【第6話】
外から聞こえる鳥のさえずりが心地よかった。
久しぶりに目覚ましの鳴る一瞬前に、自然と目を開けた。
ムクムクと布団の中で朝の喧騒を堪能し、目覚ましが鳴るのを待ってから、軽やかに起き上がる。
カーテン越しの外が白い。
今日も晴れだな。と思いながら、千子は勢いよくカーテンを開けた。
オーブントースターに食パンを入れて、インスタントコーヒーを入れたマグカップに電気ポットからお湯を注ぐ。
コーヒーの香りが、広くは無い部屋を薄っすらと満たす。
意識的鼻で息を吸う。
心地よい香気
トーストを齧ってコーヒーを飲んで、薄く口紅を塗ってマンションを出た。
一週間が過ぎていた。
留守録のランプは点かない。
とは言うものの、電源を切っているのだからランプが点くはずは無いのだ。
土曜日の夜は何日かぶりに定時で帰宅した。
日曜と祝日が定休で、土曜日は交代で出勤する決まりになっていた。
定時に帰れたら自炊、千子はささやかな節約の為、そう決める事にした。
大分陽が長くなったらしく、曇り空の夕暮れも明るい。
街の灯が、薄闇に滲んでぼんやりと周囲を満たす。
マンションの自室に帰った千子は、不安と興味から留守電の電源コードを再び入れる。
電源ランプが点灯して、ダイヤルボタンの全てもチカチカと赤く点滅を繰り返す。
千子は初めて電話機を備え付けた時と同じように、適当なボタンを押した。
ダイヤルボタンの点滅が消えて、電源ランプだけが……。
いや違う。
留守録ボタンが点滅を繰り返している。
千子の顔から血の気が引いた。
留守録ボタンの赤い点滅……それは留守録が入っていることを示すのだ。
「どうして……?」
千子は恐る恐るボタンを押す。
『6月・18日・午前・1時・15分……』
電源コードを抜いた日だった。
『……してでないの! 電話に出なさいよ! …ゆ…いち……わかってるのよ!』
相変わらず途中にノイズが混じっている。
ピーっと音がして録音は切れる。
『6月・19日・午前・1時・15分……』
電話の留守録は続いていた。
毎日入っている。
今日未明の6月24日の午前1時15分まで、毎日同じ時間に留守録は残っていた。
留守録はすべて消去した。
どうして留守録が入っているのかは、全く判らない。
千子はシャワーを浴びていた。
湯気の中に、シャワーの音が染み込んでゆく。
まただ……浴室の外、部屋に誰かいる。
誰かの気配がハッキリとした。
部屋の中を歩き回っている。
うごめく気配が、浴室の中にひたひたと伝わってくる。
シャワーを止めて、しっかりとその気配を確認したかった。しかし千子はそれが出来ない。
確かに感じる人の気配を、確信へと変えるのが怖かった。
シャワーの音が、僅かにその気配を気の滅入りのせいにさせているのだ。
――気のせいだ……。
千子はシャワーのヘッドを手にして、肩からゆっくりとお湯をかける。
ボディーソープの泡が、腕を滑り落ちる。
気のせいだ……だれもいるはずなんて無い。
しかし、部屋の中でうごめく気配は消えない。
目を閉じるのが怖くて、頭の後ろからお湯をかけて髪を洗った。
耳元にお湯がかかる。
部屋をうごめく誰かの気配。
動いている。
部屋の中を徘徊するようにゆらゆらと動く。
そんなに広いはずの無い部屋を、気配は何時までも歩いている。
バスルームから出られない。
シャワーカーテンを捲って、ユニットバスのガラス戸越しにその向こうの様子を探る。
キッチンに面しているバスルームから、部屋の様子はよく判らない。
それでも、部屋をうごめく何かの気配は消えない。
声は出せなかった。
部屋の中を徘徊する何かに、自分の存在が知れるのが怖かった。
静かにシャワーのお湯を絞って止めた。
バスタオルを手にして、体を拭く。
耳を澄ます。
意識を戸の外へ向ける。
もう何も感じない。聞こえない。
気配は消えていた。
やっぱり気のせいなのだろうか……。
千子はそっと戸を開けてキッチンの中を見渡して、部屋に視線を向ける。
誰もいるはずなんてない。
黒色の電話機だけが、部屋の真ん中で静かに沈黙して、何故か薄闇に包まれている。
艶の無い、冷涼な黒色がそこに、ただ置かれている。