聖女マリアは婚約破棄騒動をスッキリ解決させたはずですが、どうやら厄介事は終わっていなかったようです。
和ノ国──世界の東にあり、つい数十年前に開国したばかりの国である。
それまでは、外国からケガレを持ち込まれるのを防ぐべく、鎖国体制を徹底していた。
もっともそれは建前で、本当は外国の“教会”の勢力を危惧していたためだ。
“教会”は世界中に勢力を拡大して、時に政治をも左右していた。
それほどまでに“教会”の力が強いのは、この世界には人間の他に“ヒトナラザルモノ”か存在しているからだ。
和ノ国ではその中で良いモノを“カミ”、悪いモノを“アヤカシ”と言う。
“教会”は、“ヒトナラザルモノ”と対話したり、時に祓うことで、民衆から信頼を得ているのだ。
“教会”の者以外にも、そういった力を持つ者はいるが、“教会”には質も量も多く揃っている。
そういった力が、やがて和ノ国を脅かすと考えた、当時実権を握っていた将軍が鎖国をした。
しかし、近年になって“教会”が和ノ国に存在する“カミ”に目をつけた。
教会は、世界を創造したという唯一神への絶対信仰を掲げており、本音を言えばそれ以外の“ヒトナラザルモノ”はどれも下劣なモノと見下している。
しかし、世界各地においてそれぞれの民族が古くから信仰してきた、いわゆる“カミ”の力は無視できないモノだった。
教会は“カミ”を保護するという名目で自分達の庇護のもとに置き、“カミ”を利用しようと目論んだ。
その“庇護”という名の制圧の最終地点が、和ノ国なのである。
教会は、和ノ国の“カミ”を利用すべく、着実にその勢力を浸透させつつあった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ここは和ノ国、皇城。
開国と共に建てられた、西洋風の城の大広間では、西洋を真似たダンスパーティーが行われていた。
「マリア!!本日を持って、貴様との婚約を破棄する!!」
しかし、今日はいつもと雰囲気が違っている。
人々の注目の中心にいるのは、三人。
赤色の燕尾服を着た派手な格好の青年の隣に黒髪の少女が立ち、その二人にし対して金髪碧眼の容姿を持つ白と青の一人だけ異質なドレスを着た少女が立っていた。
赤色の燕尾服を着た青年は、和ノ奴国第二皇子·皇杞明彦──和ノ国の皇子でありながら将来の期待が薄い人物である。
金髪にピンクの瞳の少女は、マリア──教会の枢機卿の孫娘にして、十四歳という若さで“聖女”と崇められ、また明彦の婚約者である。
明彦の隣にいる少女は平野莉子──明彦がマリアという婚約者がいるにも関わらず、執心している子爵家の令嬢である。
そして今この時、明彦がマリアに対して婚約破棄を言い渡したのである。
それに対する周りの反応は、驚く者もいたがほとんどは妙に納得した様子だった。
明彦が莉子にご執心なのは、貴族の間でも他愛もない噂として流れていた。
マリアとの不仲説も流れていたので、『やっぱり……』という反応が多いのである。
言い渡された本人は、笑顔を絶やさず冷静な様子だ。
「いいか?異論は認めん!!」
明彦は、尊厳な態度で譲らない様子だ。
「一方的に婚約破棄を言い渡されましても、困るのですが……。そもそも、私には“婚約破棄”の話など耳に入っていません。そういった大切なことは、相手である私や教会側と事前に話をした上で、公の場において発表するべきなのではありませんか?」
十四歳でありながら、三つ年上の明彦に対する正論に、周りは関心した。
『耳に入っていない』と言ったが、実際はこうなるのではないかと薄々ではあるが予想はしていたのである。
マリアと明彦が婚約したのは、遡るニ年前のこと。
祖父に連れられてこの国に来て、皇室への謁見の際に出会った。
その時に、当時十二歳であったマリアに明彦が一目惚れしたのである。
教会はこれを好機と捉え、マリアと明彦の婚約を結んだのである。
マリアは明彦との時間ももちろん作ったが、それ以上に“カミ”との交流や貧しさに悩む人達への奉祀にも全力を注いでいた。
実は、マリアは権力に塗れた教会の特に上層部を嫌っており、できるなら“カミ”を教会から守りたいと考えていた。
そういった理由もあって、明彦との結婚を受け入れた。
しかし、マリアが奉祀活動に精力的になるのを明彦は快く思わず、そこに言い寄ってきた莉子に心変わりしたのだ。
それを知るのに、マリアもそこまで時間はかからなかった。
それでも、動揺や嫉妬の素振りは見せなかった。
そもそも、初めてあった時から自分の容姿にしか目の行かない明彦になど、期待はしていなかった。
莉子に関しても、愛人の枠にでも入るだろうとだけ考えていた。
政略的に双方に大きな意味を持つこの婚約を、まさか破棄することはないと踏んでいた。
そう──そこまで明彦が馬鹿で阿呆ではないと思っていた。
しかし、莉子のある行動で、その考えが甘かったことをマリアは悟る。
莉子はあろうことか、年下のマリアに陰湿な嫌がらせを受けているというデタラメを明彦に話し始めたのだ。
その真意はマリアへの嫌がらせなのだろうが、それを真に受けた明彦がマリアに対して制裁の意を込めた婚約破棄をこうして言い渡したのである。
「口答えをする気か!!」
カッコつけている姿ですら、もはや見苦しく見える。
周りの者達が、軽蔑と嘲笑の眼差しを明彦に向けていることに、本人は気づいていない。
元から馬鹿な皇子であることを示唆されてきたが、それが今回の一件で決定的なものとなった。
無駄かもしれないが、教会における“聖女”として、マリアは明彦と真っ直ぐ向き合おうとした。
「口答えではございません。私は、そのような重要事は当事者の一人たる私にも知らせるべきであったという助言を申しているのです。それに、なぜ婚約破棄をしなければならないのかの理由のご説明もしっかりとしていただかなくてはなりません。」
マリアは真摯に思いを伝えたつもりだったが、明彦は単なる言い訳や言い逃れと捉えた。
マリアを、莉子を虐めた“悪女”と完全に思い込んでいるため、その言葉の真意は届かなかった。
「フンッ!!この聖女の面を被った悪女め!!皆は貴様を聖女と信じて疑わないようだが、私は騙されんぞ!!理由など簡単な話だ。貴様は、莉子の心を踏みにじるようにして虐めていたそうじゃないか!!そのような性悪女を皇室に迎え入れるなど、もっての外だ!!」
ビシッと決めて言った明彦の横にいる莉子が、マリアを見てクスッと笑っている。
いわゆる、勝ち誇った顔だ。
マリアは今まで笑顔を貫いてきたが、冤罪を突きつけられると同時に眼差しが変わった。
「私が莉子様を虐めたと……そうおっしゃるのですね?」
「当然だ。貴様のせいで、莉子がどれほど辛い想いをしたと思っている……、この罪人が!!そこに跪いて、莉子に向かって土下座しろ!!」
ゴミでも見るかのような目で、明彦はマリアを睨みつけた。
周りの者はマリアが冤罪であることに気づいているが、庇おうとする者は誰一人いない。
皇族を敵に回すような度胸など、持ち合わせていない。
もっとも、見て見ぬふりをするのも一つの生き方、一つの手段である。マリアはそう割り切っている。
しかし、今一番許せないでいるのは、明彦だった。
話を聞いただけでそれを盲目的に信じ、証拠も無しに大勢の前で罪をでっち上げたことに心の底から怒っていた。
マリアは厳正な法と確かな証拠のもとで、罪人は裁きを受けるべきだという正義を持っている。
一度“罪人”というレッテルを貼られると、それは一生まとわりつく。だからこそ、裁きをする側には裁きをする責任がある。
しかし、目の前の明彦はそんな責任感など一切感じさせず、思い込みだけでマリアを裁こうとしている。
それが、マリアにとって突然の婚約破棄以上に許せないことだ。
「……そこまでおっしゃるのであれば、証拠をお見せください。」
マリアの表情に、先程までの笑顔はなかった。
周りには、背筋も凍りそうな空気が流れている。
「そんなもの、簡単な話だ。莉子の証言がある。莉子、君さえ良ければみんなの前で話してやってくれ。あの悪女の数々の悪行を。」
莉子に向ける明彦の眼差しは、女に入れ込んで堕落した男そのものだった。
莉子は明彦に話しかけられると途端に雰囲気がガラリと変わり、まるで悲劇のヒロインのように哀愁漂わせる空気を纏った。
「はい……。あれは確か、女学校の帰り道でのことでございます。私は突然マリア様に呼び止められて人通りのない裏道へ連れて来られ、女学校の制服を鋏でボロボロに引き裂かれました。それから、毎日のように虐められて……」
