夜盗虫
「 夜盗は畑の害虫です」
彼は一度だけ自分の名前について語ってくれた。会社が用意してくれた名前も忘れた港区のバーで私にだけその意味を教えてくれた。店内は私たちとバーテンの三人だけだった。彼はジントニックを呷って、グラスを優しくコースターの上に置いた。場に慣れていない彼らしい仕草だと感じた。
彼は小説家をしている。数年前にデビューをして、今では我が社の一番の稼ぎ頭にまで成長した奇才。そんな人物をなぜ入社四年目の私が担当しているのかというと、これは新卒で入社した私と、彼のデビュー当時まで話を遡らなければならない。
地方国立の文学部を卒業し運よく大手出版社に内定した私は一年を研修と営業で費やし、二年目から編集業務へとあたった。部門は志望通り文芸。胸を躍らせながら業務を行う。小説は基本的には郵送だが稀に持ち込みで来る人もいる。上司曰く、持ち込みをする奴は己を天才と信じてやまないナルシストで、こちらがなにか指摘をすれば顔を紅潮させて怒鳴って帰る「自称文豪様」が多いそうだ。そういうものかと納得しデスクの椅子に座ると内線の電話が鳴る。新人の私は一コール目で受話器を取った。フロントからだった。内容はさっそく、小説の持ち込み。上司に報告し、その対応に私も同席出来ることになった。
上司はその人についてよく知っている風で「ああ、十浪か」といった。意味が分からなかったため問うとその人物は数か月に一度こうして持ち込みに訪れる今年で十年になるらしい。小さな賞の奨励賞だか、特別賞だかを取ったことがあるそうだが十浪が書く物語は不鮮明で不明瞭で、如何せんパッとしない。読んだ先から内容を忘れていくように印象に残らない。他の持ち込みとは違い、彼は真面目に意見を受け止め修正を繰り返してここまでやってきたが依然として変化は見られない。とどのつまり「才能」というものがないそうだ。
「俺もそんなしっかり原稿を読んでない。金にならない言葉に時間を費やすのはよせ。20分程度で早々に切り上げろ」上司はそう言って早足で向かった。
編集部の応接室に彼は座っていた。白いシャツに茶色いチノパン。丸い顔には丸みを帯びた黒い眼鏡と眉毛と同化したまっすぐな髪をした真面目そうな男だった。名前をKという。年齢は30歳を少し過ぎたくらいだろうか。私たちが部屋に入ると立ち上がって深くお辞儀をした。十郎はあまりに平凡な見た目をしていた。
しかしそれはすぐに覆る。彼は重い吃りだった。すらすらと挨拶をしたと思うと途端に言葉が停止し、もごもごと口を動かしては息を吸ったり吐いたりを繰り返した。上司はそれに慣れているかのように、書いてきたであろう新作の提示を求めた。彼は少し安心したかのように、そうですと言って鞄から原稿用紙数十枚の紙束を取り出して机の上に置いた。
「それでは拝見します。」
上司はそう言って彼の小説を読み始めた。上司は最初のうちはつまらない世間話を交えながら小説を読んでいたが、Kは言葉に詰まり、音を発しても何を言ってるか分からず、上司は困ったように愛想笑いをして会話は数行で終了した。
これでは社会に出るのも大変だろう。
私はそう心の中で思った。仕事や生活、生きてるだけで彼は窮屈で満たされない思いをしているのだろう。唯一諦めきれないものがこれなのか、これじゃないとこの先の生活が苦しいと思ったのか、私にはとても分からないけれど変な情が彼に移った。
パラパラと流し読みをして15分程度で上司は切り上げた。ほとんど読んでないのは私にも分かる。しかし上司はつらつらと指摘を始めた。内容はこうだ。デジャヴ感と登場人物の魅力のなさ。どこかで見たことのある話と展開。描写は語彙は人気小説家に勝るとも劣らないし、その努力は認めるがいかんせん話がつまらない。迷路の中で同じ道を何度も通る感覚。見飽きたんだ。新鮮さが欲しい。流行にのったほうが方がいい。外は出ているのか。小説家は経験がすべてだ。もっと色々なことを見聞きすべきだ。
例えば今人気の……
