猫だってコーヒーは好きなのにゃ
目が覚めた。
(なんだかリアルな夢だったな……。)
それにしても不思議な夢である。
自分が轢き殺してしまった猫のトラが現れて、仔猫を託されたと思ったら、その猫と同化した姿に変身してしまったのだ。
『みゃー。』
段ボール箱の中で、4匹の仔猫たちが鳴いている。
(あ、そうだ。ミルクあげなきゃ。)
『ごめんにゃ。今おっぱいあげるからにゃ。』
(え?この喋り方なに?おっぱいって?)
寅之介が自分の手を見ると、人間ではなく肉球が付いた猫の手になっていた。
慌てて姿見で自分の身体を見ると、夢で見た様に猫になっている寅之介の姿があるではないか。
『本当に猫になったのにゃ!夢にゃないのにゃ!』
とにかくミルクを与えなければとベッドから起きあがろうとするが、猫の姿になった寅之介は、思う様に動けない。
パジャマは着ていたが、身体のサイズが小さくなり、ボタンも外せないのだ。
『ふにゃあ!上手く脱げにゃい!』
なんとか身体を床に付けてパジャマは脱ぐ事が出来たが、Tシャツは脱げず、不自由な手でたくし上げるだけだ。
(ホントに乳首がたくさんある。これなら一度におっぱいあげられるんだ。……やっぱりメスの猫になったんだ!)
この時点で、寅之介は初めて夢と同じく雌の猫になった事を悟った。
寅之介は待ちくたびれて鳴いていた仔猫たちを一匹ずつ自分の乳首に引き寄せる。
仔猫たちに吸われるまで乳首が張っていたが、吸われているうちに徐々に張りが少なくなってきた。
『ふにゃあ。』
子どもたちにおっぱいを吸われ、恍惚感が走る。
(おっぱい吸われるのってなんか気持ち良い……。)
産まれたばかりの仔猫はまだ一度にたくさんは飲めないので、授乳はすぐに終わったが、疲れた寅之介はそのまま床に寝込んでしまい、朝を迎えた。
夜中の授乳で満たされた仔猫たちが再び鳴き始める。
『ふにゃ……、おはようにゃ。今おっぱい上げるにゃ。』
寅之介は眠い目を擦り、再び授乳を始めた。
『ふにゃあ。』
再び、子どもたちにおっぱいを与えるが、おっぱいを吸われるのはなんとも言えない快感だ。
(やっぱり夢じゃないみたいたまけど、病みつきになりそう。このまま、猫の暮らしも悪くないかも。)
そう思っていたその時、部屋の鍵を開ける音が聴こえた。
『ふにゃ?誰にゃ?』
自分の他、部屋の合鍵は大家である里沙しか持っていない。
(里沙さん?こんな姿見られたらどうしよう?)
扉を開けて部屋に入ってきたのは里沙ではなく深雪だった。
『み、深雪ちゃん?!』
『え、寅之介くん?何やってんの?!』
深雪は猫に変身した寅之介が自分の胸をさらけ出して仔猫におっぱいをあげている姿を見て驚愕した。
『ちょ、ちょっと待ってにゃ。もうすぐおっぱい飲み終わるにゃ……。』
『ちょっとよく分かんないんだけど!』
身体が縮んで猫の姿になった寅之介の授乳姿にただ唖然とする深雪である。
『ちょっと、コーヒー淹れてくるから。』
その場に居られない深雪は台所に行き、震えながら今買ってきた見た光景を整理し始める。
(寅之介くんがコスプレをして仔猫にミルクを飲ませてる?いや、コスプレにしては背もちっちゃくなってリアル過ぎるし……。4匹とも寅之介くんの乳首ちゃんと吸っているからあれは本物のおっぱい?)
