころか興味さえ向けようとしないその姿勢にある。
そのまま九時を周り、十時を周り、十一時を周り、十二時を周り―――とうとうついにか、午後になってしまった。そのぼーっとした状態を数時間も維持できるのは、最早天賦の才である。一説には、このぼーっとした状態は、精神状態を整える効果があるらしく、瞑想に近いという。彼女のような生き方も、現代人にとっては良いのかもしれないが―――それとこれとは、また別であり、第一、あんなにぼーっとしていると、端から見れば狂人に見えなくもない。
そして、午後二時を過ぎた辺りだろうか。彼女は突然に動き出した。床に乱雑に置かれた書物が、彼女が動いたことによって雪崩のように崩れ去る。しかし、広がる書物たちにも一切の興味を示さず、恐らく鬱陶しいだの、邪魔だの何だの、そのようなことすら頭によぎっていない。彼女の頭を流れるのは、スルーされるニューロンの痛覚を伝える裁縫糸のように細く影響力のない電気信号のみである。
クローゼットを開けて、服を見る。見てみれば、フリフリのドレス―――所謂ロリータとか呼ばれるものや、シックな黒いスタイリッシュスーツ、古代ギリシャの衣装のようなものなんかもクローゼットというパンドラの箱には納められている。
「どれにすれば良いのか……。悩むな……そうだ、良し。こんな時は―――」
ポケットから携帯電話を取り出す。画面をタップし、操作するとプルプルプルプルと音とバイブレーションで相手に発信していることを伝えている。
『はい〜、もしもし。母上?』
出た相手は、なんとも陽気で呑気な声をした女性―――娘のコーポレーション傘下のアイドル事務所『ル・リエー』総合プロデューサーの空海久猗である。意外なことに、この久猗という人物、中々に侮れない。十四の時にミスコンで優勝し、その後に母である無垢美のつてで芸能界へ入る―――勿論、事務所は当時はまだ無垢美が経営していた『ル・リエー』である―――。そこでは数々の純潔を散らさねばならないような出来事に遭遇したのだと思うのだが、それを自前の高貴さで押しのけ、純潔を散らさずに二十五で芸能界の表舞台から去った。
そして引退後はどちらかと言うと裏方仕事を主に務めており、ファッションコーディネーター、メイク、トレーナーなど、その活動は多岐にわたる。
「すまないな、久猗。ぽっと出の頼みで申し訳ないんだが……」
『いいよいいよ。困っていることがあるなら、いつでも私に知らせてくれたまえ!』
「ちょっと、私の服を選んでくれないか。今、クローゼットの写真を送る」
『りょうかーい! 任せておいて!』
「ああ、頼んだ」
電話を切る。そして、最新機器の超高性能カメラで自らのクローゼットの中身を撮る。それを慣れた手付きでチャットアプリの画像送信機能を使い、画像データファイルを久猗に送る。すると、さすがファッションコーディネーター、素晴らしい速度で返してくれた。
提示されたのは、スタイリッシュスーツとそれに付属している黒い外套、そしてハット帽子である。全身を黒一色で染め上げたそのコーディネートは喪服を連想させる。まあ、言ってしまえばそのとおりである。
今から彼女が赴くのはかつての亡き友―――前藤風弁の墓である。死者と向き合うための特別礼装―――それが、彼女にとっての喪服の定義であった。
彼女は、自らの“想像力”を使い、霊園前にワープする。緑色に生い茂る葉、道の端に植えられた幾百にも及ぶ死者の血を吸ったような淡いピンク色をした満開の桜、そして―――数々の墓石と草花に囲まれ、その石塔は立っていた。
前藤風弁―――享年三十二歳という若さで亡くなった、過去の天才。神話・伝説を解析してあらゆる技術を進歩させるために『NEF』によって収集された異常物品の中でも最上のものを、組織の力を借りず一人で解析し、成功したまさに技術の申し子・天才と呼べる人物である。
被っていた帽子を取り、無造作に花を添える。そうして帰ろうとした、その時であった。
パァンッ! と、後ろで銃声がし、自らのすぐ横を銃弾が通り過ぎていった。振り返れば、不自然なほどに角ばっている男が一人。
「―――チッ、猟犬の残党か。良いだろう、相手をしてやる。幸い、今はこいつの墓の前だ。―――少し、こいつの解析したものを使ってみるのもよかろう!」
すると、彼女は虚空へ手を伸ばし―――黒い陽炎のように歪む綻びを生じさせる。その中から取り出されるのは、一本の鎖。それは朽ち果てところどころ黒く錆びていたが―――それでもなお、変わらぬ威厳があった。どこまでも伸びる、果てなき鎖。その名は―――
「迎撃せよ! 『天からの贈物は鎖』!」
生前、彼女が遺していった最後の解析品―――『天からの悦楽は鎖』の複製品である『天からの贈物は鎖』。絶望を封じた箱―――パンドラの箱を開けた原初の女性であるパンドーラーの名を冠した鎖。それは、その名の通り、相手にとっての絶望を開ける。
『天からの贈物は鎖』が、男に巻き付く。そして、先端についたフォークのようなスプーンのような、はたまたナイフのような形をした部位が、男の頭蓋骨を開く。しかし、そこに見えたのはグロい液体まみれの脳みそではなく、光り輝くものであった。それこそは、その男の見えている正常な世界。幸福に満ち溢れた、希望の世界。だが、この『天からの贈物は鎖』はそれをこじ開ける。根こそぎ幸福を取り除き、絶望のみを残す―――まさにパンドラの箱を開けた、ということである。
「うあっ、アアッ、……」
うめき声すら上げられぬほどの大きな絶望。それは、目に映る景色にも影響する。生い茂っていた緑の葉は、枯れ果てた茶色に。満開の桜は、血にまみれている。数々の墓石と草花は、血の池から這い上がろうとする死者のようである。その中で唯一、光り輝くものがあった。普通に見える物があった。それは、彼女が立ち去ろうとした石塔があったであろう場所にある。黒髪ショートの女が、血の池の水面に立っている。だが、彼女が見つめる目は、まるで養豚場の豚を見るような目であった。『堕ちろ。君には、ここにいる資格などない』―――そう言っているようだった。
かくして、彼女の人生で一番長かったであろう休日は終わりを迎える。無敗、最強。彼女を表すのに最もふさわしい言葉はこれではないだろうか、とこれを見れば誰もが思うはずである。
……すっごい。最後「沙耶の唄」みたいになってる。




