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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

笛の音は ~建久九年十二月二十七日、逢魔ガ時ニ起コリシ事~

作者: 朽縄咲良

 建久九年(1198年)十二月二十七日――。


 時の征夷大将軍・源頼朝は、周囲を警護の御家人たちに囲まれながら、ゆらゆらと馬に揺られていた。

 重臣である稲毛重成が亡き妻を供養する為、相模川に架けられた橋の『橋供養』に出席した後の帰路である。

 彼の邸宅である大倉御所 (相模国鎌倉大倉郷)へと続く街道は、整備されてはいるものの、先日降った雨の影響でひどくぬかるんでいた。

 だが、その生涯の殆どを馬上で過ごしてきたと言っても過言ではない頼朝にとっては、その程度の悪路を進む事など造作もない。

 彼は、慣れた手つきで手綱を繰りながら、着々と馬の歩を進めていく。


「ははは、お主、大丈夫か? その様な覚束ない手綱さばきでは、馬も不安を覚えてしまうぞ」


 と、頼朝は、己の傍らで四苦八苦しながら乗騎を操っている年若い御家人に気安く笑いかけた。


「あ! は……はっ! 申し訳ございませぬ。これはお恥ずかしい所をお見せ申した……」


 声をかけられた若い御家人は、大層恥じ入った様子で、顔を朱に染める。

 そんな彼の様子を見た頼朝は、愉快そうに大笑した。


「ハハハハッ! 良い良い。精進いたせよ!」


 ――この日の頼朝は、珍しく機嫌が良かった。

 何せ、久方ぶりに大蔵御所を出たのだ。いつも彼の傍らに居て、何かと口やかましく指図をしてくる妻・政子の目から離れ、心を許す側近たちと共にのびのびとした時間を過ごせた事に、彼は大いに満足していた。


「……正直、些か帰るのが惜しいがな」


 頼朝は、周りの御家人たちに聴こえぬように小さく独り言ちると、何気なく空を見上げる。

 冬特有の足の早さで、西の山の端へと沈もうとしている陽の光によって、空は燃えるような色に染まっている。

 ――と、


「……ん?」


 ふと、何かが聴こえた様な気がして、頼朝は首を傾げた。


「何じゃ? ……笛の音、か?」


 細く甲高い音が、微かに鳴っている。

 とはいえ、ここは街道だ。道の端で蓆を敷き、笛を鳴らして銭を取る者も居ろう。

 ……だが、その笛の音には、どこか聞き覚えがあった。

 頼朝は、怪訝な表情を浮かべながら、笛の音の源を探らんと首を巡らすと同時に、微かに感じた既視感の原因を探ろうと、記憶を辿る。


(あの、美しくも物哀しい笛の音……。確かに聴いた覚えがある。あれは確か――)


 ……何故だろう?

 あれほどまでに美しい音だというのに、まるで己の中の何かが思い出すのを拒もうとしている様な、妙にざわざわとした気分を抱きつつ、頼朝は目で笛の音の元を探し続ける。

 ――そして、


(……居た)


 遂に彼は、街道脇に立つ民の中から、笛の奏者を見つけ出した。

 市女笠を被った壺装束の女――彼女が、木の陰に隠れるようにして、笛を口に当てていた。

 その周囲で、数人の民が目を瞑って、その幽雅な笛の音に聞き惚れている。

 ――と、

 女が笛を吹きながら、つと顔を上げた。

 そして、凝視している頼朝の目を、笠の下から真っ直ぐに見つめ返す。


(――ッ!)


 その目を見た瞬間、頼朝は思い出した。その笛の音をいつ聞いたのか、そして誰が吹いていたのかを――。


(あれは確か――九郎の妾だと言っていた、静とかいう名の白拍子……!)


 十年余前、弟でありながら自分に刃向かう素振りを見せ、京から姿をくらました源九郎判官義経の行方を追う為に捕らえ、鎌倉に連行したのが、義経の妾・静御前だった。

 頼朝は、京で評判の白拍子であった静に、仄かな悪意を以て、鶴岡八幡宮社前での舞を命じ、その際に舞と共に披露されたのが――今耳にしている笛の調(しらべ)であった。


(な……何故、あの女が鎌倉に居る? 所払いを命じて、京へ送り返した筈なのに……!)


 頼朝は、激しく動揺した。

 笛を吹きながら、じっと彼を見つめる静の()に、いつぞやの――塩漬けにされた(義経)の首の、半開きになった眼と同じ光を見たからだ。

 彼は、恐怖に駆られた表情を浮かべながら、隣にいる若い御家人に向けて怒鳴った。


「お――おい、お前! あそこの木の下で笛を吹いている女を、直ちに捕らえてまいれ!」

「……」


 だが、若い御家人は、じっと前を向いたまま、彼の命令も聞こえぬ体で、黙々と馬を進めている。

 頼朝は、己の命に従わぬ彼の態度に怒りを募らせ、更に声を荒げる。


「貴様ッ! 聞こえておるのかっ? 早よ、あの不埒な女を捕らえ――」

『……随分と畏れておられるのですな、()()()()――』

「……な?」


 圧し殺すような御家人の声を聞いた瞬間、頼朝の背を冷たいものが走った。

 ――その声色は、先ほどまでとは明らかに違っていた。

 それは、確かに聞き覚えのある声……。


「き、貴様は――!」

『……お久しゅう御座ります』


 上ずった頼朝の声に応えるように御家人は顔を上げ、ゆっくりと頼朝の方に顔を向けた。

 ――その顔は、見間違えようもない……!


『――兄上』

「く、く……九郎ッ!」


 塩漬けの果てに腐り溶けた義経の顔面。その中心で淀んだ光を放つ眼に睨み据えられた頼朝は、恐懼に駆られ、思わず手にした手綱を引き絞った。


「ひ、ヒヒ――ンッ!」

「――ッ!」


 頼朝の恐慌が伝わり、驚いた馬が棹立ちになった拍子に、頼朝の身体は中空に投げ出された。


「あ……」


 唖然として、橙の空を見つめる頼朝の耳には、あの笛の音と、


『……地獄の底にて、お待ち申しておりますぞ、兄上』


 という、義経のくぐもった声……、

 次いで、己の首の骨が砕けた鈍い音が聴こえた――。

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