死のうと思ったら屁理屈な幼馴染に捕まった
人の死後がどうなっているのか。それはきっと死んだ人間にしか分からないことだと思う。
だからこそ人間っていうのは生きているうちに、悔いのないように生きるべきなのだ。
そんな話がある。
ただ俺は思うのだ。
もしも死んだ後は絶対に行けるのであれば、悔いのないように生きる必要性なんてない、だって死ねば楽園が待っているのだから。むしろ今すぐにでも死んだほうがいいに決まっている。
だからきっと悔いのないように生きよう、そんな話はきっと死後の世界っていうやつ信じていない奴らが作ったに違いない。
さて、それなら今まさに屋上から飛び降りようとしている俺こと、河合潤が死後は楽園であると信じているのかと言われれば、そうではない。
ただもう生きたくない、ただそれだけの話だ。
なぜ生きたくないのかと聞かれれば、将来に対する漠然とした不安と言えば恰好はつくかもしれないが、残念ながらそういった理由ではない。
もっとばかばかしい理由によって俺は、自ら命を絶とうとしていた。
そんなことを考えていると、誰も来ないとたかをくくっていた学校の屋上に、突然の来訪者が現れた。そいつは顔なじみの女性であった。
腰まで伸びた黒の長い髪を風になびかせたそいつはこちらを一瞥すると、興味なさそうに扉を閉めた。
そしてきちんと校則通りの丈にしたスカートが汚れることを躊躇する様子もなく、扉を背にして座り込んだ。
「へえ、死のうとしてるんだ」
「ああ、そうだよ」
「ふーん……」
幼馴染である、鈴木梓は心底つまらなそうにそういった。
「止めないんだな?」
「止めて欲しいのかい? それなら止めるけど」
「いや、俺が悪かったよ」
今のやり取りだけみれば、彼女は血の通っていない冷酷無比な人間に見えてしまうが、そんなことはない。
ただ既にこちらの意志が固いことを見抜き、ここで説得することの無意味さというのを悟っただけだ。
彼女は昔から、無駄な事というのが嫌いだった。何をしてもどう効率的に進めるかということばかりを考えているような人間だった。
「なあ、お前はさ。なんでそんなに強いんだ?」
普段の自分だったら絶対にこんなことは聞かなかっただろう。だが死ぬ前というのは、ある意味もう失うものも無い状態と同じだ。
なんせ、この後すぐに自分は物言わぬ肉塊になり果てるのだから。
別に歯止めをかける必要性もない。
「強い? ふむ、君が強いというのはどういった意味で使おうと自由だが、それをこの僕に使った時点でそれは誤用であると言わざるをえないね」
「そうか? 俺の目にはそう見えるけど」
「ふむ、もしそう見えるのなら君の目は随分と節穴ということになる。いやはや、よもやその目のように見える物体はビー玉かなにかなのかな? そう考えたほうが理屈に合う」
「その言い方、俺は嫌いだな。辞めたほうがいいんじゃないか」
これは本心からの言葉だ。
彼女の悪癖の一つではあるのだが、無駄を嫌うくせになぜか話だけは冗長で、わざわざ回りくどい表現を使いたがる。
もともと思うところはあったが、それを指摘して友人関係に何らかの被害が及ぶとなると面倒なので今まで口にしたことは無かった。
ただ今ならこうやって本音を口にすることだってできる。
「とは言われても困ったものだな。僕はこのしゃべり方以外知らないし、それに直す方法も知らない。いいかい、今君が言ったのは、お前の方言は不快だから、ちゃんと標準語を話してくれと言っているのと同じことなんだ」
「ああ、分かったよ」
「君のそういう言い方の時は九割九分理解していないときの言い方だね。いや、十割と断言してやってもいい。話が面倒だから切り上げよう、そんなことを思ったときに君はそういった投げやりな肯定を返すことが多いことは分かっているんだ」
「ああ、そうかよ。それで、お前はなんでここに来たんだ?」
この話を続けていたら多分こいつは明日の朝まで話しているところが用意に想像できる。だから多少強引にでも話を切り替える。
「ふむ、それは難しい問題だね。少し待ってくれ、どうこたえるべきか考えよう」
彼女にしては珍しい態度だと思った。
普段の彼女であれば、ここで自身の崇高なる目的をあれやこれやと引き伸ばしながら答えるだろうから。
彼女は嘘やごまかしといったものがあまり好きではない。