莉子は両手で顔を覆い、いかにも泣いているかのような演技をした。
冷静になれば演技だと分かるだろうが、明彦は莉子にすっかり心を奪われていて、盲目的になっている。
するとそこへ、莉子や明彦と同い年ぐらいの少女達の集団が出てきた。
「それが事実であるのならば、これは由々しき事態ですよ、マリア様。教会の枢機卿の孫娘ともあろう貴方様が、いたいけな乙女を虐めるなど。」
先頭にいるリーダーらしき少女が、扇子でマリアを指しながら言った。
このリーダーらしき少女の名は倉橋華子──歴史的に最も有名な陰陽師·安倍晴明の末裔にして、侯爵家の令嬢である。
取り巻き達も、陰陽師や呪術師に関わる家系の令嬢である。彼女達の実家は、どれも教会に反発的な態度を見せている家である。
当然、教会の人間であるマリアのことも、快く思っていない。
「私は、断じて莉子様のことを虐めてなどおりませんよ。先程話されたことにも全く身に覚えがありません。第一、私は莉子様とこうして関わるのは今日が初めてなのですよ。」
マリアの言ったことは事実だ。
彼女のことは、明彦が自分から心変わりした女性だと聞いて、知っていた。
夜会で何度か見たことはあったものの、直接話すのはこれが初めてだ。
しかし、それを明彦が信じるはずもなかった。
「何だと!!この期に及んで、まだしらを切る気か!!」
明彦は自身の全身全霊を込めて怒鳴った。
しかし、マリアにとってそんなことは、知ったことではない話だ。
マリアは深くため息をついて、莉子の方を向いた。
「莉子様。では当然ながら、私が破いたというその制服は持って来ていらっしゃるのですね?」
証拠提示は罪を明らかにするための大切なピースだ。たとえ偽造でも、それくらいの演出は持って来ているだろうとマリアは考えた。
偽造でもボロボロになった制服があれば信憑性は増してしまうが、マリアにはその制服からでっちあげの証拠があると思っているのだ。
しかし、莉子はそれに対して少し目を泳がせた。
「そ、そんなものは捨ててしまいました。それを見ていると、マリア様に虐められたことが脳裏に浮かんでっ……」
莉子は再び手で顔を覆い隠して泣いたフリをして、動揺していることを隠した。
だがそのおかげで、明彦の怒りがさらに増した。
「この人でなし女っ!!そんなに可愛い莉子を虐めて楽しいか!!」
初めは証拠も無しに自分にあらぬ罪を被せた明彦に怒りを見せたマリアだったが、不躾にもだんだん馬鹿らしく思えてきていた。
周りの者達も、皇子のロクでなさに引いており、また笑いを堪えている者もいた。
しかし、冤罪を着せられたまま黙っているようなマリアではない。
莉子があらぬ罪状を告白したその時に言ったある言葉に、マリアは僅かながら突破口を見出した。
「莉子様。私がその制服をボロボロにしたという日時は覚えていらっしゃいますでしょうか?」
その問に対して答えたのは、明彦だった。
「三ヶ月前の一月二十六日だ。忘れたとは言わせんぞ!!翌日に、莉子が泣きなが私のもとへ来たのを昨日のことのように覚えている!!」
意外にも日付をはっきりと覚えていたことには、関心させられる。
それを聞くと、華子はピクッと眉を動かして、先程までより態度が少し小さくなった。
「そうですか。……しかしおかしいですね。一月二十日から二月一日まで、私は伊勢の大神宮にいらっしゃいます皇大神様のもとにおりました。その日も、皇大神様と話をしたりして、一日中大神宮内におりましたが。」
それを聞いた莉子は、真っ青になった。
そもそもマリアは年中忙しくしており、大抵は誰かの目の届くところにいる。
莉子をわざわざ虐めに行くなど、時間的に不可能なのだ。
「デ、デタラメを言うな!!貴様、我ら皇族の祖にあたる皇大神様の名を出すなど──」
「でしたら、ご本人に聞いてみてはいかがですか?あの御方が嘘をつくなどあり得ないことぐらい、私より貴方様のほうがよくご存じなのでは?」
それを聞くと、先程まで威勢の良かった明彦が口をつぐんだ。
皇大神とは、先程明彦の言った通り皇族の祖先にあたる“カミ”で、太陽神として信仰されているこの国の“カミ”達の頂点に立つ存在である。
ちなみに姿形は人間の女性で、かなりの美女である。
政には一切関わらず、人々に幸せと太陽の恵みがもたらされることを大神宮で毎日のように祈っている。
マリアとも、仲が良いのだ。
皇大神の名を出されると、流石の明彦も混乱している。
しかし、莉子は真っ青になりながらも諦めていない様子だった。
「つい一昨日の午後二時頃、街に出てきて偶然マリア様にお会いしてしまった時、頬を思い切り叩かれました!!」
どこか必死になっている様子だ。
先程までの余裕は見られない。
「その日のその時間帯ならば、我が白川家にその女は来ていたぞ?」
そう言って出てきたのは白川玲司――――皇室の祭事を司るまじない師の家系である白川家次期当主にして、侯爵家の令息である。
綺麗な黒髪に、女性なら誰もが惚れ惚れする美貌持つ十七歳の青年である。
マリアは、白川家とは他の家と比べて割と仲良くできている。
ちょうどその日も、白川家でまじないの術を教わりに行っていた。
玲司が出て来てマリアを援護すると、莉子は愛らしい顔立ちに似合わずギリッと歯ぎしりを立てた。
思わぬ助っ人に、マリアは少し安心感を覚えた。
「おい貴様!!まさかそこの白川玲司と不義密通をしていたのか!!」
マリアも、そのことだけは明彦にだけは言われたくなかった。
しかしながら、この国には妻の不義密通は相手の男性と共に罪に問われるが、夫の不倫は合法的という意味不明な法律があるのだ。
「違いますよ。私は白川家にてまじないの術を教わったり、過去の祭儀について色々と調べたりしていたのです。証拠も無しにいちいち罪を問うようなことはしないでください。」
この後に“不愉快です”と付け加えたかったが、不敬に問われる可能性があったので、なんとか言わずにいた。
「いいや、信用ならないな。なぜなら貴様──」
明彦が元のテンションに戻ったが、その直後に後ろから誰かの手刀を頭に食らった。
結構痛かったのか、明彦は頭を押さえて涙目になった。
「まったく、我が弟ながらなんてざまだろうね。」
呆れたように言った男性の名は皇杞龍雅──和ノ国の皇太子、つまりは明彦の兄にあたる人物である。
子供っぽい弟と違い大人の色香で溢れており、その魅力は老若男女問わず虜にする。
その横にいる女性は、龍雅の婚約者の公爵令嬢·藤原花澄である。
この二人は貴族の間でも“お似合いの二人”と言われ、当人同士もとても仲が良い。
「痛っ……。何をするのですか、兄上!!」
「これくらいで音を上げていては、お前もまだまだみたいだな、明彦。」
龍雅は顔は笑顔だが、目は笑っていない。
爽やかすぎる笑顔が、逆に気味が悪い。
龍雅は明彦の耳元に顔を近づけると、他の誰にも聞こえないような小声で囁いた。
「明彦、それくらいにしておけ。話を聞きつけた父上が大変お怒りだ。今すぐ部屋に来いとの伝言を預かっている。」
声一つだけでも、足がすくんで身体が震えるような恐怖を感じる。
明彦は先程以上に顔が真っ青になり、ガタガタと震えている。
「し、しかし兄上──」
「これ以上はこの俺と父上が許さないからな、この皇族の恥晒しが。今までお前の所業には目をつむってきたが、今回ばかりは洒落にならない。よりによって、大切な客人のマリア嬢の顔に泥を塗るようなことをするとは。たとえ主上の息子と言えど、相当の罰があると覚悟しておけ。」
この言葉を聞いた途端、明彦は膝から崩れ落ちた。
放心状態にあるようで、目はもはや死んだ魚のようだ。
そんな弟を見下ろす龍雅の目は、軽蔑と嫌悪の入り混じったものだった。
一方、皇太子の登場で呆気なく幕引きとなったこの展開に、マリアは驚いていた。
「マリアちゃん、大丈夫だったかしら?」
そんなマリアに声をかけたのは、花澄だった。
花澄はマリアにとって、この国にいる数少ない友人の一人である。
ちなみに、花澄の母親は白川家出身で、玲司とは従姉弟の関係にあたる。
「はい、花澄さん。ただ……、あれは大丈夫なのでしょうか?」
そう言ったマリアの視線の先には、放心状態と化した明彦がいた。
「ええ、大丈夫よ。」
花澄はにっこり笑って言った。
龍雅の方を見ると、今度は口を押さえてこれまた真っ青になっている元凶たる莉子に近づいて行った。
