思い出
かつて、親友の頼みで、思ってもいなかったアナウンサー試験を受けることになった
12月になると表参道の木々にはイルミネーションが取り付けられ、一段と華やかさを増す。
いつも渋滞する表参道を通り抜け神宮橋を渡ると聳え立つようなNHKホールが目に飛び込んでくる。
この風景をもう何年見続けて来ただろうか?
いつの間にか年の瀬にはNHKホールでN響の第九を聞くのが我が家の恒例となってから久しい。
そして、外壁に取り付けられたNHKの3文字を見ると、何故か決まって思い出すことがある。
そう、あれは数10年前、1958年のことだった。
◆ ◆ ◆
1958年
戦後の就職難時代はまだ続いていた。
大学は出たけれど・・・
多くの学生が就職することができなかった。
「よっぽどのコネでもなくっちゃね」
まるでそれが合言葉のようになっていた。
私大の4年生だった私に就職先があるはずもない。
「おまけに女性じゃね。女性の4大卒なんて、どこも欲しがらないでしょう。せめて短大ならねぇ・・・」などと、そんな声も聞こえてきた。
はなから就職はあきらめていた。
そして、アルバイトをさせていただいている博多帯の問屋さんから
「卒業後も続けて良いですよ」との言葉をいただいていたので、そのまま、お世話になろうと考えていた。
その日、キャンパスへ行くと、私にとってはたった一人の友人である郁子が「待っていました」とばかりに駆け寄ってきた。
4年近くも大学に通っているというのに、私に友と呼べるのは郁子一人しかいない。
それというのも、中学2年生だった5月のある朝突然に
鏡の中に変な顔を発見したのが発端だった。
それが自分の顔であることが分かると、それからは誰にも自分の顔を見せたくないと思うようになり、いつしか対人恐怖症になってしまっていたからだった。
とにかく、顔を見られたくはない。
だから、誰かに声をかけられても、出来るだけうつむいて、通りいっぺんの挨拶がすむと、そそくさとその場を立ち去るのが常だった。
そんな私と、仲よくしようなどという人は誰もいない。
でも、私は顔をまともに見られる恐怖よりも孤立を気に入っていた。
しかし、郁子は違っていた。そんな私にいつも声をかけてくれ、いろいろな情報を教えてくれた。
郁子は、明るく快活で誰とでも気軽に話ができる人だった。
言ってみれば、
クラスの人気者と言っても良いのかもしれない。
郁子と話をするのは楽しかった。そして、そんな対人恐怖症の私にとって、郁子はただ一人の友人となったのだった。
郁子は人気者だったから、いつだって、誰かと話をしたり、笑い声の輪の中心にいたりする。
そんな郁子が、「待ってました」とばかり、私の方へやってくるのだから、驚かないわけにはいかない。
「どうしたの? そんなに慌てて。」
「実は、実は相談があるんだ。
私、アナウンサーの試験を受けようと思うの?」
「え、今までそんなこと一言も言ってなかったじゃない?」
「うん。いろいろ、考えてたんだけど、とにかく、マスコミ関係の仕事をしたいから、アナウンサーも良いかな?と思ったわけ。」
「でも、アナウンサーの試験って難しいらしいじゃない?」
「難しいらしいけど、とにかく、受けてみたくなったの。」
「そうか。郁子は声が綺麗だし、アナウンサーに向いてるかもね。」
「そう思う? 嬉しいな。」
と、そこへ同じクラスの磯野君がやってきた。
「なんだか、楽しそうだね。二人でなんの密談しているの」
即座に郁子が答えた。
「私、アナウンサーの試験受けるの!」
「そりゃ良い!君なら絶対いけるよ!ばっちりだ!」
「そう思う? 嬉しいな! 頑張るね」
「おお、頑張れよ!」
磯野君はそう言って去っていった。
「なんだ、郁子は私に相談ではなくて、もう試験を受けることを決めているんだ。」
「うん。アナウンサーのこと考えたら、自分に向いているのじゃないかと思われて、折角のチャンスだから挑戦しようと思うの。」
「それは、絶対、挑戦する方がいいわよ。応援するから」
「それで、お願いがあるのだけど・・・」
「え? 私にお願い? って、なーに?」
「アナウンサーの試験って。応募者が1000人くらい来るっていうし、」
「1000人も? そんなにくるんだ。」
「だから、一人では心細いから、一緒に試験を受けてもらいたいんだ。」
「え?え? 私に?」
「うん。だって、ほかに頼む人いないんだもの。」
「冗談じゃないわよ。私が対人恐怖症なの知っているのに。
誰かと話すのも得意じゃないって。
それに、私と違って郁子はいっぱいお友達がいるじゃない」
「うん。でも、なんだか、頼みにくいんだ。
だから、一生のお願いだから、もちろん、一次試験だけで良いから一緒に受けて」
「一次試験て何するの?」
「音声テストだって」
「音声だけ?」
「良く分からないけれど、そうらしいよ」
「音声だけか・・・ 音声も聞かれるの嫌だけど、顔を見せなくても良いのならまあいいか」
そこまで言われては、たった一人の友人、郁子の頼みに No. とは言えなかった。
「本当に一次試験だけよ。まあ、私が音声に受かることはないから、その点は安心してますけどね。」
そうして、郁子と私はNHKのアナウンサーの試験を受けることになった。