人の心がないのかと疑う程に上司は彼にダメ出しを始めた。日々のストレスの吐き出すように憎悪交じりの言葉のジャブは彼を何発も殴りつけた。しかし彼はガードもせず真っ向からそれを受け止め、一字も見逃してたまるものかとメモを取り続けた。10分間それは続き、そうそうに上司はKを追い返した。彼は深く頭を下げて部屋を出て帰っていった。
「最近はいつ折れるか試してるんだよね。正直めんどくさいし。さっさと真面目に働いた方がいいんだよ。しがみつく程小説家は大層な職業じゃないんだから。」
吐き捨てるように上司はそう言って自分のデスクへと戻っていった。
創作を行うものにとっての幸いは、どれだけいいものが作れるかどうかだ。自分のための創作と、誰かのための創作。後者であるならば売れることが正義だ。だから創作は平等で残酷なものだ。それでも、私はその行為を愛してる。私は創る側にはなれなかったが、照らす側の人生というのも悪くはないんだ。
一年。時間はすぐに流れた。慣れない職場。日々の業務に朝から終電まで忙殺され、作家には新人だからと舐められ、締め切りを引き延ばされ、上司の舌打ちに歯ぎしりし、、たまの休日は本屋を巡り、知と流行りを吸収してはまた仕事に戻る。
「今年で三年目になります。」
正月後の初出勤に挨拶を交わす。内線の電話が鳴る。二コール目で去年入った後輩が受話器を取った。
「フロントからです。あの人です」
後輩は私にそう告げた。
どんなに仕事が忙しくても、Kは数か月に一度必ず新作を持って私の元へ訪れた。上司からいいように使われる私はKの対応をほぼ専属で対応するようになった。前もその前も私は彼の物語を読んだ。そのたびに思う。言葉が輝きを帯びていない。情景描写は見事だと思う。上司のいう通り、プロと大差はない。
ただ、惹かれない。砂漠の中にダイヤモンドがあるとしても、他の砂の中に隠れてしまうように、その光を見つけられないでいた。
今日も彼は私を待っていた。黒い外套を椅子に掛け、机の上の原稿を見つめていた。私が部屋に入ってもその様子は変わらなかった。
「あけましておめでとうございます」
私がそういうと彼は気づかなかっただけなのか、立って深くお辞儀をした。
「今年は寒いですね。お正月は休めましたか」
適当な会話を交わす。彼は肯定も否定もしない返事を返した。いつもと何ら変わらない。進まず、後退もしない彼との関係性。そしていつも通り原稿を預かる。
「今日はすぐに行かなければいけなくて。あ、後でご連絡頂けますか」
いつもなら熱心にメモを取る彼だが、こんなことは初めてだった。
「そうなんですね。分かりました。読み終わり次第、すぐにご連絡差し上げます。」
彼は足早に去っていった。
仕事始めから忙しく、彼の原稿に目を通したのはそれから一週間後のことだった。
「ああ、そういえば」
だが、、まぁ問題はない。この役は誰でもいいのだ。私じゃなくても彼についても印象は似たり寄ったりなはずで、次からは後輩に任せてもいいかもしれない。三年で私が学んだことだ。金のならない言葉に価値はない。小説を愛している。それだけじゃく創作の全てを私は愛してる。言葉を綴る行為についてある種の美しさを感じる。それでも私は編集者であって会社員だ。利益を追求しなければならないし、それが仕事だ。セクハラ紛いの行為を行う屑があまりに美しい言葉を綴ったりする。機嫌を取り美しさを世の中に伝える。これが私の仕事だ。
一ページ二ページとページをめくる。コーヒーを淹れ机の上に音を立てないで置いた。誰かのための創作は手紙だと思う。何所までも続く青い地平線に、メッセージボトルを流すみたいに宛先のない手紙。誰かが見つけるまで漂流を続ける。そう思えば商業誌も悪くない。ページをめくり続けた。
私はすぐに異変を感じた。時間を空けてじっくりと吟味する。しかし、体はそれを許さなかった。