龍雅が莉子の目の前に立つと、その色香に莉子はぽっと赤くなった。
「莉子嬢。君には実家共々さらに厳しい罰が与えられるだろう。覚悟してくといい。」
しかし、龍雅の恐怖を感じさせる表情と口調を聞くと、たちまち真っ青になった。
その光景を見ていたマリアは、なんとか一段落したと安堵の息をついた。
「マリアちゃんには、本当に迷惑をかけてしまったわね。本当にごめんなさい。」
花澄は頭を下げて謝った。
「そんなっ……。花澄さんのせいではありませんよ。」
「教会に納得していただけるかどうか分からないけれど、裁きはこちらでやらせて欲しいの。きちんとケジメをつけるためにも。」
教会の力が及んでいる国では、裁判は教会に任されている。
この国も、また然りだ。
「私の方でも何とか掛け合ってみます。まあ、皇族絡みの一件ですから、例外として認められる可能性はあると思いますよ。」
マリアと花澄は、互い微笑み合った。
そこへ憲兵がやって来て、明彦と莉子を立たせた。
連行される直前、莉子は華子をほんの一瞬チラッと見つめた。
しかし、それをわざと無視するかのように華子とその取り巻き達は莉子と反対方向を向いてその場を去った。
連行が終わると、皇太子·龍雅が会場内の者達に謝罪をし、パーティーは再開された。
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それからほどなくして、マリアと明彦の婚約が解消された。
裁きに関しても、教会は驚くほどあっさりと皇室側に一任した。
その代わりに、和ノ国中全ての“カミ”を教会の庇護のもとに置くという条件を提示した。
今回の件は、明らかに和ノ国側に過失があるため、断ることなどできなかった。
明彦は戸籍上は皇族として残るが、政治的権限などを剥奪され、北の方へ修行に監視付きで出された。
莉子に関しては、実家は子爵位を剥奪され当人は製糸工場に奉公として駆り出された。
明彦は終始自らの行為を反省する態度を見せず、莉子はずっと怯えて気が狂ってしまったようになった。
教会は“カミ”を庇護のもとに置くと言ったものの、それに際して皇族側から提示されるのは、和ノ国にいる全ての“カミ”に関するデータだ。
土地神などで人々と交流のある“カミ”ならまだしも、そうでないモノはほとんど人々に知られておらず、情報を得ることすらできない。
皇室の掴んでいる全ての“カミ”に関するデータを得ることで、監視下に置くことができるのだ。
“カミ”にも自我があり意思もあるので、全て教会の思惑通りというわけではないが、何かしろの駒に利用することはできるのである。
マリアはそんな教会のやり方を良く思っていないが、祖父も上層部も彼女の意見に耳など貸さないのだ。
兎にも角にも、明彦とマリアの婚約解消は世間にも発表され、結構な騒ぎになった。
明彦が龍雅に比べると能力が劣っていることは世間でも少しだけ知られていたが、それが今まで民衆が認識していたより遥かに駄目皇子であったのだ。
ある者は嘲笑し、ある者はひたすら罵倒した。
毎日のように教会本部の前には記者が押しかけ、マリアに質問しようとしていた。
「すみません、花澄さん。」
そういうわけで、身を潜めるためにマリアがやって来たのが、帝都一と言われる女学校にいる花澄のもとだった。
女学校は全寮制で、お堅い校風が特徴的である。
パーティーにいた倉橋華子嬢、その他取り巻き達も在籍している。
「いいのよ。なんだったら、熱りが冷めるまでずっとここにいてもかまわないわ。」
「そ、それは流石に学校側に悪いです……」
マリアは、面会という形で今までも花澄とたまに会っていた。
記者が押しかけるようになった二十日前からは、自らに縁のある人々の場所を転々としている。
ちなみに、今日であの婚約破棄騒動からちょうど一ヶ月と一週間が経つ。
「あら、そう?……でも、確かにここには長居しないほうがいいかもしれないわね。なんせここには、“倉橋派”もいるから。」
“倉橋派”とは、倉橋華子の実家である陰陽師一家の倉橋家を中心とする貴族間の派閥である。
「……そうですね。」
マリアもその意見に頷き、10分後にはその応接室をあとにした。
しかし、気をつけていたにも関わらず、“倉橋派”の令嬢達に廊下でばったりと出会ってしまった。
「あら、花澄様にマリア様ではございませんか。ごきげんよう。」
リーダーの華子に続けて、メンバー達も「ごきげんよう」と挨拶をして、スカートの裾を持って息の合ったお辞儀をした。
練習を日々行っているのではないかと思えるほどに、きれいに揃っていた。
「ごきげんよう、皆様。」
「ごきげんよう。」
マリアと花澄は、丁寧に挨拶を返した。
ここにいる少女達は皆、笑顔を取り繕ってるが、腹の中では何を考えているのか想像もできない。
「マリア様は、あの一件以来毎日のように記者から追いかけられておられると聞き及んでいましたが、よもやこの学校に逃げ込んでいらっしゃいましたとは────」
驚き、哀れんでいるようにしているが、その裏にはとてつもない憎悪が隠れている。
華子をはじめとした令嬢達から、マリアは微かにそれを感じ取っていた。
「私がお呼びしたのです。私達は友人ですから、こうして会うのは不自然なことではないでしょう?」
何かを言い返そうとしたマリアを遮るように、花澄が言った。
「まあ、いいですわ。では、私達はこれで。」
どこか余裕めいた表情で、すれ違って行った。
しばらく行ったところで華子達は、わざとらしく止まって言った。
「そういえば花澄様、龍雅様とは仲良くされていらっしゃるのかしら?」
それを聞くと、花澄は何かを思い出して笑顔が消えて狼狽した。
これ程花澄が取り乱す姿を、マリアも見たことがなかった。
「え、ええ勿論。」
立て直したが、その言葉にあまり余裕はなかった。
「そうですか……。それは良かった。」
よく見えなかったが、マリアはそう言った華子が薄っすらと不敵な笑みを浮べているように感じた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
場所は変わり、白川家邸宅。
マリアが女学校を出た後に、記者から遠ざかるために駆け込んだ場所がここである。
和ノ国でも指折りの名家·白川家の邸宅だけあって、その広さは尋常ではなかった。
場所は帝都から少し離れた山の麓にあり、山も含めて白川家の敷地である。
敷地内には、木や水、花、土などの様々な精霊達が住んでいる。
精霊達は邸宅内にも自由に入ったりしており、少しほんわかしたアットホームな雰囲気なのである。
そして、現在マリアは茶室にて玲司の点てた抹茶を飲んでいた。
玲司は、質素な浴衣を着ている、
抹茶は、苦味に慣れていないマリアのために、玲司が特別に用意した甘いものである。
抹茶を飲むと、マリアはほっこりしたような表情になった。
その周りには、様々な姿形をした精霊達がいた。
小さくて可愛らしい童や、二足歩行の狐や狸などの動物達などである。
彼らは言葉を発しない者が多いが、意思や心はちゃんとある。表情や行動で意思を表すのだ。
マリアの周りでは楽しそうにじゃれ合ったりして、玲司には身体を寄せたり肩に乗ったりと、明らかに懐いている様子だった。
「ここはやはり落ち着きますね。こう、心が洗われるようで。」
「当然だ。ここは白川本家の敷地、この国でも随一と言っていいほど気が澄んでいる場所だぞ。」
玲司が、『当たり前である』といった冷静な──悪く言ってしまうと少し冷たい口調で言った。
彼が冷たい印象を他人に与えがちなのは今に始まったことではない。
当初マリアも、彼に対して氷柱のような鋭く冷たい印象を持っていた。
しかし、交流を重ねるにつれてその本質は優しさに満ちていると分かった。精霊などの“カミ”達だけでなく自然や動物達を尊び、愛しているのである。
それから、これはマリアがふと気づいたことなのだが、玲司は花澄に想いを寄せているのである。
彼は花澄と接する時だけ、微妙に柔らかい表情になる。夜会の時も花澄を見つめていることが多いので、間違いないと思っている。
しかし、花澄は龍雅の婚約者であり、龍雅を愛しているため、叶わぬ恋といったところがマリアも少し心中複雑なところだった。
「あの、玲司。今日こうして訪問しましたのは、気になったことがあるからなのです。」
マリアは、急に真剣な表情になった。
「なんだ?」
