66 氷海で唄ったオルニス 60『深海で目覚める怪物』
ここから、裏です
「おはよ、ルシオ兄。もう来てたんだ」
「あぁ、朝、様子を見て、まだかかりそうならと思ったんだが」
ルシオが、目をつぶって、サファイアを指さした。
「え……」
あろうことか、サファイアを寝かしていたはずのカノンには、何も乗ってなかった。
エリュシオンが駆け寄り、マットレスに手をつけると、もっと驚いたものが見えた。
「げげ……嘘でしょ?」
サファイアは、壁と、ベッドのほんの少しの隙間に、掛布ごと落ちて、しかも、そのまま眠っていた。
「そんな訳で、体調は、よろしい、そうだ。午前中にでも起きるだろう」
「寝相が指標ってどうなの? 大人になったら治るのかねぇ」
「子供の寝相が悪いのは、普通のことだ。それに、大人になるにつれて、睡眠の周期が変わり、寝相もよくなる」
エリュシオンが、サファイアを抱えてベッドに戻して、きょとん、とした顔をした。
「そうなんだ。さすが、ルシオ兄! 物知りぃ」
ルシオは呆れて、ため息をついた。
「しばらく、ここに居る。やる事があるなら、今のうちに行ってきたらいい」
「あー……やることねぇ。そうなんだよね」
浮かない表情をするエリュシオンに、ルシオが眉をあげた。
「なんだ、気がすすまない事か?」
「まぁ、そんなところ。行ってくるね」
ルシオに言ったら、一緒に聞きたいというかもしれない。
何かは、分からない。
だけど、ルシオは、サファイアに関して、何か重大な事を、隠している、と思った。
(おあいこ、だよ)
ギュイネスを迎えるために、邸の入り口に向かっていると、偶然、アレクシスに会った。
「よお」
「なんか久しぶりだね、おはよ。ごめん、サファイアを邸に置いたら、すぐ戻ってくるからさ」
そんな言葉をかけたくなる顔をしていた。
「かわいい娘についててやれ、と言いたいところだが、すげー忙しい……お前が仲良くしてる、広報部のやつなんだっけ?」
「ん、ブルノー?」
「そうそう。そいつ、昨日、サファイアの儀式の見て大騒ぎして、捕まってたぞ」
「ぶっ! なにそれ。ウケるんだけど。まぁ、大丈夫でしょ? なんせ、広報部だからね」
きっと、しこたま絵を撮っているだろう。
(後で、いいのあったら貰お)
「しっかし、昨日は、儀式見てたやつが大騒ぎだったな。そういや、サファイアはまだ寝てるのか?」
「もうちょっとで、起きそうだけどね」
「儀式に、修学院の入学に、アシェルの婚約者ときた」
「は?」
なにそれ。
エリュシオンが、アレクシスを見たまま呆然としていた。
「お前、まさか聞いてないのか?」
「なんで、アレクシスが知ってるの?」
「……アシェル本人が言ってたぞ。サファイア本人も了承しているってな」
大きくため息をついて、エリュシオンは額を押さえた。
「多分……言うの忘れてたんだろうけど、酷くない?」
「まぁ、サファイアも色々あって悪気はないんだろ? あんまり叱るなよ。ん?」
エリュシオンが、もう一度、ため息をついていると、レンヴラントがギュイネスを連れてきた。
「おい、エリュシオン。お前、約束してたなら、出迎えくらいしてやれ」
そう言い、レンヴラントはギュイネスをエリュシオンに引き渡す。
同じタイミングで、アレクシスも立ち去って行った。
「おはようございます」
「おはよう。ごめんね、少し遅かったな」
「大丈夫です、彼が案内してくれたので」
レンヴラントとは、同じ宰相の息子ということで、割と会うことが多いらしい。
「サファイア嬢は、まだ、寝ていますか?」
「昼くらいには起きそうだったけどね」
2人は歩きながら、エリュシオンが滞在している部屋の中に入った。
「それで、話って?」
椅子に座ったところで、ギュイネスにお茶を出した。
「サファイア嬢は、フェガロフォト国の人間ではありませんね?」
「それは……君にいう事ではないね。なんで?」
「いえ、彼女は、物心がやっとつくような歳から、孤児だと聞きます」
本当に、食えない。
孤児だったサファイアが、誰かに教えられず、魔術を使ったり、トラヴギマギアが使えたりなんて、するわけがない、という事だろう。
エリュシオンは、お茶をひと口飲んで、にっこりと笑顔をつくった。
「誤解しないでください。探ろうと言うわけではありません。私は、ただ、彼女と唄った時に、他国の力を感じました。それと、ちゃんと誰かから教えられている」
