55 氷海で唄ったオルニス 49『超えられない、国境』
「どうした? そんなに暴れて……」
サファイアは、息を切らして、膝に手をついていた。
ロウウェルも相当、具合が悪いらしく、いつかの薬と同じ匂いがしている。
「アサナシア陛下。このまま、点検しにいくには、少々、危険かと思われます」
ギュイネスが彼を支えて、いったん自国の領地へ戻ることを、強く希望した。
「全く、痩せ我慢をするのはいかん」
「申し訳……」
「まぁ、仕方ない。済まないが、お前たちもドゥローゼンまで来てくれ。そこからなら、点検する場所もちかい」
具合の悪いロウウェルが、少し可哀想な気もしたが、サファイアは、それどころじゃなかった。
ふるふると首を振り、エリュシオンの手を握った。
「なに? 越えちゃいけない理由でもあるの?」
「…………」
「越えるの怖い?」
コクコク、と首を縦にふった。
「怖い、かぁ……」
エリュシオンは、困ったように、腕を組んだ。
「おぬしらは、少なからず『妖精』とは、仲がいいのだろう? なら、危険ではないと教えてやればいいだろう。とにかく、ギュイネスはロウウェルを先に連れていけ」
「分かりました」
「ほら、一歩出てみろ、怖くはない」
ペチンっ!
アサナシアが手をつかもうとして、サファイアがふるふると首を振り、差しだされた手を、叩き落とした。
「サファイア! いい加減にして! こんなことしていい相手じゃない!」
エリュシオンに怒られて、サファイアはさらに青ざめていた。
何も言わない他の3人をみて、とぼとぼと足を動かし、ようやく国境線の前にたった。
「…………」
「ただ、またぐ、だけだ。怖くない」
本当にそうなのかは知らない。でも、怖かった。
口のなかが苦い。
サファイアは息を大きく吸うと、そこで息を止める。
落ち着いたように、周りにはみえたという。
目を閉じる。
一歩、だけ。
足を前にだした。
サファイアの背中を、少し離れたところから見ていたエリュシオンは、彼女の外套が中で動いているのを見ていた。
そして、それが……
刻印を手で押さえているのだと気づくと、エリュシオンは全身に寒気が走り、血相を変えた。
「サファイア! だめ!!」
もう、足はあがり、前に出している。
走って、サファイアを引き止めるように抱きしめると、一気に黒い炎があがる。
警告なんていう、生優しいものではない。
その、黒炎のなかに現れたのは、鎌をもった死神……
「離れろ! エリュシオン!」
「うそ! 嘘でしょ?!」
契約を破った時に起こる現象。
「ハロスだ!」
そう、呼ばれているものだった。
足は出ていなかった、なのに。
アレクシスが駆け寄る。その前に、サファイアをエリュシオンごと、すごい力で引き寄せた人物がいた。
2人は、完全に国境を越えていた。
『エレンホスティス、無効化せよ!』
死神が鎌を振り上げ、もう、ダメだと思った瞬間、それは起きた。
すでに、陣とはいえない。
国の全体に広がる魔力の塊『支配者』
それは、国王のみが使うことを許される空間魔術だ。
「ほんの少し、出てしまっていたのかも知れない。あまり長く使うつもりはない、早く戻れ!」
鎌を振り上げていた死神が消え、アサナシアがうろたえるエリュシオンに、指示を出す。
エリュシオンがフェガロフォト領に戻ると、アシェルとアレクシスが息を吐いていた。
「サファイア?! サファイア! どうしよう。息……してない」
「かせっ! 無効化は間に合ったはずだ」
アサナシアが、エリュシオンからサファイアを奪い取ると、氷の上に寝かせて、口から息を吹き込みはじめる。
「がんばれ、戻ってこい」
何度も。
何度か、息を吹きこむと、目蓋がピクリと動き、サファイアがうめき声をあげて、息を吹き返した。
「うぅ……ぅ」
「サファイア! この、ばかっ」
エリュシオンはサファイアを強く抱きしめ、緊張の糸が途切れ、涙を流していた。
「もっと、拒んでくれなきゃ……」
「すみません……」
「ごめん、ごめんね」
サファイアは、あの時、やろうと思えば、魔術でも何でも使って拒めたはず。
なのに、彼女は。
…………諦めてしまった
まだ、そんな事が、できてしまうサファイアが、エリュシオンは本当に怖かった。
「エリュシオン様は、引き止めてくれたじゃないですか……」
そう言って、弱々しく微笑むサファイアを見て、エリュシオンは涙が止まらなかった。
「助かったのはいいが、これでは、他の所の点検は無理だな。おぬしは、こやつらを送ってやれ」
「は。お心遣い感謝いたします」
「礼などいい。私にも責任がある」
アレクシスが頭を下げ、エリュシオン達を連れて行く。
「王子らは、知らなかったのか?」
「契約の刻印があるのは知っていました。しかし、彼女は幼少期の記憶がなく、これが、禁忌だったことは、私たちも知りませんでした……」
「おかしな事を言う。彼女は知っていたじゃないか」
「っ……」
「他国のことに、口を挟むつもりはない。が、妖精のファンとして、言わせてもらう」
アシェルは、手を強く握りしめていた。
「『国から出てはいけない』という、禁忌があるという事は、その刻印をつけたのは、この国の人物だという事だ。もしかしたら、アンセルかも知れんぞ?」
「それは、ありません。私は、父が『サファイア』と言っているのも、以前の名前で呼んでいるのも、聞いたことがあります」
契約魔術の、言ってはいけない事、の2つは、大体が、契約者のなまえと、契約の内容と決まっている。
逆に、サファイアが国王の名前を言わないのは、おかしい事ではない。
「なら、ちがう誰かか……」
アサナシアが自分の首をさすり、ため息をついた。
「固有魔術を使ってまで、助けていただいて、ありがとうございます」
「何をいう、王子もいずれは使えるようにならねばいかんのだぞ? そうしたら、おぬしが助けてやる事ができる」
「はい……、精進します」
握りしめた手が、痺れてくる頃、エリュシオン達を送ってきたアレクシスが戻ってきた。
それと同時に、ロウウェルを置いて来た、ギュイネスも、ジオトリフを連れて戻ってくる。
彼は、アサナシアに口うるさく固有魔術を使った理由を求めていたが、適当にはぐらかす彼女を見て、諦めたらしい。
途中になっていた点検を終わらせると、みな、無言で、自分の国へと帰ることになった。
次は、『雪の降る夜。願いと条件』です。
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