「……今日、女学校にお邪魔しました時に“倉橋派”の皆様にお会いしました。その時の態度──花澄さんへの態度が前よりも傲慢……、というより余裕があるようなものなっていたように感じられました。花澄さんも、何か少し疲れている様子で……。『疲れているのではありませんか?』と聞きましたが、花澄さんには『大丈夫』だと言われまして──」
マリアは胸のあたりで手を握り、心配そうな表情になった。
「…………」
玲司は心当たりについて、とあることを思い出していた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それは、あの明彦とマリアの婚約破棄が起きた夜会にて、騒動が一段落して夜会が再開した後のこと。
あまり夜会の場を好まない玲司は、バルコニーに出ていた。
すると、そこへやって来たのが倉橋華子であった。
現在、あまり白川家と仲の良くない倉橋家の令嬢が、何の用かと疑問に思った。
華子は、この時ある提案を玲司に持ちかけたのである。
「単刀直入に申します、玲司様。私と手を組みませんか?あなた様が、花澄様を手に入れられるようにしてさしあげげますわ。」
玲司はそれを聞いた時、自らの耳を疑った。
「玲司様は花澄様をお慕いしていらっしゃるのでしょう?女の感で分かりますわ。私も、龍雅様をお慕いしておりますの。しかしお互いに叶わぬ恋……。」
「だから互いに花澄と皇太子殿下を誑かして別れさせようと?……くだらない冗談だな。」
玲司は、全く耳を貸さずにその場を離れていった。
そもそも、玲司の実家である白川家と華子の実家の倉橋家は、表立ったものはないが実質的な対立関係にある。
そんな彼女を、信頼できるはずもない。
しかしそれ以上に、花澄の今の幸せの邪魔などしたくないと思っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……、いじ、玲司!!」
マリアの言葉で、玲司は我に返った。
どうやら、上の空になってしまっていたようである。
「あ……、いやすまない。さっきの話だが──」
玲司は、心苦しいが『心当たりはない』と答えようとしていた。
自分が花澄を想っていることを知られるのが恥ずかしいわけではない。(なお、マリアは気づいている)
しかし、何故かマリアにはそのことを知られたくないと思っていた。
それは羞恥心からくるものではなく、自分でも不思議な感覚だった。
「先程の反応は、何か心当たりがお有りなのですね。」
マリアは真剣だが笑みを浮かべた表情でいった。
────薄々、こうなる気はしていたのだ。
マリアは、他人の表情や心に対して鋭いところがあり、嘘はほとんど無意味なのである。
「……ああ、まあな。」
「もしや、花澄さんと龍雅様を別れさせるのに協力してくれと言われたのでは?」
龍雅は無言でマリアを見つめた。
「……お前、心の声でも聞こえるのか?」
「そんなわけないでしょう?大体、そんな力があったら毎日窶れるまで疲れそうです。」
マリアは、若干ムッとなった表情で反論した。
この反論に、玲司も疑う余地はなかった。
そもそも、先程の『心の声でも聞こえるのか』という質問は、ちょっとした冷やかしのようなものだ。
「しかし、どうして分かった?」
「玲司は花澄さんをお慕いしていますでしょう?華子様も、色々な意味で龍雅様にお近づきになりたいようなご様子でしたので、御二人が利害が一致することと言えばそれくらいかと。」
「……お前、知っていたのか?」
『知っていたのか?』というのは、玲司が花澄を想っていることについてだ。
正直、バレているとは玲司自身も思わなかった。
玲司はクールでほとん表情の緩急を見せないが、マリアは人の表情の僅かな差も見逃さない。
マリアも、敢えて『何がです?』とは聞き返さなかった。
「ええ、なんとなくではあるのですけれど。」
「…………」
玲司は、『敵わないな……』と心の中で呟いた。
「しかし、そこまで分かっていたならわざわざ俺に聞くまでなかっただろうに。」
「事実はきちんと確かめなければなりません。先程のことも、私としては確かめないまで憶測に過ぎないと考えていましたから。玲司、あなたこそ私に華子様に提案を持ちかけられたことを黙っていようとしましたね?なぜです?」
玲司は、普通なら分からない程の刹那の間に狼狽えた素振りを見せた。
マリアの質問に関しては、先程いった通り玲司も分からないのである。
今も、妙にマリアとは目を合わせづらい──いや、合わせたくないような気分だった。
二人の間に、しばし沈黙が流れる。
「……言いたくなければそれで構いません。いつか言っても良いと思える日が来たら、話してください。」
マリアは、基本無理強いをしてまで真実を知ろうとはしない。
なお、相手が有罪確定の犯人ならば別だが。
「今注意すべき点は、華子様が何を考えていらっしゃるのかということです。」
マリアは、深く考え込んだ。
それこそ、眉間にシワができてしまうほどに。
しかし、そんな中で自分の足が感覚が分からなくなってしまうほどに痺れていることに気づいてしまった。
マリアは正座を崩して手で足を揉んだり、力が入りづらいながらも立ち上がって歩いたりして痺れを無くそうとした。
少し苦しそうにするマリアを、精霊達は心配そうに見つめていた。
「大丈夫か?いつもそんな正座をしなくてもいいって言ってるだろ?」
「そ、そういうわけにはいきません……!!」
ようやく痺れが和らいでくると、マリアはホッとしたような表情になった。
「まあ、あの二人のことだ。よっぽど大丈夫だろう。龍雅様には、花澄が御守を渡しているんだし、よっぽど────」
この言葉で、マリアはふと女学校で華子達と会った時のことを思い出した。
『そういえば花澄様、龍雅様とは仲良くされていらっしゃるのかしら?』
『え、ええ勿論。』
『そうですか……。それは良かった。』
(あの時、龍雅様とのことを聞かれると、花澄さんは少し動揺していた。何故……?まさか、龍雅様との間に何かあった?)
「玲司様、お取り込み中のところ失礼いたします。」
マリアが考え込んでいたところに、この白川家の女中が障子越しに話しかけてきた。
「入れ。」
玲司のこの短い言葉の後、障子を開けて女中が床に手をついお辞儀をした。
「失礼いたします。玲司様、日が少し傾いて参りました。そろそろ御支度をお願いいたします。」
「ああ……、もうそんな時間か。」
玲司が立ち上がると、周りの精霊達は『行ってほしくない』と言わんばかりにうるうるとした目になった。
しかしそれも慣れており、玲司は内心ほんの少しだけ名残惜しく思いつつ、その“仕度”に向かおうとした。
「玲司、どちらへ向かうのですか?今日は、どこの家でも夜会などはなかったと記憶していますが……」
「忘れたのか?今夜は満月なんだぞ?」
「……!!」
満月────それは、古来から東西関係なく不吉なものとされてきた。
例えば、この国では満月をじっと見つめると不吉なことが起こるとされ、西洋の方では狼男は満月の光を浴びて本性をさらけ出すとか。
満月の光には魔性を呼び覚ます力があり、あらゆる結界や護法といった術を弱める。
“アヤカシ”が最も蠢く日であるため、全国の術師といった類の者達は夜が開けるまで警戒態勢を敷くのである。
マリアも警戒態勢にならなければいけないのだが、記者に追われたりしてすっかり忘れてしまっていた。
「いけません、すっかり忘れていました!!」
そうは言っても、マリアは自らの対アヤカシ用の術具はいつも持ち歩いている。
あとは、和ノ国教会本部に赴けばいいのだ。
「しっかりしろ。お前は教会の聖女様だろうが。」
「むぅ……。それくらい分かっていますよ!!」
マリアは頬を膨らませた。
いつもは大人しく他人と接しているが、こういうところは年齢相応な態度を見せる。
あるいは、玲司にそれだけ心を開いているということなのかもしれない。
マリアは立ち上がると、先程考えていた花澄のことが頭をよぎった。
今宵は満月────一ヶ月の中でもっとも危険な日である。
花澄ほどの実力者なら、自分の身を守るくらいら造作もない……、はずだ。
しかし、どうしてもマリアは花澄のことが心配でならなかった。
マリアは、先に出て行った玲司を追いかけた。
追いかけたと言っても、廊下に出て左の五メートル先にいたのだが。
「玲司!!」
マリアの呼び声が聞こえると、玲司は足を止めて振り返った。
「忙しいところ、すみません。私は花澄さんのところへ行こうと思います。念の為、今回における花澄さんの担当を教えていただけますか?」
