【第2話】
帰宅ラッシュの駅は混雑していた。
初日から残業があって、千子が池袋の駅へ着いたのは7時を過ぎていた。
人混みは時間の流れに関係なく、いつまでも何処からかあふれ出して続いているようだった。
昼間に降った雨は乾いて、歩道の隅に僅かな水溜りを残すだけだった。
千子は小さな水溜りをピョンと跳ねて、横断歩道から駅の構内へ向う歩道に足を運ぶ。
地元の駅構内を抜け出ると、商店街の半分はシャッターが下りていた。
残りの半分は煌々と道をてらし、その明かりに人波が消えて行く。
仕事をしてきたという安堵の混じった疲労にかられて、千子は靴音を鳴らして歩く。
アルバイトの時とは違う。
これから当分は続くであろう同じ日々のリズムを思うと、大学へ入学した頃の気持ちに似ていた。
マンションの階段を上がると、部屋に入ってスーツを脱いだ。
リクルートの時とは違う、濃いグレーのスーツ。
ブラウスは水色で、下着は……関係ない。
オフィスで制服に着替えるから、普通の私服通勤でいいらしいが、新人なので暫くはスーツで通おうと思う。
部屋着のジャージに着替えると、コンビ二で買ってきたパスタを電子レンジへ入れた。
ふとテーブルの下に視線が行く。
コードを伸ばした電話機が、ラグマットの上に直置きされて、用無しとばかりにテーブルの下へ追いやられていた。
昨日の夕方、家デンに会社から連絡が入った。
今日の始業の確認。という名目の、家デンの確認だろう。
もうかかってくる事なんて無いのだろうと思い、テーブル下に追いやってしまっていた。
そう言えば、よく見ると留守録ボタンがある。
千子は急にそのボタンに興味をそそられて、床に膝を着いて電話を覗きこんだ。
拾った電話機の留守録には、何か入っているだろうか……。
『留守』という大きなボタンの横には『再生』という小さなボタンがある。
異常な好奇心にかられた千子は人差し指を伸ばして、そっと『再生』ボタンを押してみた。
『1月・7日・午前・1時・15・分……』日付が先に、たどたどしい電子音声で奏でる。
千子は息を飲んだ……入ってる……。
いかにもその電子音声は古めかしい。
『……いち、いるんでしょ。わかってるんだからね。いるのわかってんだから……』
たどたどしい電子音声の後に聞こえてきたのは、女性の切り裂くような激しい声。震えて叫んでいるような声には、明らかな憎悪を感じる。
「な、なに? これ」
声の後にはガサガサ、ガサガサ、と言うノイズ。
プツリと音が途切れて、ピーーーーと、信号音。
『1月・8日・午前・1時・15・分…………』
『……いち、いい加減にしてよ。……いるんでしょ。出てよ。わかってんだよ。どうして出ないの! 出なさいよ!!』
途中に微かなノイズや音声の揺らぎがあり、無意識に聞き耳を立ててしまう。
終わった声の後に、ガサガサと何かを引きずるような音が暫く続く。
千子は硬直したように聞き耳をたてる――なんの音?
ザザッと音がしてプツリと音が途切れると、ピーーーーッと録音終了の信号音。
録音音声の出だしはノイズがはいって、なんという名前を言っているのか聞き取れない。
同じような用件が1月7日から14日まで毎日入っていた。
やっぱり男の名前は聞き取れない。
思わず全部聞いてしまった。時々ノイズで聞き取り難い部分があって、余計に意識は引き込まれた。
まるで遠くで微かに聞こえる誰かの呼び声に耳を澄ますように。
聞き終わった千子は、深く息をつく。
何だろう……。
正直気味が悪かった。
緊迫していた気持ちが融解して、もう一度フゥっと長い息をつく。
痴情の縺れか何かだろうか。
この男は、結局この女性の電話には出なかったのだろうか?
千子は指を伸ばして『消去』という小さなボタンを押す。
ピーーーッと信号音が鳴って『録音記録を消去しま・した』
何となく、わけの判らない安堵が気持ちを満たす。
溜まった汚物を処分したような、奇妙なスッキリ感。
遠くでパトカーのサイレンが鳴っている。
さらに遠くへ、それは消えていった。
電子レンジで温めていたパスタを思い出して、千子は急いで腰を上げた。