窓から射す日の光で私は我に返った。口に手をあてる。体中に汗が滲んで冷たくなっていたが、鼓動速く熱を持つ血流が全身を駆け回る。得も言われる衝撃。突如吐き気を催して洗面台へと駆け込む。胃の中のものが全て吐き出た。不快感を消すためうがいをすれば、冴えわたる頭。呆然として排水溝を見つめる。
彼の作品はこの部屋を射す光よりも輝きに満ちている。あまりに魅惑的な光だった。私が吐き出したのはこれまでの固定観念と彼への認識。彼には何かが宿っているとそう確信した。その光は一色の単一的な光ではなかった。極彩色の羽を纏うアゲハのよう。ページをめくるたびにその美しい言葉の鱗粉が私を魅了した。十年。地中に眠る小汚い色をした蛹は七色の羽をつけた蝶へと羽化した。この読書体験は稀代の文豪の代表作の読後感に引けを取らなかった。
いち早く出社。オフィスに入ってきた上司が挨拶をする前に、私はKの原稿を押し付ける。はじめは馬鹿にしていた上司だが、私の熱心な押しに何か不思議に感じたのか、原稿を受け取ってくれた。
その日の深夜。上司から電話。彼の驚きと絶賛に満ちた声が受話器を反響した。
「明日、編集長に提出する。来週発売の文芸誌に必ず載せる」
上司はそう豪語した電話を切った。
翌日の社内は上司が各所に電話をかけまくったのかその話題で持ちきりだった。原稿を届ける前にすでに編集長の耳に届いていたほどだ。
400字詰め。20字20行の紙束30枚と二枚。12000と621字。その言葉の羅列は一週間後。一字の漏れもなく、文芸誌へと掲載された。評判は上々。私達は火に群がる蛾のように狂乱した。
私が彼の作品から感じ取ったのは数多の文豪の存在。作者不明の古典の名著から現在売れっ子の作家達。絵本作家、詩人、俳人に至るまでの、その片鱗というより、鱗一枚一枚が別の生物のもので構成された異形の怪物の存在を私は感じ取った。それでも言葉は彼のものだ。私が一年と少し読んできた彼のもので間違いはなかった。だが、以前の彼とは別物だった。古典な語り口で堅く重厚感のある描写からはありえない読みやすさ。それは単語がモダンで親しみやすく脳に残りやすいからだと感じる。一癖も二癖もある文体。だが人を選ばず万人に受けるのは見事なまでに洗練された言葉選びの賜物だ。彼の物語を読んでいると幾人もの作家の名前が脳裏に浮かんでは消える。あまりに巧妙に匂いが消され、深く深くに秘匿されている。彼の言葉は独立しているようで、全ての言葉に類似している。
本が出ることになった。彼は自分の名を夜盗と名乗ることにした。意味は教えてはくれなかった。
わずか数週間の間に夜盗はこの国の人気作家になった。元々数か月に一度持ち込むような筆の速さ。この一年で六冊の本を出版しそのすべてが重版された。彼は喜ぶではなくただホッとした表情を浮かべただけだった。
バイトを辞めたんです。迷惑をかけた家族にも恩を返せそうで、よかったです。
そう言って彼は桜の木の下で儚げに笑う。
成功したのにこの男はどうしてこんなにも悲しげなのだろう。彼とは裏腹に私は有頂天だった。何かの縁がある気がして。その一言で我が社が誇る敏腕編集者を退け、私が彼の担当編集となった。柔らかい物腰で、不満漏らさず筆速く、締め切り守り、セクハラも誤字もない。彼の才能に惚れ込んでいた私は作品に口出しもしない。ただ、彼が書いたものを読んで感動し、上司へと引き継ぐ。それが売れればボーナスと社内での地位が上がる。これほど素晴らしいことはない。」
とある授賞式のあと、賑やかなのを嫌う彼を気遣いバーへと連れ出した。酒の入った彼はいつもよりほんの少しだけ饒舌だった。そして私に自身のペンネームについて語ってくれた。
「「夜盗は畑の害虫です。夜に地中から這い出して作物を食い荒らし朝になればまた地中へと戻る。その繰り返しで蛹になって羽化し、小汚い土色の羽を広げ交尾をし、卵を産み付けまた別の作物を食い荒らす。夜盗は私によく似ています。」
彼は自嘲気味にそう呟いた。酒に弱いのか顔が紅潮していた。