担当というのは、護りの力が弱まる満月の日に何をするかということだ。
花澄は大抵、皇居で皇太子の龍雅および帝の護衛か、帝都の結界維持のための術師隊に加わる。
その担当も、月によって変わることが多く、周囲のアヤカシの分布などで決まる。
「今回、花澄は結界術師隊に加わることになっている。だが、今の時間帯なら女学校から帰って来ている頃だ。車で藤原家の屋敷へ行くのが、一番手っ取り早いと思うぞ。白川家のを貸してやる。」
「分かりました。ありがとうございます、玲司。」
お礼を言ってお辞儀をすると、マリアは振り返って早速向かおうとすると、廊下にいる沢山の精霊達が集まってきたり、手を振ってきた。
マリアも手を振り返すと、精霊達はピョンピョンと跳ねて嬉しそうにした。
一方、マリアの後ろ姿を見ていた玲司は、何か引っかかっているような表情をしていた。
「マリア。」
精霊達に囲まれていたマリアに、玲司が真剣そうな表情で声をかけた。
「すまん、俺も一緒に行かせてもらう。」
「玲司も……、ですか?私は構いませんが、あなたは今夜の護りに徹しなくてもよいのですか?」
「まだ少しは時間がある。それに、どちらにしろ帝都近辺での指揮が俺の役割だ。支障はない。」
こうして、玲司も一緒に行くことになった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そして、時を同じくして皇居では、早くも倉橋家による厳戒態勢が敷かれていた。
「龍雅様、今宵は我々がしっかりとお守りいたしますので、どうかご安心を。」
龍雅の執務室には、華子とその部下数名が挨拶をしに来ていた。
皇太子の執務室だけあり、難しそうな書類や外国語の本が山のようにある。
椅子にかける後ろでは、龍雅の腹心の部下である伊藤が倉橋家を微かに嫌悪感のある視線で見つめていた。
「この頃は、色々とお忙しかったと聞き及んでおります。よろしければ、護りは我々に任せてお眠りくださいませ。」
「いや、それには及ばないですよ。この妖気渦巻く満月の日に、おめおめと寝てはいられません。大丈夫、事前に睡眠は多少とってありますし、仮眠を挟みながら過ごしますから。」
龍雅は、貼り付けた笑顔で華子の意見を却下した。
すると、華子の笑顔がほんの一瞬だけ乱れた。
それを龍雅は見逃していない。
「そうおっしゃると思いました。……そこで、一つ提案なのですが、今宵を我ら倉橋家でお過ごしになりませんか?」
「……ほう?」
その場に、緊張が走った。
龍雅の笑みは美しいのだが、それと同時に畏れを感じさせる程底知れないものだ。
華子やその部下達は、その魔性とも言える笑顔に圧倒された。
「是非とも、龍雅様には我々倉橋家を、一度じっくり見ていただきたいと思っておりました。あちらであれば、護りはこの皇居並みに安全です。いかがですか?」
「実に良い提案かもしれないが、それは却下させてもらう。」
華子の提案に『却下』を出したのは、龍雅ではなく伊藤だった。
「龍雅様は、大変お忙しい。残っている書類の中には機密文書も含まれており、それを外部に持ち出すわけにはいかない。」
明らかに倉橋家に対する挑発のような意図がある口調だった。
伊藤は、倉橋家にあまり良い印象を持っていない。
前々からそうだったが、決定的になったのは明彦とマリアの婚約破棄の件だ。その元凶たる平野莉子は、倉橋家──正確には倉橋華子の命令で、明彦を誑かしたという疑惑が浮上しているのだ。
明彦は落ちこぼれだったとはいえ、皇族を誑かすというとんでもない不敬を命じたであろう倉橋家を、警戒しないはずがなかった。
「そうですね。それも良いもしれません。」
しかし、龍雅は前向きな姿勢をとった。
いつも真面目に執務をこなす龍雅が、それ放置して貴族の屋敷の見学に行くなど、普通にないはずのことである。
「龍雅様、恐れながら正気ですか?」
「私はいつだって正常ですよ。さぁ、そうと決まれば行きましょう。」
明らかにおかしいと分かっていても、伊藤は止めることができなかった。
そして、華子はその影で怪しげな笑みを浮べているのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
日の入り約一時間半程前、藤原家邸宅では夜に備えて花澄が睡眠をとっていた。
しかし、寝ることはできても、ここ最近は疲れは一向にとれない。
理由は、悪夢を見るからである。
それは単なる悪夢ではなく、現実で起こったことのフラッシュバックと自らの被害妄想が混じっている。
その悪夢の元凶となった出来事があったのは、ちょうど一ヶ月前のことである。
それは、女学校にて貧しい子供達のためのボランティア活動を行っていた時だった。
その日は、視察として龍雅も来ていたのである。
「龍雅様。ずっと前から、あなた様のことをお慕いしております。」
そんな告白の場面を、偶然にも聞いてしまった。
告白したのは、母の実家である白川家と事実上の対立関係にある倉橋家令嬢·華子である。
告白と同時に華子は龍雅に抱きついた。
その時、花澄は生まれて初めて心が乱れるような大きな感情に襲われた。
────いわゆる、嫉妬である。
龍雅の答えは、もちろん『NO』だったが、華子は食い下がった。
結局、龍雅のガードの硬さに華子は手を出せなかった。
しかし、花澄の心には十分と言っていい程響いた。
龍雅の愛を失うかもしれないという畏れ、自らがこんなにも嫉妬深い女だったのだという絶望感。
それが複雑に絡み合い、花澄の精神をこの一ヶ月で蝕んでいき、やがて身体にすら影響が出始めてしまっている始末である。
だが、そんな体調でも花澄は結界術師隊のもとへ行かなくてはならない。
結界術師が、今月に入って体調不良で倒れる者が増加し、人手不足なのである。
しかも、花澄の代わりに皇居に配置されるのが華子率い倉橋家なのである。
花澄は、余計に精神をすり減らしていた。
巫女装束に着替え、結界術師隊の詰め所へと向かうべく車に乗ろうとした時、見覚えのある車が一台、門を通ってやって来た。
花澄は車に乗るのをやめ、やって来る車を待った。
「花澄さん!!」
中から出てきたのは、マリアと玲司だった。
白川家にある車の一つだと分かっていたので、玲司は想定内だったが、マリアが来たのは意外だった。
「マリアちゃん!?それに玲司も!!二人揃って、しかももうすぐ日が沈むって時に一体どうして────」
戸惑いを隠せない中、マリアが何やら真剣そうな表情で迫ってきた。
そして、そっと花澄の両頬に手を当てた。
「…………やはり、そのようですね。」
花澄は意味が分からず、混乱するばかりだった。
すると、マリアはコートから自らが持つ術具の一つ、“聖杯”を取り出した。
“聖杯”は、ワイングラスより少し大きめで、金箔が貼られていた。
少しすると、空だった聖杯の中から水が出てきた。
これは西洋の魔術を応用したものではなく、和ノ国の陰陽道における自然思想·五行説を応用したものである。
五行説は、木·火·土·金·水を万物の根源とする自然感である。
マリアが応用したのは、その中の相生という、五行の中で“生み出す”関係である。さらに詳しく言えば、金生水──金は水を生むということである。
東洋と西洋では、根幹を成す思想が全く違うので、混ぜるのは至難の業なのである。
“聖杯”は中の水を聖水──浄化作用のある水に変え、普通は川や井戸などのところから水を調達する。
「花澄さん、この聖水を飲んでください。」
「えっ……?」
「説明は後です、早く!!」
わけも分からず、マリアに促されるまま、花澄は聖水を飲んだ。
すると、ダルかった身体が軽くなり、心に溜まっていた埃のようなものが一気に吹き飛んだような気分になった。
「すごい……!先程まで優れなかった身体や心が軽くなった気がするわ。」
花澄はこの時、自分の体調を心配してわざわざ聖水を飲ませに来てくれたのだろうと思った。
「ありがとう、マリアちゃん。これなら、今日の仕事もはかどりそうだわ。」
そうお礼を言うと、車に乗ろうとした。
しかし、玲司が花澄の手を掴み、引き止めた。
「何を言っている、花澄。今すぐ倉橋家へ向かうぞ。」
「……えっ?」
花澄は、玲司に引っ張られて白川家の車の前まで連れてこられた。
藤原家の運転手や召使い達は、どうしたものかと困惑していた。
「時間がない。詳しいことは道中説明する。」
「結界術師、およびアヤカシ討伐隊の代理は、この聖女マリアにお任せを。」