それは嘘が生産性のないものであり、言えないものは言えないと正直に言った方が早いから、などという無駄を嫌う彼女らしい理由によるものである。
だからこそこうやって言い方を考える姿というのは非常に珍しい。
長い付き合いではあるはずなのだが、彼女のこんな姿を見るのは初めてだった。
「ふむ、そうだな。今更君に隠し事をしたって仕方あるまい、それでは今から事実だけを述べていこう。さてそれでは君の問いに答えようか、その答えは実に簡単なことだよ。君がこの屋上に向かうのが見えたからだね」
「見てたんだ?」
「ああ、そうだとも。それで後をつけてみたというわけさ。まあ、それを知られるのは癪だったから一度は知らないふりをしたんだけどね」
「珍しいな、そういうの。君はもっと正直に生きていると思っていたよ」
「正直にね、そうでもないさ。私だって空気を読むときは読むし、話してはいけないことの区別ぐらいついているさ。君の目に僕がどう映っているかということを言及する気はないが、もし本気でそう思っているなら一度眼科に行くことをお勧めするよ」
絶対に嘘だ。
俺はこいつほど自分に正直な奴を知らない。だって空気を読む人間は、喧嘩最中の二人に対して
「何をそんなつまらないことで怒っているんだい? ほら、お互いが悪いんだから、さっさと謝ればいいだろう。それともなんだい、君たちのプライドが邪魔をして謝れないというのかい? それならそれでもいいだろう。謝らないというのも一つの選択肢だ。だがもしその選択肢を取るというのであれば、今すぐこの教室から出ていきたまえ。どうせ一生平行線の話をこんなところで展開されるのであれば、部外者である僕達からすれば、邪魔でしかない」
とは言わないし、話してはいけないことの区別がつくような奴は、先生に対して
「ふむ、なんで君はカツラなんてつけているんだい? 最近は自分を着飾る装飾、いわゆる、他人になりたいという欲望を叶えるためにそういったものを使うのは知っているのだが、君のはそういうものではないだろう。良く一般的な理由とされている、禿ていることを隠したいという理由でもなさそうだ。もし、そうならそんなにバレバレなカツラを被る必要はない。ああ、もしかして君はそれで生徒から笑いを取ろうとしてるのかい? なるほど、そういう事なら大した精神だ。ただそれ得られるものが生徒に嗤われるだけというのは、無意味だと言わざるをえないけどね」
なんてことは言わない。
いや、確かに生徒の中でも絶対カツラだって有名な先生だったけどさ。それでも普通の精神であればまずそんなことは言わないはずだ。
「ああ、分かった、分かった」
「ふむ、どうやら信じてくれないようだね。ああ、全く僕は悲しいよ。君に信用されていないだなんて、僕と君の関係というのはその程度のものだったのかい?」
「逆だ、逆。お前を見てきたから信用ならないんだ」
「ふむ、そういうことなら君の感性は通常とは大分ずれていることになるな」
一番普通とずれている奴に言われたくねえよ。
「それでなんで飛び降りようとしてるんだい?」
「……意外だな。聞いてくるとは思わなかったよ」
「僕だって聞くつもりはなかった。所詮君を止めても無意味だと悟っていたからね、ただ……そこまで君が聞いて欲しそうにしているのなら、無駄を自覚したうえで冥途の土産に聞いてやってもいい」
冥途の土産に聞いてやるってなんだよ。
普通、逆だろ。
「はいはい、まあ聞いて欲しいのかもな」
「それで、聞かせてもらおうじゃないか。君のような人間を襲った悲劇とやらを?」
「なんか楽しそうじゃないか、お前?」
「ふむ、別に神妙な雰囲気で聞いてやってもいいが、君は安い同情が欲しいわけではあるまい? 所詮同情という感情は自分が相手より絶対的に上であるという感情があって初めて生まれる感情であるし、そこに存在するのは相手を下に見て優越感に浸る劣悪な感情に結びついているのだから」
「あー、はいはい。分かった、分かったよ」
こいつの悪い癖の一つである。こいつはよく論理が飛躍する。
おそらく彼女なりの理論があるんだろうが、無駄を極限まで省くとか言う彼女特有の思想から生まれた理論というのは、往々にして自分のような凡人には理解できないものだ。
「それで、何があったんだい? 恋人に振られたのかい?」
そう言われて思わずドキリとする。