私は死んだ祖父のことを思い出す。祖父は農家だった。小さいころよく祖父の手伝いをしていた。ある時、キャベツの収穫中に汚い葉を取り外していると、無数の卵と醜い幼虫が数匹ついていた。気持ちが悪くなってキャベツを落とすと、祖父jはそれを優しく拾い上げ私にこう言った。
「これはハスモンヨトウという蛾の幼虫だ。葉っぱを食い荒らす農家の敵だよ」
祖父はヨトウムシを摘み出し、手袋をつけた手で潰した。それが気持ち悪くて私はその日から祖父を手伝うのをやめた。
彼は自分のことを盗作者だとかそんなことを考えていて、それが自分の中で罪に感じているのではないか。私はそう考えた。
創作をする人は必ず何かに影響は受けるものです。好きな作家とか作品に偶然的に寄ってしまうことだってありますよ。みんな同じです。ほら、オマージュって言葉があるじゃないですか。そういうものですよ。
「そういうものでしょうか」
彼は少し笑った。それから作品のこと、今後のことについて話し、お会計を済ませ、帰路についた。
私は酔っていた。酒にも自分自身にも。全てが思い通りにうまくいく。これから先もそう信じてやまなかった。彼と私はどこまでいけるのだろう。未来は希望に満ち溢れていた。しかし、私の考えはあまりに楽観的だった。私は彼の担当であったが彼のことを一つも知ろうとせず、ただ彼の作品に酔いしれるだけの一般の読者と何ら変わりはなかった。それが私の過ちだった。
彼が亡くなったのはその翌日のことだった。その日の空はどんよりと曇り、雨が降っていた。
彼は趣味の登山中に足を滑らせて崖から転落し、そのまま帰らぬ人となった。私はその連絡を受け部屋でただ茫然としていた。
34歳だった。稀代の天才が事故で夭折。マスコミも大きく取り上げた。彼の作品は昭和文学史上の奇蹟として後世に引き継がれるだろう。編集長は会見でそう語った。
部屋に変わった様子も遺書も見つかっていないことから自殺ではなく、事故だと判断された。私も取り調べを受けた。ここ最近、彼に変わった様子はありませんでしたか。
いいえ。ありません。彼は出会った当初のままストイックに作品を書いていましたから。プライベートも特に大きな関りもありませんでした。前日はたまたまバーで二人で飲みましたが普段通りの彼でした。
葬儀も済んで、彼の死から一週間が経った頃に彼から手紙が届いた。日付は彼が死んだ当日のものだった。
私は自室に戻り、慎重ににナイフで糊を剥がし、丁寧にそれを取り出した。
遺書
と鉛筆で小さく書かれていた。
このような形であなたに手紙を書くことになってしまい、本当に申し訳ないと思っています。恐らく私は崖から誤って落ちた不慮の事故として処理されると考えます。雨も降るそうですし、険しい山道ですから、まず間違いないと思います。
私の死因についてですが、そこに貴方は全く関係はありませんと断言しておきます。貴方が私のことで強く思い悩まないようにここではっきりと明記します。私の死因は私自身の問題です。己の惰弱な精神が招いた結果にすぎません。
酒に酔って、あなたには少し話しましたね。私の名前について。私は小さいころから本が好きでした。ジャンルは問いません。物語でもノンフィクションでも図鑑でも雑誌でもすべてが私にとって未知の光に満ちていました。スポーツも勉強もからっきし駄目で、さらに吃りがありましたから学生の頃から蔑まれ馬鹿にされました。私は特に宮沢賢治が好きでした。辛い時でも春と修羅の一説を心の中で諳んじれば心がすっと軽くなるのでした。
小説家になりたいと思いました。大学を卒業しても何所も私を雇ってはくれませんでしたから、バイトをしながら小説家という細い蜘蛛の糸を登り始めました。 創作において、自身の持つ力量でいかによいものが作れるかが私の至上命題でした。それこそが私の人生でした。よいものを書く。それ以外何も目標は必要ありませんでした。ただ書き続けました。数か月に一度、出版社に持ち込みを行いました。そんな日々が五年続いたころ家を追い出され、生活が苦しくなり、シフトを増やしました。それでも作品を出すペースは落とさず仕事以外はずっと書き続けました。10年が経って貴方が入社しましたね。その頃の私はもう限界でした。体は年を重ねるたびにガタがきて、不摂生な生活。お金も底をつきかけ人生に絶望しました。己の作品ではもう限界が近いとそう悟りました。一切のプライドを捨て、お金のために作品を書き始めました。