マリアは拳を胸に当て、『どーんと任せて!』と言わんばかりのドヤ顔をした。
そして、わけも分からないまま車に乗せられて、花澄は倉橋家へと向かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
公道に出てしばらくすると、花澄はムスッとした顔で玲司を睨みつけていた。
「それで?どうして私を倉橋家へ連れて行くのか、説明してもらえるかしら?」
「……ああ、分かっている。だがその前に、花澄。お前、本当に気がついていないのか?」
玲司が真剣な表情で聞くが、花澄は『何に?』と言わんばかりに首を傾げた。
「花澄、お前は軽い洗脳術のようなものがかけられていたんだ。恐らく華子嬢にな。」
「……!!う、嘘っ……。そんなはずは──」
花澄は、動揺を隠せないでいる。
仮にも名門白川家の血を引き、皇太子の婚約者である自分が術にかかり、あまつさえその事に気づきすらしなかったなど、到底受け入れられるようなことではない。
「本当に最小限の力のみを使った術で、気づかれにくいようにしていたからな。俺やマリアも、さっきようやく術の有無を認識できたところだ。」
「そんなっ……」
花澄は手で口を押さえ、ショックを受けた表情になっていた。
玲司は少し心が痛んだが、話を続けた。
「ここ最近、具合が悪そうだったとマリアから聞いている。恐らく、洗脳術の影響なんだろうな。その影響で花澄、お前を心身共に衰弱させていくつもりだったんだ。」
花澄は、ここで真っ先に思い浮かんだのが一ヶ月前の華子の告白の場面を目撃したことだった。
あれは花澄にわざと見せるためのもので、その光景を記憶に深く刻みつけて不安を煽ることで、花澄の弱体化を狙ったのだ。
花澄は、己の弱さを恥じるばかりだった。
「だが、あちら側の目的は花澄の弱体化ではない。真の目的は、恐らく龍雅様だ。」
「えっ……?」
花澄は、一気に顔を真っ青にした。
「……華子嬢は、以前俺に花澄と龍雅様を引き離すのを手伝ってくれないかと言ってきたことがある。もちろん俺は断ったが、華子嬢がまだそれを諦めていなかったとしたら、それこそ禁呪でも何でも使って龍雅様を手に入れようとするだろう。」
なぜ華子が玲司に自分と龍雅の仲を引き裂く手伝いを申し出たのかは疑問に思うところだったが、花澄は龍雅の身の安全で頭がいっぱいでそれどころではなかった。
「花澄を弱体化させたのは、龍雅様にお前がかけている“護り”を弱めるためだったんだろうな。」
玲司の話はもはや耳に届いておらず、花澄は半放心状態だった。
頭を駆け巡るのは、自分の情けなさへの怒り、軽蔑、絶望────もはや感情の整理もつかなかった。
「しっかりしろ、花澄!!」
玲司の言葉で、花澄は我に返った。
「自分を責めるのは後だ。式神に探らせたところ、龍雅様は倉橋邸を向かっていらっしゃる。」
「えっ、どうして──」
「もしかしたら、洗脳術にかかっているのかもしれん。とにかく、今は龍雅様の無事を祈るんだ。」
ついこの前まで弟のように思っていた玲司が、急に頼りがいのありそうな青年に感じられた。
思えば、マリアと出会ってから玲司は少しずつ変わっていった。
花澄も、もっとしっかりしなくてはと気合を入れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
一方その頃倉橋邸には龍雅と伊藤が到着していた。
倉橋邸は、帝都から見て白川邸とは真逆の西にある。
到着早々、伊藤は警戒心ありまくりの様子だった。
龍雅の横には華子、後ろには倉橋の術者の男性二人がおり、気が抜けない。
一方、龍雅はどこか楽しそうにしている。
屋敷に上がってしばらくすると、伊藤は意識が朦朧とし、踏ん張ろうとしたがそのまま闇の底に引きずり込まれてしまった。
「伊藤!」
倒れそうになった伊藤は、後ろに控えていた倉橋の術者が受け止めた。
「あらあら……。もしかすると、疲労が溜まっていたのかもしれませんね。」
華子が、心配してるかのような口調で伊藤に駆け寄った。
「そうですね、華子嬢。」
「私共が伊藤様を布団で寝かせておきます。」
「よろしく頼んだわ。では龍雅様、私共はこちらの応接室へ参りましょう……」
華子は龍雅の腕に自分の腕を絡め、応接室へと案内した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
日の入り約30分前、マリアは白川家の結界術師部隊の詰め所に到着していた。
結界術師部隊の詰め所は白川家のものの他に倉橋家ものも存在する。
どちらも帝都の中心付近にあるので場所的には近いのだが、両家の仲の悪さから場所を統一することなどできない。
白川家の術師部隊には既に話は通してある。
倉橋や龍雅のことに関しては、言ってしまえば混乱を招くと考え、話していない。
ただ、二人には“とても大切な急用”ができたと、そう伝えてある。
白川家の術師隊の中には、マリアを快く思わない者もいるが、マリアも任されている以上引くことはできない。
「状況はどうですか?」
「今のところ、問題はありません。戦闘部隊からも、特にこれといった報告はないです。」
「そうですか……」
(気は抜けない。私と玲司の予想が正しければ、恐らく──)
すると、戦闘部隊のみと繋がっている電話が鳴った。
「はい、こちら結界術師隊。戦闘部隊、いかがし───えっ?そ、それは本当ですか!?」
電話に出た術師が、緊迫したような表情になった。
何かあったに違いないと感じたマリアは、自分に電話を代わるように促した。
「マリアです。何かありましたか?」
「そ、それが──見たこともないような量のアヤカシの大群が、急に現れまして……」
「分かりました、すぐに向かいます。」
マリアは、至って冷静な口調だった。
というのも、実はあらかじめこの状況は予想していたのである。
龍雅を何らかの洗脳術をかけるであろう倉橋家は、花澄や白川の術師達の意識を完全に反らせるために、アヤカシの大群を白川の護衛する帝都の東側に送り込んでくると読んでいたのだ。
マリアは自身も結界術の一端に加わって結界を強化した後、急ぎ帝都の東側へ向かった。
その際に使ったのは、魔女術の1つである箒を使った飛行術である。
聖女が魔女術を使用するのは違和感があるかもしれないが、昔は異端とされていた魔女も、現在では社会に浸透しつつあるのだ。
東側の戦闘部隊と合流すると、マリアも微かに感じていたアヤカシの気配が、おびただしい数になりはっきりと感じられた。
「状況はどうですか?」
「戦闘員五十人を投入して交戦しておりますが、苦しい状況ですね。既に戦闘続行不可能の怪我を負った者が八名程おります。」
「分かりました。では、私も加わりましょう。」
マリアの発言に、戦闘部隊の者達はザワッとなった。
「い、いえあの……。聖女たるあなた様にそのようなことをさせるわけには──」
「聖女であることなど関係ありません。私は玲司に任されてこの場におります。任されたからには、その務めを果たさなければ。」
聖女であることもそうだろうが、華奢で可憐な少女であるマリアに戦わせるのは気が引けるのである。
「でしたら、指揮に徹してくださればそれで──」
「私が加われば、戦力は格段に上がります。まだ十四年しか生きてない未熟者ですが、私とて伊達に“聖女”と呼ばれているわけではありません。大丈夫、指揮も担当しているのですから、最前線に立って大怪我するようなことはしません。皆さんの後方支援をするだけですから。」
戦闘部隊の者達は、顔を見合わせて不安そうな表情をしていたが、マリアの覚悟と気迫に圧倒さていた。
渋々ではあったものの、戦闘部隊の者達は頷いた。
マリアがアヤカシの大群が現れたという戦場に駆けつけると、そこには刀や霊符、式神を使って戦う術達と、それに対するアヤカシ達がここ一帯をほとんど埋め尽くすくらいの数がいた。
アヤカシのほとんどは“鬼”と呼ばれる存在。
アヤカシの中でも上位の強さを誇るが、そのほとんどは小鬼や中鬼と呼ばれる複数人なら普通に討伐できるものばかりだった。
しかし、マリアが見る限り何らかの術で諸々の力が無理矢理底上げされている。それも、十中八九倉橋家の仕業だろう。
マリアはまず手始めに、聖杯で生成した聖水を使って、術師達の怪我や疲労を癒やした。
それによって、術師達は戦闘前の状態に回復をする。これで戦力は四割くらいはマシになっただろう。