もともと寅之介は華奢でウィッグをかぶって少し化粧でもしたら本物の女性と区別が付かない容姿をしていた。
そんな寅之介は大学時代、悪友や深雪に強制されて学祭の女装コンテストにエントリーして見事優勝した経験を持ち、以来事ある毎にコスプレをしていたが、本人は一切女装っ気はなく、寧ろ嫌がっていた。
そんな寅之介が猫にミルクをあげる為だけにわざわざコスプレをする事自体はないと深雪は思う。
(もしかして、死んだあの猫が寅之介くんを恨んで憑依したの?それしか考えられない!)
深雪は猫に怨まれてあんな姿にされてしまったという結論を出した。
仔猫たちの授乳は終わり、寅之介は仔猫たちを一匹ずつ段ボール箱に戻していた。
『みんにゃ、飲み終わったらおとなしくしていてにゃ。お姉さんと大事なお話をするのにゃ……。』
台所からコーヒーの良い薫りがしている。
喫茶店のバイトで扱かれている為か寅之介はコーヒーにはうるさい。
自分の部屋でコーヒーを飲む時もインスタントではなく毎回ドリップしていたし、深雪もそれは理解していた。
『お待ちどうさま。……どうしたの?』
『……だって……この身体にゃきゃら、恥ずかしいのにゃ。』
寅之介は深雪が到底猫化した姿を受け入れるとは思えず、背中を丸めて怯えているが、コーヒーを淹れている間に深雪は取り敢えず落ち着きを取り戻していた。
『それより深雪ちゃん、にゃんでそんにゃに普通でいられるにゃ?』
普通にコーヒーを淹れて寅之介の前に座る深雪が冷静過ぎて怖い。
『普通な訳ないじゃない!これでも心臓が飛び出るくらい驚いているんだから。たぶん、昨日轢いた猫が寅之介くんを怨んで憑依したのかなって思ったんだけど、違う?』
『憑依?トラは怨んでいないにゃ。ただ、子育てしたいから同化しただけにゃ。』
寅之介は怨まれて憑依されたのではなく、お互いの合意の上で同化したと表現した。
『やっぱり憑依だよ。その猫、凄く寅之介くんの事怨んでいたんじゃない?』
『そんな事ないにゃ。子どもを遺して未練があるって言うきゃら、寅の身体を貸しただけにゃ。』
寅之介は憑依と同化は別だと訴える。
『ま、コーヒー飲んでゆっくり考えようか。寅之介くんが猫になったのは事実だし。』
深雪は怨恨ではないが憑依されたのは同じだと考えているが、この件で言い争いをするのは意味がない。
寅之介は今、深雪が淹れたコーヒーをどうやって飲むかという問題の方が大事だ。
『持てないにゃ。』
深雪はマグカップにコーヒーを淹れてきたのだが、猫の手ではカップを持つ事は出来ない。
『あ、ごめん、入れ換えるよ。適当なお皿使って良い?』
深雪は台所から少し深めの皿を持ってきた。
『はい、寅ちゃん。』
コーヒーをマグカップから皿に移した深雪は調子に乗って寅之介の事を寅と呼んだ。
『ふにゃ!熱い!』
『熱い?……あ、そうか。猫になったから猫舌なんだ。』
それまで、コーヒーはもとよりラーメンや揚げものを食べる時も熱いものは熱いうちにというのが寅之介の食べ方だっただけに、猫舌になってしまった事に軽いショックを受けた。
『少し冷めたら飲めるかな?あ、でも猫なのにコーヒー飲んで大丈夫?』
『猫になったのは仕方にゃいけど、コーヒーを飲めにゃくなったら最悪なのにゃ。』
深雪は余計な心配をするが、猫になっても大好きなコーヒーだけは譲れない。
少し時間を置いて、寅之介は再び恐る恐るコーヒーに舌を出す。
『美味しいにゃ!ちゃんとコーヒーの味が分かるにゃ。』
飲み方は舌で少しずつ舐めながら口の中に入れる事しか出来ないが、コーヒーの味自体はよく分かる。
猫になってしまった寅之介を見て深雪は複雑な気持ちだったが、取り敢えず大好きなコーヒーを飲む姿を見て少しだけ安心した。