暴れ牛と夜明けの唄 10『暴れ牛①』
ドシンッ……!! ドシンッ……!!
ゆっくりと上がる足。踏みしめる音で、計り知得るのは、ありえない程の重量。揺らしているのは、重さなのか、その音なのか? 分からないまま、空間が慄いて震えている。
「ブオォォォォ────────!!」
ファクナスが、空に向かって吠えた。
体を縛っている幾つもの鎖が、ミシミシと音を立て、亀裂が生まれていく。
「距離を取れ! 鎖が切れる!!」
普段、大声なんて出さない女性騎士が、叫んだ。
バキンッ!! バキンッ!!
バキバキバキバキ────────ッ!
バリンッ!!!!!!!!
怒りで我を忘れた、赤い眼が捉えているのは、特別に秀でている訳でもない、ただの1人の男騎士。
なんで俺が?
周りには他にも人がたくさんいた。その中で、彼に意識が向いたのは、別に大きな理由なんてない。そこにいて、一番最初に視界に入った。ただ、それだけのこと。
「早く逃げろ!!」
誰かが声を張りあげている。目の前の魔獣が、足を掻き、土を撒き散らす。次は多分、こっちに向かって突っ込んでくる……分かっているのに。体は動かなかった。
こめかみを伝う、冷たい汗。痺れていく指先。
「ハァッ! ハァッ! ハァッ! ハァッ……」
「 !」
耳に木霊する心臓の音と、浅く、荒い呼吸しか聞こえない。意識が保たれているのが不思議なくらいだ。
ファクナスが、地面を大きく蹴り上げ、地面の揺れがより一層、激くなる。立っているのもやっとだ。性急に近づいたそれは、もう、収まり切れないほど、視界を真っ黒に塗ったくった。
「あ……あ……」
声も出せないほどの恐怖で、地面に尻餅をつき、足が、ガクガクと自分を嘲笑う。
もうダメだ……
目を閉じる。痛いのか、苦しいのか、それとも……
即死か。それじゃあ、苦しまないか。
「はは……」
こういうときに限って、やり忘れてた事を思い出す。男は腰袋から何かを取り出し、手に握りしめた。
返しておけばよかった。眩しいな……
何かが光り、顔を照らす。
細くした目から飛び込んだ情報が、神経を通り、脳に伝わる。それが、鋭く尖った角、であると咀嚼されるまで、然程、時間は要さなかった。
なのに、男は、逃げようともせず、それを、他人事のように目で追っていた。
突き……刺さる。
「アミナトイコス!!」
ガキィィィ────────ン!!!!
硬いものが、何かに当たり、同時に割れる音がした。目を開けると、バラバラに壊れた障壁が見え、それが消えていく前に、腕をグイッと引っ張られた。
「アーネスト! 何を諦めている?! しっかりしなさい!!」
「ジュディ殿……」
それは、さっき、自分に叫んでいた女性騎士。ジュディ=ファーディナンド。アーネストはいつの間にかグリフォンに乗せられていた。
2人を逃したファクナスが、首をブンブンと煽っている。掠りもしないのに、もの凄い風圧で、大きくバランスを崩した。
ドンッ!!!!
「がはっ……!!」
そこを運悪く角に当たり、2人は叩き落とされてしまう。
「うぅぅ……」
「ぐっ……大丈夫ですか?!! ジュディ殿」
ポタ…… ポタ……
彼女の頭から血が流れ、顎から落ちる。
「ゴホッ!」
ジュディは、胸を押さえ、口から血を吐いた。今の衝撃で、壊れかけた通信器から、いつもの騒がしい声が聞こえて来る。
『ジュディ!! すぐ行くので、何とか待っててください!!!!』
「来てはだめ! フィリズ、退避しろって言われているでしょう……!」
恐らく、もうすぐ来る……
『でも!!』
自分を助けるなんてこと、しなければ、彼女は怪我をするようなヘマはしていなかっただろう。
悔しい。
アーネストは握った拳を、叩きつけた。
地面に転がった衝撃は、恐怖と緊張までもを砕いた。掌に爪を食いこませ、アーネストが声を絞り出す。
「プロクリスティ!」
最近になって、やっと契約に成功した自分のグリフォンが、バサバサと羽をバタつかせた。しかし、こんな巨体を目の前にして、どうやって脱出するか。
目の前にある、自分らを睨みつける赤が、紅に変わる。
アーネストは直ちに、ジュディを担いでグリフォンに乗ろうとした。
だが、口を開けたファクナスの吸い込む息で、思うようにはいかない。
マズい……
シューシューと音を立て、あがった蒸気。充血した軟膜を見て、アーネストは歯を食いしばった。
…………
その時……
「シュターク」
形のよい唇が動いた。足に集中して極限まで力をためる。できた魔法陣を足場にして、勢いよく飛び出した。
「受けてみろ! 俺の足イィィッ!!」
ドッ……ゴォ────ンッ!!!!!!
な……?!
ファクナスが横に吹っ飛び、倒れ落ちた拍子に、轟音と、粉塵を巻きあげながら地面に大きく跡を残した。
だが、そんな攻撃で、死ぬはずもない。すぐさま起きあがったファクナスの眼が、ギロリ、と蹴った人物に向けられた。
なんだ? 何が起こった? アレクシス様?
アーネストは唖然としていた。
「なんなの? その恥ずかしいかけ声」
「うるせーな!! 早くしろよ! エリュシオン!」
「もう、そのままアレクシスが連れてけば良くない?」
「冗談じゃない!! 逃げ回るとかできる訳ないだろ! お前にみたいに身軽じゃないんだからな!」
アレクシスが、ニカッっと笑って力こぶを作った。
あーヤダヤダ。品がないんだから。
エリュシオンが肩を竦めて、首を振る。
「ちょっと、そこの2人。一緒に焼肉でもしたいのかな?」
彼はにっこり笑って、唇に指をひとつあてた。
「エリュシオン様!!」
ようやく、助かった事を理解したアーネストが、その名前を呼ぶと同時に、全身の毛を逆立たせた。
うっ……
チリチリと、肌を焼かれる感覚。
自然のものではない。魔力で吹き上がった風で、色素の薄いエリュシオンの髪は揺れていた。足元は、瞳と同じ薄い紫色で染まっている。
「2人とも、早く行きなさい。エリュシオン殿が、囮役になるので、巻き込まれますよ。ほほ」
セドオアが、全く動じない様子で2人に声をかけた。その手には、剣が握られている。
「囮……役……」
「ジュディ殿! 捕まってください」
支えられながら、グリフォンに乗せられると、ジュディは、遠く空を見あげた。
少し離れた場所で、白い虎がこっちを見ている。
”後は、まかせろ”
アシェルの口が動いている。親指が立ったのを見て、ジュディの意識は、急に遠のいていった。
「あれで最後?」
エリュシオンが、飛んでいくグリフォンを見ながら、一回、瞬きをする。
「ですな。やっていただいてよろしいかと」
「そう? じゃ、遠慮なく。アレクシス、あんまり恨み買わないでね」
ガキィィィ!!!!
地面にヒビが入る。
アレクシスは振り落とされた前足を、大剣で受けていたところだった。
「はっ! 舐めた攻撃すると、効かねぇぞ!」
「僕を誰だと思ってんの?」
そんな、アレクシスの言葉を軽く往なして、ニヤリ、とする。エリュシオンは手のひらの上で、魔術を構築し始めた。
始まるな。
離れた場所で様子を見ていたアシェルも、緊張感に包まれる。それと共に、彼の抱えていた物体も、もぞもぞと動き出していた。