次に、二十センチくらいの蝶の装飾が施されたバトンのような形の物を取り出した。
取り出したほんの数瞬後には、マリアの胸あたりから膝くらいまでの杖に変化した。
いわゆる、“魔法の杖”である。
魔法の杖を掲げると、その先には聖杯が浮かんだ。
そして次の瞬間、聖杯から溢れんばかりの水が飛び出し、水は美しい女性の姿になった。
彼女は水の妖精“ウンディーネ”である。
西洋の四大元素の火·水·風·土の中では、マリアは水を得意とする。
ウンディーネの水に呑まれると、鬼達は次々と消え失せていく。
それで一気に十体以上の鬼を討伐した。
だが、状況は未だ余談を許さない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
まもなく日の入りという時刻に、花澄と玲司は倉橋家に到着した。
だが、仮にも藤原家の令嬢と白川家の次期当主がおいそれと倉橋家に無断で侵入するわけにはいかなかった。
なので、一か八かに賭けて正面の門から行くことになった。
門の前まで来ると、見張りの大男が二人立っていた。
「これはこれは、花澄様に玲司様。間もなく日の入りとなりますが、このような所にいてよろしいのですか?」
警戒心と嫌悪感が入り混じった口調だ。
しかし、いつも見る倉橋家の者達の態度と比べると、幾分か警戒心が強い印象だった。
「こちらに龍雅様がいらっしゃるはずだ。急ぎ会わせて欲しい。」
「龍雅様がこちらに……?はてさて、一体何のことでしょうか?」
門番の男は、『知らない』とのことだった。
とぼけているのか、単に知らされていないだけなのか───いずれにしろ、想定していた反応ではあった。
「仮にいらっしゃったとしても、満月で忙しいこんな時に、白川家の中心人物たるあなた様方が抜けるようなことをしてまでの重要事項なのですか?不確定な思い込みでいらっしゃったのだとしたら、軽はずみな行動もいいところですよ。」
いつもよりも、明らかに挑発している態度だ。
足止めを目的としていることは、まず間違いないだろう。正論を並べているように見えて、何かを隠そうとしているのが垣間見える。
「不確定な思い込みではありません。龍雅様に私が持たせています御守が、こちらにいらっしゃると告げているのです。」
花澄が鋭い目つきで言うと、門番の男二人が少し狼狽えた。
花澄はいつも穏やかなので、意外な態度に驚いたのもあるだろう。
だが、それ以上に弱っているはずの花澄の御守がまだ活きていたことに動揺しているのである。
「と、とにかく龍雅様はこちらにいらっしゃいません。どうぞお引き取りを──」
「誰が、ここに来ていないって?」
花澄のよく知る、誘うような甘い声─────
門番の男二人が顔を真っ青にして振り返ると、そこには皇太子·龍雅その人がいた。
花澄と玲司は安堵し、特に花澄の瞳から涙が溢れ出ていた。
門番の男二人は腰を抜かして、地面に倒れ込んだ。
「わざわざ訪ねに来てくれた大事な婚約者と友人を、この俺に断りもなく追い返そうだなんて──」
門番の男二人は、花澄とはまた別の意味で涙が溢れ、ガタガタと震えた。
「よくもまぁ、そんな所業ができたもんだ。」
門番の男二人にのみ聞こえる小さく低い声だった。
笑顔を浮べているのに、底知れない恐怖を感じさせる。
門番の男二人は、そのまま失神して倒れた。
「龍雅様!!」
花澄は、龍雅のもとへ駆け寄った。
花澄を見つめる龍雅表情は、先程の貼り付けたようや薄っぺらな笑顔ではなく、愛しい者を見つめる優しい笑顔だ。
「ご無事で何よりです。あの、龍雅様、……私──」
花澄がそう言いかけた時、屋敷の方からゆらゆらと華子が少し窶れた様子でやって来た。
「なんで……、どうして……。どうしてどうしてどうしてどうしてよ!!!!」
ぎりっと歯ぎしりを立て、華子は逆上したかのごとく蛇のような形相で叫んだ。
いつも見る華子とはまるで別人ぶりに、花澄と玲司は驚いていた。しかし、龍雅はまるてま虫けらでも見るかのような視線を華子に向けた。
「その女は確実に洗脳術で精神をすり減らしていた……。御守の力だって下がっていたはずなのにどうして私の洗脳術が効かないのよ!!」
「それに関しては俺がさっき言ったはずだ、華子嬢。花澄はどれだけ精神が弱まっていても、俺のことは絶対に護るという意志だけは無意識に貫き通していた。その意志の力に、君は負けたんだ。」
少し無茶苦茶な理由かもしれないが、玲司は妙に納得できた。
花澄の意志の力もあるが、実際は白川家当主に花澄の御守の力が分からないようにする幻術をあらかじめ施してもらっていた。
華子が何やら画策しているのは分かっていたので、それをおびき出すためのちょっとした策だった。
だが、華子が画策の一環で花澄の精神をすり減らす洗脳術をかけていたのは全くの誤算である。
花澄が最近元気がないことは知っていたが、よもや精神をすり減らす程のこととは思っていなかった。
気づけなかった自分に、
「この……、うざったらしい売国女がぁ!!!!!!」
華子は、懐に隠し持っている短刀を取り出し、花澄に向かって刃を向けて突進した。
咄嗟に、龍雅は庇う体勢をとった。
すると、玲司が持っていた刀で華子に近づき、見事に短刀を弾き飛ばした。
そのまま玲司は華子の後ろに回り、首の後ろに手刀を食らわせて気絶させた。
「お見事。流石だね、玲司。」
龍雅は玲司の反応速度に関心し、拍手をした。
「いえ、自分は当然のことをしたまでです。」
(華子嬢をあそこまで窶れさせるまでの言葉の精神攻撃をした龍雅様も、ある意味見事なものだな。)
龍雅はその口から出る言葉を使用した、精神掌握·誘導を得意とする。
これは超自然的な力、つまり呪術やまじないといった類のものではなく、純粋に龍雅の頭脳を駆使したものである。
「龍雅様、本当に大丈夫でいらっしゃいますか?よろしければ、後でマリアちゃんを呼んで聖水を飲ませていただいたほうが───」
「心配してくれてありがとう、花澄。本当に大丈夫だから、君が気に病む必要はないよ。」
胸が張り裂けそうなくらいに、心配そうな表情をする花澄を、龍雅は優しくなだめた。
「あのっ……、龍雅様。私のせいで、御身を危険にさらすことになってしまい、本当に申し訳ありません!!」
花澄は、頭を深く下げた。
「頭を上げてくれ、花澄。俺の方こそ、君が精神を蝕むほど苦しんでいることに気づいてあげられなかった。本当にすまない。」
「いいえ、龍雅様。それに関しては私が幻術をかけて分かりにくくしていましたから、どうぞお気になさらないでください。悪いのは私です。嫉妬などというつまらない感情で、しかも洗脳術にかかってることすら気づかないなんて……。龍雅様の婚約者失格どころか、白川家の血族としても失格です。」
花澄は、顔を上げることができない。
涙で情けない顔になってしまっているのもそうだが、自分で自分の不甲斐なさを責め、恥じているからでもあった。
そんな花澄の頬に、龍雅はそっと手を添えた。
花澄は無意識に顔を上げた。
「花澄、嫉妬はつまらない感情なんかじゃないよ。むしろ、俺は嬉しいよ。君が俺のことを、嫉妬するくらい好きでいてくれるなんて。」
「えっ……!!!!あ、その────」
花澄は、顔を真っ赤にした。
そんな花澄の反応を、龍雅は愛おしく感じていた。
玲司は仲睦まじい様子の二人を見ると、ホッとして安心した。
龍雅への嫉妬心は湧いてくることはなく、むしろ二人を見て心が温まるような気持ちになっていた。
満月は終わっていないので気は抜けないが、ひとまずこの一件が一段落して安堵していた────が、突如三人はとてつもない妖気と殺気を感じた。
鳥肌が立つくらいに冷たく、無意識に指先が震えてしまう程恐ろしいものだった。
その発生源は、土御門家の屋敷の後ろにある森からだ。
すると、何かとてつもなく大きなモノがとおる足音と、何かが崩れる音、そしてその衝撃で地響きを感じた。辺りは霧のようなもので覆われ、よく見えない。
だが、恐らく崩れる音は建物が崩壊する音だ。
ここら辺は土御門家の屋敷意外特にこれといった建物はないので、まず間違いなく土御門邸が崩れている音だ。
つまり、大きな屋敷を踏みつけて破壊できる程巨大な“何か”が猛スピードで迫っているのだ。
そして、その“何か”は真っ白な霧の奥から、とてつもない音を響かせながらゆっくりとその姿を現した。
「そんなっ……」
「こ、こいつは────」
現れたのは鬼───ただし、大鬼十体分の高さはある巨大なものである。