売れる本とは何か。それは売れている本が答えを知っている。私は今に至るまで名著と言われる本を貪るように読みました。本だけではありません。歌も詩歌も劇も人並み以上に触れてきたと自負しています。売れるものには必ず共通する何かがある。私はそれを盗みことにしました。
盗作です。ただし、悟られてはいけません。ヒグマが雪道に残る足跡を消すように私は文章からその一切の匂いを消し、私の言葉として上書を行いました。稀代の文豪、俳人、詩人、専門書、エッセイに至るまで、全ての要素を一つに束ね文章にすることで、言葉は極彩色の光を放ち始めました。言葉を綴る。一文字ではただの炭の塊にすぎませんが、文章として成った時にそれはキラキラと輝く宝石のようになるのです。私はその魅惑的な光に魅せられました。
そして一作目が完成しました。作品は見たこともない光を煌々と放っておりました。貴方に作品を渡す前から私は大きな確信をもっていました。
その確信はすぐに結果として現れました。火に群がる虫のようだ。そう思いました。本になって大きな賞を獲りました。審査員は満場一致で私の作品を大賞に仕立てたと後で聞きました。言葉の光に集まった蛾は、その強すぎる光にその身を焦がしては散っていった。私もその限りではありませんでしたが。
執筆はいつも夜でした。夜ごと窃盗を行い、言葉を齧り取る。言葉から言葉へ。生まれ貪り、また生まれ。己の羽が元からそうであったように蛍光色の羽を広げる。その醜さが夜盗のようだと思い私は自身にこの名前をつけました。
昨晩、あなたはこう言いましたね。創作を行う者は多少なりとも他の創作者から影響を受けると。好きな作品と近しいものは偶然出来てしまうと。
その偶然が美しいと思いました。以前の私はそうでした。自分の好きなものを好きに描く。その偶然の産物を私は愛していたのです。しかし、今の私は偶然を必然のものにする機械のようです。私自身、私のことが許せなくなりました。
貴方は変だと思うでしょう。読者は面白ければよいのです。極彩色の言葉の輝き。それが私の魅力であり、私が求められる理由です。機械的に均一に。およそ90点の作品を出し続ければ生活は安定。名誉も名声も失うことはりません。しかし本当にそれでよいのでしょうか。もう私には分かりません。今更夜盗ではなく私自身の作品を書いても相手にされないでしょう。夜盗は私ではなく、過去から現在までの言葉の集積体なのですから。
小説家になることが私の夢でした。でも私はその地位が欲しいわけではありませんでした。私の好きなものが作品となり、誰かの好きなものであり続けることが私にとっての幸福なのです。でもそうはならなかった。そうはならなかったんです。
光を集め続けて蛍光色の羽をつけても私は蝶にはなれませんでした。常夜灯に群がる蛾でした。夜盗はいつまでたっても夜盗のままでした。美しい羽ばたきには相応の醜さが宿るものです。醜い姿のまま飛ぶことを私は許すことが出来ませんでした。醜いまま不格好に飛ぶことが出来たならどれだけ幸せだったでしょうか。
この手紙の内容は出来れば伏せておいてください。読者は夜盗としての私が好きなのです。変に私がでしゃばることで捻じ曲げたくはありません。ではこんな手紙を残さなければよいと思われるかもしれませんが一人の人間として誰かに話したかったのです。読み終わったなら芥箱にくしゃくしゃにして捨てるか、燃やして灰にでもしてください。それでは私は行くことにします。
私は読み終わった手紙を丁寧に折りたたみ、元の封筒の中へと戻した。長い間椅子に座って考えた後、席を立ちスーツに着替え、私は会社へと歩を進めた。