「おっと、その顔はまさか図星かい?」
「いや、違う」
周りから見た状態だけでいえば確かに、梓の言った通りになるだろう。だがその実態は、それよりももっとひどい。
「ふむ、なるほど。どうやら嘘ではなさそうだ。ただあの反応から見てそう外れているわけでもあるまい。そうなると考えられるのは……ふむ……なるほど、罰ゲームか何かだな」
「すごいな、そこまで分かるのか?」
「ああ、分かるとも。というより君が分かりやすすぎることが問題だね。一次関数の解を求めるぐらいには簡単な推測だよ」
「すごいな、お前」
そう、事実は先ほど彼女が言ったとおりだった。
自分が恋人だと思っていた少女は俺のことを好きでも何でもなかった。むしろ自分とは似ても似つかない、イケメンなサッカー部のキャプテンのことが好きだったけど、罰ゲームで告白しその延長として俺と付き合っていただけというを先ほど彼女に告げられたばかりなのだ。
しかも付き合っていたころのメッセージをクラスの連中に見せるという辱め付きで。
……ああ、今思い返しても最悪だ。
「だから言っただろうに、あの女だけは辞めておけって。彼女は君の想像の数十倍も悪女だって言う、忠告を聞かずに彼女と付き合うといったのは、いったいどこの誰だったかな?」
そう言われると立つ瀬がない。
確かに彼女に告白されたとき、梓に相談した。
その時辞めておいた方がいいと言われていたのに、思い人に告白されて浮かれていた自分は、こいつも世の非モテ連中たちの様に自分がリア充になることを妬んでいるんだなと思うだけで、その忠告に聞く耳を持たなかった。
「いやはや、全く今になって後悔しているのかい? 後悔先に立たずというのはまさにこのことだ……実につまらない最期だよ」
「ごめん、俺がちゃんと聞いていれば……」
「おや、それはいったい何について謝っているんだい?」
「いや、お前の忠告を聞かなくて悪かったって」
「ふむ、君の謝罪は受け入れておくが、誠意のこもっていない謝罪を受けたところで私はそれをどうやって処理していいのか、全く分からないな。君が持っているのは、僕の忠告を聞けばこんな惨めな思いをせずに済んだという後悔であって、僕に対する謝罪の気持ちはそこにはないだろう」
「……どうだろう」
「いいや、そうさ。もし本当に謝罪の気持ちが強いのであれば、まず最初に死のうなんて考えは沸いてこない。僕に一度謝罪に来るのが自然の考えだ。しかし君にはそんな思考一切なかったのだろう。それこそが僕への謝罪の気持ちが無いことの証明にすぎないのさ」
言われてみれば、確かにそうだな。
彼女の言う通り、本当にそう思っているのならまずは彼女に謝罪するところから始めるべきだ。
「しかしまあ、僕はそのことに対して不満を持っているわけではない。別に君に感謝される為に、行ったことではないからね。そもそも僕のエゴも混じった話だし、もっと僕が真剣に反対しておくべきだった。だからこそ君に心の底から謝罪をしてほしいと思っているわけではないことは理解して欲しい」
「そうか」
「ああ、そうだとも。さて、君の後悔は終わったかい?」
「……そうだな、うん。ああ、ありがとよ。お前と話せてよかったよ」
「それは良かった」
そういうが早く、彼女は立ち上がる。
少し頑張れれば超えることが出来そうな屋上のフェンス越しに、地面を見下ろす。
「ふむ、まあこの高さなら死ねるか。さてそれでは飛び降りようか、僕は無駄なことが嫌いなんだ」
「なんだか、そこまでたんぱくに言われると俺の方がおかしい気がしてくるよ」
あれほどまでに、強かった死にたいという願望がこいつと話していると、次第に薄まっていくのが感じる。
なんだか自殺することが馬鹿らしく思えてきてしまったのだ。
「ふむ、そうかい? そもそも僕からすれば生に執着する方が気持ち悪いと思うがね。そもそも生きていること自体無駄みたいなものだろう」
「それは、違うだろう」
「ふむ、まあ君にここで懇切丁寧に説明してやるのもやぶさかではないのだが、どうせこんなことを語ったところで君は理解できないに違いない。だから出来るだけ簡単に説明してやろう。人はいつか死ぬ生き物だ、だから結果が死という、無でしかないというのであれば、生という時間はただの無駄でしかない」
「それでも死後残るものとかさ」
