【第5話】
「ユキちゃん、どうした? 疲れた顔して。残業でバテた?」
お昼どき、理絵が声をかける。
会社近くのコンビ二で買った小さなお弁当に箸をつけて
「ううん。そんな事ないですよ」
千子は小さな愛想笑いを浮かべて、ペットボトルに入ったお茶を手にする。
まだ相談できる相手ではない。
千子にとって、会社で毎日一緒に仕事をする連中は、ただの同僚や上司でしかない。
その人たちに、個人的な事を相談する気にはなれなかった。
しかも、拾った電話機の事を言うわけにもいかない。
――そうだ……どうせ拾ったのだから、捨ててしまおうか? でも、再び会社から電話が在るかもしれない。
千子は小心者だから、そんな考えが直ぐに浮かんでしまう。
電話が壊れたとか、どうだって言い訳は在るのに。
夕闇に溶け込んだ路地が、静けさに溶け込んでゆく。
灰色のコンクリートブロックの塀は途切れ途切れに、路地の両側を挟み込んでいる。
疲れてるみたいだし。そういって、定時で上がらせてもらった千子は、初夏に漂う蜻蛉のように歩く。
たまには自炊でもするかと、駅前のスーパーに寄って食材を物色した。
就職活動中は極力自炊していた千子だが、定職についてからは毎日が慌しくてついついコンビ二などの弁当になりがちだ。
何と言っても、出ていくお金の量が違ってくる。
「はぁ……」と溜息混じりに食材を眺める。
あまり食欲はなかった。
焼きそば麺と冷やし中華とそうめんを買う。
なんだか料理の領域からは外れているけれど、自炊に変わりはないし安上がりだ。
食欲の無いときには麺類にかぎる。千子はいつもそうだ。
マンションの階段をゆっくりとした足取りで上る。
途中の踊り場であの男に出くわした。
陽が落ちかけた薄闇に浮かんだ姿でも、千子には直ぐにわかった。
彼女の真下に住む、二階の住人。
薄笑いを浮かべて会釈をしながら彼女の横を通り過ぎる。
千子は絶対に肩が触れないように、大きく身をかわす。
部屋に入った千子は、小さなキッチンの床に買い物袋を置くと、部屋に入る。
最初に目が行くのは、床に置き去りにされた黒い電話機。
ランプは光っていない。
朝消去したきり、留守電は入っていなかった。
留守録機能は解除したままだが、油断はできない。
もしかしたら、オン・オフの機能自体が壊れている可能性もある。
そうでなければ、留守録機能を解除した電話機に留守録が入っているわけはない。
千子は部屋着に着替えて電気コンロに鍋をかける。
そうめんなら食べられそうだった。
テレビを観ていたらウトウトと居眠りしていた。
携帯電話の着メロで目が覚める。
明奈からだった。
「元気〜」
ちょっと気だるいが、いかにも男受けしそうな声。
「電話、どうなった?」
千子は家デンを拾った事を明奈には話した。
「マジで〜。超ラッキーじゃん」
ケタケタと笑いながら、明奈は言った。
「でもさぁ……」
千子は少しだけ逡巡しながら「なんか気味悪いんだよ……」
最初から入っていた留守録の話しを彼女に聞かせた。
明奈は興味津々で「うん、うん、それで?」
やたら食いついてくる。
しかし、その後の留守録の話しをすると最後には
「どうせ留守録なんだから、シカトしてればいいじゃん。電話が噛み付いてくるわけでもないしさ」
確かにそうだけれど、あの電話機を部屋に置いてから、時折何かの気配を感じる。
「気のせいだよ。ビクビクしてるからだってば」
明奈は明るく言った。
千子もそうなのだろうと思う。
気にしなければどうと言う事もないのだろう。
ただ、誰にも言っていない番号に、何故かかって来るかは判らない。
あの女はどうしてこの電話機にかけてくるのか……。
「電源抜いちゃえば」
明奈が言った。
「だって会社からかかってくるかも」
「電源抜いたって、通話は普通にできるんだよ」
「うそ……」
「その電源は留守録機能の電源だよ。あと子機」
そう言えば本当に何も付いていない通話するだけの電話機には、電源コードが無い。
千子は明奈に言われて始めて気付いた。
コードが初めから付いていたから、繋がなければいけないものと思っていた。
その夜、千子は早速電話機の電源コードを抜いた。
電源ランプは消えたが、なるほど受話器の向こうではちゃんと通話可能なツ―――という信号音が鳴っている。
彼女は久しぶりに何の不安も無くベッドに入った。
オフタイマーで点けっぱなしのテレビから、深夜のバラエティー番組の心地よい喧騒が聞こえてくる。
それを微かに感じながら、ゆっくりと眠りに落ちて言った。
お読み頂き有難う御座います。
お話はもう暫く続きますので、宜しくお願いいたします(^^