「教えられているって、なんで分かるの?」
エリュシオンの顔から、笑顔が消えて、ギュイネスを見つめていた。
「私の国や、フェガロフォトでは、唄は一般的にピアッシングだと教わります。ですが、唄とはヒスティングだと、教える国が存在します。彼女は、後者かと」
ギュイネスは、サファイアはピアッシングで唄う時の方が、意識をしている、と言った。
「なるほど、該当するのは2つくらい?」
「『グランドール』は言わずもがな、水の国『アクアフォレスト』、それと『フリーニア』も恐らく……」
「あそこ、そんな、国だったっけ?」
エリュシオンが天井を見上げて、記憶を探していた。
ギュイネスが頷く。
「砂漠の中にある、霧の国『フリーニア』は、最近、グランドールと親しくしていて、魔術の力が上がってきているんですよ」
「フェガロフォトは、国の順位で言ったら、中の下だからねぇ。そんな情報、あまりこないんだよね」
「オピオネウスは、アサナシア様のタウマゼインがあるのと、雪国の海産物のやりとりをしているので、うちの父も、フリーニアには、年に何度か行く事があります。最近の、国の変化には驚かされたと言っていました」
「そんなに? へぇ、一度行ってみたいな。まぁ、無理なんだけどね」
「こちらの国は、もうすぐ結界の貼りなおしですからね。しばらくはお忙しいでしょう。まあ、いずれにせよ、貴重な存在ですよ。ましてや、グランドールの民だったらそれこそ、他国も黙っていないでしょう」
グランドール国は、魔力も、魔術においても、他の国と比べ物にならないほど、秀でており、最も神に近い民であるといわれている。
空を浮遊していて、どこかに潜んでいるグランドールは、他国のものが、簡単に入れないようになっている、と言われている。
ブルノーが言っていた。
あまりの情報のなさに、本当にある事さえ、疑う、と。
「それは、心配してくれてるんだよね?」
「えぇ、もし、私を、サファイア嬢の唄の師として、選んでくださるのであれば、それを、考慮できると思いまして」
エリュシオンは、薄らと笑みを浮かべて、指の腹で感じる、細くて硬い感触を確かめるように、カップの縁をなぞっていた。
「悪いんだけど。どちらを選ぶかは、サファイアが決める。そうしないと、後々うるさいからね」
「そうですか……彼女が決める、となると、選ぶのは、きっと、ロウウェルでしょうね」
「そうなの?」
「彼の事を気にしてましたし、一緒に唄うと何となく分かるものです」
ギュイネスは、お茶を飲み干して、立ち上がった。
話は終わりらしい。
「それは、トラヴィティス同士じゃないと、分からないもの?」
エリュシオンも立ち上がり、見送ろうと、扉を開ける。
「そうですね。私も、ロウウェルも、唄える方だとは思ってますが、彼女は別格ですよ」
「あはは。それ、返事に困るね」
「時間を作っていただき、ありがとうございました。ここで大丈夫です」
「こちらこそ。良い情報をありがとう。気をつけるよ」
「あ、そうだった……」
ギュイネスが伝言を残し、会釈をして、開けた扉から出て行く。
(本当、笑い事じゃないよね)
歩いて行く彼の背中をしばらく眺め、エリュシオンも部屋から出て、扉を閉めた。
※
深い。深い。
太陽の光さえ届かない、海の底、深く。
ゴボッ、と大きな泡が立った。
体は蛇のように長く、海底の冷たさも感じない、強靭な鱗。
ドクン
ドクン……
何百年も、海の揺らぎと化していた、鼓動が海中に響きわたる。
もう一度、口から、泡が吐き出されると、今度は、急激に海水を吸い込み始めた。
海藻も、魚も、砂も。
海と同化する、髭が、揺らぎに反してしなった。
閉じられていた、真紅の瞳がゆっくり開き、ぎょろっと不気味に動く。
入った異物の不快で、開かれた口から。
突如、吐き出された、咆哮。
地震が起こったのではないかと、思い違う、大きな衝撃。
大きな津波が起こった。
その波とともに、怪物は海の中を、駆ける。
陽の光にに映し出された、美しい瑠璃の体よりも、その悍ましさに、世界が震えた。
海の怪物と呼ばれる『イポヴリキオンテラス』
目撃されたのは、ヒケッチャルヤ。
オピオネウス、フェガロフォトと同じ海に面している、少し離れた国であった。
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