大鬼よりも威圧感が凄まじく、纏う妖気も尋常ではなかった。
「まさか、あれは“鬼神”……?」
「ああ。どうやらそうみたいだな。」
玲司は刀を抜くと、全神経を“鬼神”に集中させた。
“鬼神”とは、文字通り神のように凄まじい力を誇る鬼である。
ただし、“鬼神”はアヤカシの中でも超上位に位置し、鬼の進化の果てに到達する最終にして最強形態である。
「鬼は獰猛な上に人も襲うが、鬼神ともなれば話は別。ある程度の知能や理性を持ち、無闇な攻撃はあまりしない。その結果、争いを好まない者も出てきたりする。そんな鬼神が、なぜ敵に回したくないであるはずの陰陽師の大家·倉橋家を襲うような真似をする?」
玲司は鬼神に問いかけたが、返事はなかった。
──というより、鬼神はどこか正気を失っているような感じだ。
「玲司、どうやらあの鬼神は正気ではないようです。こうなれば祓うしかありません。」
「分かっている。こうなったら、やるしかない。」
目の前十メートルまでやって来ると、鬼神はまず右手の拳を三人にぶつけてきた。
花澄は、今外にいる全員と玲司と乗ってきた車に防御結界を張り、拳を凌いだ。だが、拳の衝撃は防御結界越しでも伝わり、全身が揺れる程のものだった。
「龍雅様は俺達の乗ってきた車でお逃げください。」
「待ってくれ、まだ中に部下の伊藤がいるんだ。恐らく、術で眠らされている。」
急を要する会話の最中でも、鬼神の拳は襲ってきていた。
そんな時、僅かながら鬼神を攻撃する倉橋家の術者達がいた。
先程、鬼神による屋敷の崩壊から逃れた者達だろう。だがその攻撃も、当たってはいるが全く効いていなかった。
「では、俺達が伊藤さんを助けます。龍雅様は早くお逃げください。あなた様は、この国の未来を担う御方なのですから。」
「……分かった。二人共、どうか無事で。」
龍雅は心残りがあるものの、自分の立場を考えて、逃げることを最優先とした。
龍雅が車に乗ると、玲司は運転手に『帝都に応援要請を頼む』と伝えた。
車が帝都へ向かうのを見届けると、ひとまず玲司は安堵の息をついた。
だが、戦況はあまり変わらない。
先程から応戦している倉橋家の術者達も、力不足で鬼神に次々となぎ倒されていった。
玲司と花澄は、玲司が鬼神への応戦に加わり、花澄は伊藤の救出を最優先としつつも中にいる倉橋の人間達の安否の確認だ。
特に、屋敷の中にいるであろう倉橋の当主が生きていれば、強い戦力となる。
こうして玲司が応戦すること約十分が経過したが、あまり状況は進展しない。
動ける倉橋の術者にも戦闘に加わってもらうが、結果は同じ。
倉橋の当主は脳震盪で気絶した状態で見つかり、意識不明でとても戦闘に加われそうになかった。
かろうじて玲司の攻撃もあり、鬼神の身体に傷をつけたり、力を少しずつ削ってはいるが、そのスタミナや強さは果てしないものだった。
朝が来れば鬼神の力も弱まるが、それまでもつ可能性はほぼゼロに近かった。
もう駄目か───そう思いかけた時、突如大きな水流の攻撃が鬼神を直撃した。
そこらの術者ではできないような芸当だ。とはいっても、鬼神に少しだけダメージを与えたに過ぎなかったが。
その直後、空から天女のごとく舞い降りたのは、帝都を挟んで真逆の方向にいるはずのマリアだった。
「マリア!?なぜお前がここに……?」
「あちらに現れた鬼をほぼ一掃できた頃、倉橋家の方角からとてつもない妖気と殺気を感じまして。悪い予感がしたので、こうして駆けつけました次第です。」
そう言うと、マリアは聖杯を使い、玲司も含めた周りの倉橋の人間を治癒した。
「あれは鬼神ですね。白川家の資料で拝見したことがあります。……おそらく、倉橋家が今回のために鬼を捕獲して無理矢理従わせたのを受け、鬼神が同胞を傀儡にされたことに我を忘れるほど怒り狂ったのでしょう。」
「なるほどな。まったく、倉橋家の奴らも自業自得だな。」
玲司がため息をつきながら言うと、倉橋家の術師達は冷や汗をかいて俯いた。
「それで、何か打開策は見つかりそうですか?」
「とりあえず、お前が来てくれたことで戦力は三割くらいマシになった。」
「それは褒め言葉として受け取って良いのですね?」
「ああ、もちろんだ。」
鬼神の拳の攻撃が来ると、二人は軽々と避けてそれぞれ攻撃を繰り出した。
マリアは、得意とする水を使用した攻撃。
玲司は、刀による斬撃と火を使った攻撃。鬼神の身体に微かにある傷は、全て玲司の斬撃によるものでによるものである。
玲司の刀は“ヒノツルギ”と呼ばれ、火の神が神剣で切られて絶命した後の亡骸が時をかけて刀となったものである。
だが、一向に鬼神が倒れそうな気配はなかった。
「やはり、だめか。この分だと、応援が駆けつけても形勢逆転するかどうか分かったものではないな。火薬や爆薬があればいいんだがな。爆弾による爆破ならば、結構損傷が与えそうなものを。」
“ヒトナラザルモノ”には、普通の物理攻撃が通用しない。
攻撃するには、術者達の持つ霊力·呪力·魔力といった力を武器に込めて込めるか、それらの力で生成した火や水などを使用する。
砲弾や銃を使用する場合にはその弾に力を込めるが、あいにく政府から許可が降りていないので無理である。
爆弾の場合も、政府から許可が出ていないのである。
「無い物ねだりをしても仕方がありません。でもまあ、確かに爆発物の威力ならば…………、爆発?」
マリアは何かをひらめいたせいか警戒が緩んでしまい、危うく鬼神の攻撃を諸に食らうところだった。
間一髪で玲司がマリアをお姫様抱っこして避けたため、難を逃れたが。
「馬鹿かお前は!!この忙しい時に余所見をするな!!」
「思いつきましたよ、玲司!!打開策を!!」
「……!!」
「いいですか、まず───」
玲司は鬼神の攻撃をかわしながら、マリアの策を聞いた。
「それは……いいかもしれないが、結構大変だぞ?倉橋の連中も、共闘こそすれ俺達に協力はしないだろう。応援を待ってから──」
「いいえ、玲司。私はあなたと二人で十分だと思っています。」
「正気か?」
「あなたの力を信頼しているからこそ、お願いしているのです。確かに人数がいれば威力は増すかもしれませんが、この作戦は炎を四方から全く同時に当てることが大切になってきます。そうなると、大人数でやるよりも、二人でやるほうが成功率は上がると思います。」
マリアは、真っ直ぐな瞳で玲司を見つめた。
「分かった。俺もお前の腕と策を信じる。」
マリアはこんな状況だが、玲司に信頼されたことを心の中でとても嬉しく感じていた。
マリアと玲司は、二手に分かれた。
マリアは箒で空中に浮かび、引き続きウンディーネを使って攻撃を繰り出した。
先程とは比べ物にならないスピードで鬼神の周りに水流を巡らせ、動かさせる間を与えない。
一方、玲司は懐から霊符を取り出して、地面に置いていった。
霊符は鬼神を囲むように、東西南北四ヶ所に置かれた。
マリアは玲司が霊符を全て置いたのを確認すると、今度は自らが操る水と鬼神の周りの空気の温度を急激に冷却させた。
冷えた風は倉橋の術者達のもとにも届き、鬼神の体には水滴が沢山ついていた。
「玲司、今です!!」
マリアの合図と共に、玲司は刀を垂直にして構えた。先程地面に置いた霊符が浮いて、鬼神の胸の辺りの高さでピタリと止まった。
刀から人の形をしたような炎が現れると、四つの霊符全てから炎が鬼神を覆うように放たれた。
そして次の瞬間、鬼神を中心として大きな爆発が起きた。
その音は帝都を越えて白川家にまで轟き、爆風はマリアや玲司も含めた周囲の術者達をも軽く吹き飛ばした。
この作戦は、マリアが以前本で読んだことのある“水蒸気爆発”を応用したものである。
水を一気に熱すると、気化によって体積が膨張して爆発が起こるのである。
結果は、マリアの予想以上の威力となった。
だが、これは水を操るのを得意とするマリアと火を操るのを得意とする玲司がいたからこそできたことである。
爆風が収まり、マリアは地面に足をつけて鬼神のいるであろう方角を見ると、鬼神は跡形もなく祓われていた。
マリアはそれを確認すると、安堵してか足の力が抜けて地面に座り込んだ。
最大出力で臨んだので、気力的にも体力的にもかなり消耗していた。
そんなマリアに、玲司が手を差し伸べた。
マリアは玲司の手を握り、立ち上がった。
「ありがとうございます、玲司。」
「いや、こちらこそ感謝する。お前の策のおかげで鬼神を倒せたのだからな。」
婚約破棄から始まったこの一連の事件が終わったと思うと、マリアはホッとした。