「なるほど、では君はその死後残るものというのはどれほど残るものだと考えているんだい? たとえば今君が……そうだな、アダムのような存在になったとしよう。確かに人類という存続が続いている限り、その存在は語り継がれるかもしれない。しかし君も知っての通り、星にも寿命がある。星が爆発すれば人類なんて、滅んでしまうだろう。いや、それ以前に戦争やら何やらでとっくの昔に人間が滅びている可能性の方が僕は高いと思うがね」
「宇宙船とかで、他の惑星で過ごすかもしれないじゃないか」
彼女が今あげた例に自分が出来ることといえば、精々屁理屈を述べる事ぐらいであった。
「ふむ、確かにそうかもしれないな。なら、君は死んだ後残ったものがどれほど重要だと考えているんだい? 死んだ後、もちろん幽霊などの存在がいれば別だが、少なくとも僕は死後には無が存在している、そう考えている。そんな中で、生前生きていた世界で自分が何かしらの影響を残したところでそこに何の喜びもなければ、何のい悲しみさえもないともうのだけどね?」
こいつと話すといつもこうだ。
もっと俺の頭が良ければ、こいつにぎゃふんと言わせることもできるかもしれないが、残念ながら俺ごときの頭脳ではそれは厳しい。
いつもこうやって結局は彼女の主張に丸め込まれるのがオチだ。
だからこそ、俺は苦し紛れの一言として聞いたんだ。
この質問が俺達の将来を変えることになるだなんて全く想像もしないで。
「それならお前は何のために生きてるんだよ」
「なるほど……確かに、それは至極まっとうな質問だと言えるだろう。ただ、うん、少し待ってほしい、それを口にするのは簡単だ。簡単な事ではあるがゆえに難しいのだよ」
今日は彼女の珍しい一面をよく見れる日だ。
少なくとも俺の記憶の中には、今の様に顔を真っ赤にしてうつむいている姿の彼女というのは一切ない。思い浮かぶのは無表情で、クールという言葉がぴったりな彼女の姿だ。
「ふむ、そうだね。ここでわざわざ遠回りする意味もあるまい。単刀直入に語らせてもらおう。それはね、愛のためだよ」
だからこそ、そう至極真面目に語る彼女を見て笑いをこらえきれなかった俺はきっと悪くない。
「な、何を笑っているんだい!」
「いや、お前が愛って……ははは! 何の冗談だよ!」
そう、冗談にしか思えないのだ。
長く付き合ってきた俺だからわかる。こいつは絶対恋愛に興味なんてものは一切ない。そもそもこいつ他の人間に興味があるのかさえ怪しいレベルなのだから。
もし俺がこいつに告白でもしようものなら、
「おいおい、冗談は顔だけにしてくれよ。どうして僕がそんな無駄な時間を過ごさないといけないんだい? そもそも恋なんて感情は」
とかなんとか語り始める姿が、もはや目に浮かぶようだ。
「ふむ、冗談ではないのだけどね。何がそこまで君を笑わせるのか僕には皆目見当もつかないよ」
「いや、お前そのキャラでそれは無理があるって。……ああ、あれか人類愛とかそういうやつか?」
「おいおい、冗談は顔だけにしてくれよ。どうして僕がそんな無駄な感情を持たないといけないんだい? そもそも人類愛なんてそんな大きな規模の愛を、本心から持っている人間なんて存在しているとは思えないな」
ほら見たことか、大体想像と同じような返しが帰ってきた。
だからこそ逆に、彼女が語っていた愛のために生きているという言葉の意味が分からなくなってくる。
場を和ますための小粋なジョークとかならまだ理解できるが、残念ながら彼女はそういったジョークを口にすることは好まない。
「そこまで笑われると流石の僕とも言えど、君に不快感を覚えずにはいられないな」
彼女が露骨に不機嫌になったのを見て、大きく深呼吸をすることで呼吸を整える。
彼女を不機嫌にしてはいけない。
それは彼女との付き合いの中で学んだ一つの事であった。
なんとか落ち着いた後、改めて彼女に直接聞いてみることにした。
「それで、愛に生きるっていうのはどういう意味なんだよ」
「そのままの意味さ。……もしかして僕にその意味を言わせたいのかい? なるほど、そういう趣味嗜好が君にあるとは思わなかったよ」
「いや、なんでそんな変態扱いされなきゃいけないんだよ。このやり取りで」
「だってそうだろう。君のことが好きだなんて、そんな言葉をほかならぬ僕の口から言わせようとしているんだから」
……は?
