64 氷海で唄ったオルニス 58『アイギスの儀 水渡し』
月のない、夜空には、雲はなく、星がたくさん瞬いている。
とても、いい。
エリュシオンと氷の城の最上階にある、展望台に降り立った。
サファイアが、きょろきょろとあたりを見回す。
「どうしたの?」
「約束してて」
「約束? こんな所で?」
不思議そうな表情をしていたエリュシオンが、サファイアの持つ外套を見て、眉をあげた。
「ここにいる」
城の中に入っていたアシェルが、足音を鳴らして展望台に踏み入った。
「なんで? 何するの?」
「すみません。やっぱり、わたしだけの魔力では足りなかったので……」
「嘘でしょ? アシェル」
簡単に、『水渡し』をする立場ではない彼が、安易に了承したとは、エリュシオンは思えなかった。
「本当だ。サファイアに、水を渡す約束をしている」
「えぇ……」
しかも、この、土壇場ならば、その手段は限られている。
「本当に言ってるの?」
アシェルが頷く。サファイアは、もう、覚悟を決めた、意の強そうな顔をしていた。
「2人して、コソコソ、信じられない」
「すみません。どうしても……エリュシオン様に見せたくて」
そう言われては、さすがにエリュシオンも黙っていた。
だけど、目は細めて不快をあらわにしている。
「エリュシオン。サファイアは俺に“生きたい“と言った。前向きに、お前の為に、この儀式を成功させたいと願ったんだ。だから、そんなに嫌そうな顔、するな」
「サファイア、何するか分かってるの?」
「もちろんです」
サファイアが、ほとんど睨みつけるように、見上げると、エリュシオンは、諦めたようにため息をついた。
壁の近くまでいって、腕を組む。
「そんな、魔力を蓄えてる状態で、水なんか渡したら、苦しいの、わかってるよね?」
「はい」
依然として、彼女は強い眼差し向けている。
こうなると、サファイアは頑固だ。
「終わったら教えて」
エリュシオンは目を閉じていた。
アシェルが息を吐き、サファイアの近くに寄った。
「お前、分かってないだろ?」
「でも、ああ言うしかないので」
「お前は、頑固だな」
「それ、たまに言われます」
アシェルが軽く笑う。
「でも、これじゃ、ちょっとやり辛いな」
「うわっ!」
急に体を持ちあげられ、欄干に座らされる。
「ちょっと、大丈夫?」
2人して、エリュシオンに目を向けると、吹き出し、声のトーンを下げた。
「エリュシオンが怖いから、早くやるぞ?」
「そうですね」
手からじゃなければ、どうするんだろう?
サファイアは首を傾げていた。
「魔力を渡すには、手に描いた陣からの他に、口から直接注ぎ込む方法がある。その他に……」
「その他に?」
失言だったかのように、アシェルは口を開いたまま、目を逸らした。
「……お前は、まだ、知らなくていい」
「なんですか? それは」
知らなくていいって。
むすり、とサファイアが鼻から息を出した。
「大丈夫なのか? 口からだって言ったんだぞ? やめるなら今のうちだ」
「やめませんよ。やるって言ったじゃないですか」
口からだと言うのには驚いた。だけど、時間は迫っている。
迷うことはなかった。
「早く唄わせてください」
「まったく。勇しいな………分かった」
両手をつかまれ、アシェルの顔が近づいた。
恥ずかしくて、緊張もする。でも、躊躇される方が、意味があるようでよっぽど恥ずかしい。
出来れば一思いに……
唾を飲み込んだ。
そう思っていると、アシェルも察して、サファイアの口に、自分の口を寄せた。
(うわっ!)
思わず声をあげてしまいそうな衝動をこらえる。
これは、キスなんていう、甘いものではない。
掴まれた手を力一杯握り返す。
口を離そうと、身を引くと、片手で体を押さえ込まれる。
(あぁぁぁぁ! 熱い!)
熱くて。
苦しい。
苦しい。
苦しい。
………
………
身を焼くような衝撃をこらえて、確かに、4拍。
「ぅ……ぅぅ……」
アシェルが口を離すと、サファイアは苦しそうに彼にもたれかかった。
「終わりだ。エリュシオン、早く来い」
その声を聞いて、エリュシオンが足早にアシェルから、サファイアを受け止めた。
「大丈夫……じゃないよね」
「…………っ」
息をすることが、やっと、だった。
サファイアは顔を歪めて、エリュシオンの服を掴んでいた。
「もう……こうなったら、早く放出するしかないよ」
しがみついた手をはずして、エリュシオンがサファイアを欄干に立たせ、体を支える。
「なんでもいいから、早く」
やることは決まっている。
大きく息を吸い込んだ。
苦しくて。焼けてしまいそうな体。
それでも、足を踏んばり、星が輝く空にむかって、サファイアは、高々と声をあげた。
急激に高まる魔力の濃度。
それと共に、空に、それはとても、巨大な魔法陣が一瞬にして浮かびあがった。
※
その、異様な光景に、離れた鑑賞席から見ていた、アサナシアが立ち上がった。
「なんだ、あれは」
ざわざわと、不穏をあおる人の声が席まで聞こえる。
空に放たれた魔法陣。あれだけで、相当な魔力を消費するだろう。
「妖精は何をするつもりだ! あれでは最後まで持つわけがない!」
アンセルも空を見上げて、口を押さえていた。
「アンセル! 辞めさせろ! 命を落とすことだって!」
大きな声を張りあげて、アサナシアが、アンセルの腕をつかんだ。
「……いや。恐らく大丈夫、な筈だ」
「なぜ、そう言いきれる?」
「私は、サファイアという人物と、あまり親しくはない。だが、頭の良い子だ。きっと考えがあってのことだろう」
アサナシアが、無言で、アンセルを睨みつけていると、静かで、穏やかな唄が始まった。
宝石箱かお菓子の瓶をひっくり返して、眺めているような、そんな情景が浮かぶ。
「これは、『夢』?」
「はは、これは、凄いな。私にもできん」
「笑い事じゃない……」
でも、本当に信じられない光景に、アサナシアは言葉を失うしかなかった。
雲のない、満天の星空から降る、雪。
苦しげな最初とはうって変わって、安心できる唄に変わっていた。
氷の城の最上階に見える、小さな少女の姿は、本当に、『雪の妖精』のように見えた。
違う。
「……がんばれ、サファイア」
いつしか、アンセルから手を離し、アサナシアは立ったまま、儀式を見守っていた。
次回『アイギスの儀 ガランサス』
カリスティオクリュシュタ 表パート 最終回となります。
お読みいただき、ありがとうございました。