「すまん、よく聞こえなかったんだが、なんていったんだ?」
俺の聞き間違いではなければ、彼女は今俺のことを好きだといったよな?
「全く……もう二度と言わないから、よく聞くんだよ?」
「ああ」
よし、大丈夫今度こそはもう聞き逃さない。
大方あれだろ、
「今夜は君の家ですき焼きが食べたい」
だとかそんなことを言っているのを聞き間違えただけに違いない。
うん、そうだ。
そうに違いない。
こいつが俺のことを好きだなんて、そんなことありえるわけがないんだから。
「僕、鈴木梓は河合潤のことを愛しています」
今度は聞き間違えようがなかった。
間違いなく目の前の彼女は俺のことを愛していると言っていた。
そう、聞き間違いではない。
今度ははっきりと俺の耳に届いた。
だがどうしてか、俺の脳はその言葉を理解できずにいた。
「えっと、罰ゲーム?」
だからこんな第一声になってしまったのだ。
先ほどの出来事がフラッシュバックしてしまったから。
「は? なんだい、それは。君は僕のことをあの醜悪な小娘と同格として扱っているのかい? 流石にそれは僕としても遺憾の意を表さなければならないのだが」
それが彼女の逆鱗に触れると知らずに。
先ほどの時が笑えてくるほどに彼女が不機嫌になっている。
「えっと、ああ、ごめん。そんなわけないよな。悪い、気が動転していて」
「ふむ、まあ仕方ない。許してやるとしよう、なに夫の不祥事を黙って見過ごしてやるというのも優れた妻の役目というものだ」
……また聞きなれない言葉が出て来たぞ。
「えっと、なにその妻とか、夫っていうのは?」
「ふむ、普段なら気恥ずかして口には出来ないのだがな、まあ盛大に自分の思いを口にした後だ。せっかくであれば、普段できないような呼び方をしようと思ってな」
なにこれ、何がどうなっているんだ?
全く何一つ理解できない。
気分は文化も言葉も知らない外国に、一人で取り残されていたような気分だ。
「えっと、よく俺が付き合う事を許したよね」
何とか、口から出てきたのはそんな疑問だった。
冷静な思考ではなかったのだ、仕方ない。
それよりもっと聞くべきことはあるはずなのだが、これが精いっぱいだった。
「まあ本来なら許すつもりはなったのだがな……浮気は男の甲斐性という言葉もある。そもそもこの高校生という青春を過ごす時ぐらいは、別の女と付き合う楽しみぐらいは残してやった方が良いのではないかという、僕の寛大な処置だ。どうせ僕の元に帰ってくると思っていたからな。とはいえ、心証的には嫌だったから、反対はしたぞ」
そうやって妙なドヤ顔をこちらに浮かべる。
そんな姿が、まるで獲物を捕まえたことをほめて欲しい猫のように見えて。さらに困惑する。どうした、お前そんなキャラじゃないだろ。
「それなら俺が死のうとしてるのを止めなかったのは?」
「ああ、それはただ僕も死のうと思ってたからだよ。いわゆる後追い自殺って奴だね。君がいない世界で生きるのなんて無駄だからね。まさか遊びのつもりで与えたオモチャに振られたぐらいでそんなにもダメージを受けるとは思っていなかったけど」
彼女が嘘を言わず、冗談を言わない性格なのはよく理解できている。
だからこそ、俺は背筋に冷たいものが走るのを感じずにはいられなかった。
もしかしたら俺の、安易な行動一つで人一人……いや、二人死んでいたかもしれないのだから。
「えっと、俺達いつ付き合ったんだっけ?」
まるで頭に冷や水をかけられたような感覚のおかげでようやく冷静になることが出来た。
そしてまず聞かないといけないことを聞くことに成功する。
「おいおい、まだボケるには早いぞ。確かに若年性認知症という言葉もあるが、それでも早すぎる。ほら、あれは僕達がまだ五歳だった時、君からいってくれたんじゃないか。『ボクとけっこんしよう』って、それに僕はちゃんと『うん』と答えたはずさ。そのあと『ボクとあずちゃんはずっといっしょだね!』って言ってくれたのは嬉しかったな……」
恍惚とした表情で語る彼女に俺はもう何も言えなかった。
いや、なんだよ五歳って!
そんな昔の事覚えてるわけがない!
それに、君そんな態度今まで一回も出したことなかったよね!
あ、でも、そっか、昔付き合いたいクラスメイトがいるかを聞いた時に
「おいおい、そんな愚問聞かないでくれよ」
って言われたことあったけど、もしかしてあれ、俺と付き合ってるんだから愚問だってことだったのか?
恋愛の事なんてしょうもないこと聞くなって言う意味じゃなく?
……いや、分かんねえよ!
「……もしかして君、覚えていないとか、そんなことないよね?」
彼女にしては消え入りそうな声でそう言った。
僕はその言葉に対して何も返すことが出来なかった。彼女に嘘の事を言ってもすぐに見抜かれてしまうだろうし、本当のことを言うわけにもいかなかったからだ。
しかし、悲しいことに時に沈黙というものは、時に言葉よりも雄弁に真実を突き付けてしまう。
「はは、じょ、冗談だよね。ぼ、僕をからかっているだけだろう?」
彼女の声は震えていた。
認めたくないのだろう、この事実を。
望んでいたにちがいない、これは質の悪い冗談にすぎないということを。
だが僕から言えるのはこの言葉だけだ……。
「ごめん」
その言葉を聞くと彼女は、屋上に置かれたフェンスを上ろうとした。
「ちょ、お前、何しようとしてるんだよ!」
「止めないでくれ! どうして、こんな生き恥をさらして生きていけるって言うんだ!」
「悪かった、覚えてなかったのは悪かったから! 死ぬのは辞めろって!」
「いやだ! なんで覚えてないの! 最低だよ、最低! 死んでやる!」
「辞めろって!」
彼女との壮絶な戦いは、体感時間にしておおよそ三十分に及んだ。
「死んでやる!」
と口にする彼女と、それをなんとしてでも止めようとする俺。
……なんでこんなことになっているんだろうか。
俺はここから飛び降りるために、ここに来たっていうのに。
何で止める側になってんだ?
最終的には男である俺がなんとか力の差で、彼女を抑えることに成功した。
「もう死ぬなんていうなよ」
「だったら、もう一回告白して」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で言う。
こいつのこんな顔を見るのはいつぶりだろうか。
もしかしたら初めてかもしれない。
「いや、それは何というか恥ずかしいというか……」
俺がそう口にすると、彼女は再びフェンスに上ろうとする。
「ああ、分かった! 分かった! 言うから、それはもう辞めろって!」
「なら、言って」
くそ、こうならやけだ。
俺だって、男だ、こういう時はびしっと決めてやるよ!
「あー……そのなんだ、俺もお前のことが好きだよ」
「心がこもってない……」
「いや、どうしろって言うんだよ!」
「それなら、誓って。もう二度と浮気はしないって、僕だけを見るって」
「ああ、分かった、分かった。誓ってやるよ」
「ふふ、今度は言質もちゃんと取ったからね。逃げたら、許さないよ?」
「ああ、分かったよ。もう逃げない」