40 氷海で唄ったオルニス 34
つぅっと掌に落ちる少しとろみのある水を感じひたすら集中して注ぐ。
前よりもずっと上手に出来るようになった。
返したいと思うのは今の環境を与えてくれるエリュシオンとバウスフィールドにいるみんな。
サファイアが包むように手を合わせると少しずつ魔力が固まっていく感覚を覚えた。
物音一つしない静かな空間なのに柔らかい空気は少しだけ埃っぽい図書室の匂いと似ている。
窓から差し込む光で塵がきらきらと舞いスコティケーマに降り注いでいた。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
(そろそろいいかな?)
手の中の魔石が随分と大きくなった頃、サファイアが細く目を開けて呪いを唱える。
「Κηδεμονικός」
付与をかけるとサファイアは大きく息を吐き手のひらを眺めてにっこりと笑った。
「出来ました」
後ろからは声はせず規則的に呼吸している音が聞こえた。
振り返って見るとエリュシオンは開いた本を膝に乗せたまま眠っていた。
「…………」
起こした方がいいのか。
サファイアは魔石を持ったまま立ち上がると静かにエリュシオンに近づいてじっと眺めていた。
(綺麗)
整った顔に長い睫。
寝ているといつもよりずっと若く見えるのは何故だろう。サファイアは隣に腰掛けるとエリュシオンの睫に手を伸ばして微かに触れた。
睫が小刻みに震える。
(疲れているのかな)
そう思っているとエリュシオンは眉を少し寄せて倒れかかって来た。
「きゃっ」
いくら細身な彼でも体の小さなサファイアには支える事が出来ず一緒に倒れ込んだ。
埃とお互いの纏う香りが舞いあがった。
「ん……」
「起きてください。動けません」
ふわふわして柔らかい。
よく知るミゲの香りを間近に感じてようやく目を覚ましたエリュシオンは自分がサファイアを下敷きにしている事に気づき勢いよく体を起こした。
「びっくりした」
「驚いたのはこっちですよ」
「できたの?」
黄色い魔石を見てエリュシオンはサファイアの手ごと掴んだ。
その石の色のように手が温かい。
澄んだ魔石はその先にある手の皺まで見える。
指でつるつると撫でているとサファイアは自分の鼻先に魔石を差し出した。
「どうぞ」
「また随分純度が高いのができたね」
「当たり前ですよ……」
環境も体調も今までとは違って良いのだから。
作っている時には感じなかった怠さを少し感じ始めるとサファイアはころっと横を向いて目を閉じる。
布が擦れる音。
エリュシオンが立ち上がりサファイアの前で屈み頭を撫でた。
腹の虫が鳴く音がして彼は噴き出す。
「何時になっているのでしょう」
「2刻」
動きたくない。目をつぶったまま聞くとエリュシオンは答えた。
確かここに来たのは5の刻になる前であるそれから2刻……
「思ったよりも時間がかかりました」
「まぁ、お腹が鳴るのもおかしくはないよ」
腹は減っているのに動くのが面倒でそのままでいるとエリュシオンに抱えられる。
1の刻。
口にいつしかの無味無臭の飴を放り込まれサファイアの頬が膨らんだ。
「アルフォンス達も待っているだろうから帰ろ」
腕から感じる体温にエリュシオンは安堵の表情を浮かべていた。
「食べるのも面倒です」
「食べさせてあげようか?」
「…………」
サファイアが閉じていた目を開けて体を起こすとエリュシオンを見上げて彼の髪を引っ張る。
「自分で食べます!」
「いてて、あはは」
目を釣り上げて怒るサファイアを見てエリュシオンはカラカラと笑っていた。
アルフォンスがなかなか帰ってこない二人を心配して何度も廊下を覗いていた。
物音がして外をもう一度覗くといたのはユニとエナを連れたアニスだった。
「アニス……」
「貴方達見てみなさい。子供が産まれる父親みたい」
「…………」
「二人とも困っていますよ。アニス」
無言になっている二人を見たアルフォンスが手で腕を摩っていた。
「そんなに心配しなくともお二人はちゃんと帰って来ますよ」
「そうなのですが……」
少し前に魔石を作った後のサファイアを見たこのあるアルフォンスはその時のエリュシオンの表情を思い出し心配せずにはいられなかった。
もしかしたら困っているのかも知れない。
首にかけてある鍵を使えば扉は開くし秘密基地にも行ける。
もどかしい。
「…………」
胸元を押さえるとアルフォンスはため息をついた。
「行きましょう。二人とも」
「はい」
アニス達が行ってしまうとアルフォンスはそこで一人佇んでいた。
もし本当中に入ってしまいそうならアニスも止めるはず。
それを一人残すと言うことは『信用』という事だろう。
(わたくしもお二人の事を信用しなくてはいけませんね)
そう思いエリュシオンの部屋に入っていきエリュシオンがサファイアを連れて帰ってきたのはそれから半刻ほどしてからだった。
「はぁっ……よかったです」
扉が開く音がしてアルフォンスが顔を覗かせると待ち侘びていた二人の姿に思わず声を漏らす。
「見てよサファイア。アルフォンスが子供が産まれる父親みたいな顔してるよ」
「……心配させてしまいましたか?」
普通の子供ならエリュシオンの言葉に笑ったり同意したりするだろう。
アルフォンスは急に姿勢を正していつものしまった表情をした。
「心配はしていましたが信じてました」
「ありがとうございます」
サファイアが微笑む
前よりも余裕がある事が分かり二人を部屋に入るように言った。
その後は食事を食べてサファイアをベッドに寝かす。
「僕の部屋だし一応部屋にはいる様にするけど。大丈夫?」
サファイアは布団を掴みコクコクと頷いて目を閉じる。ベッド脇に寝付くまでエリュシオンが座っていると、寸刻の後には寝息が聞こえてきた。
「相変わらず……」
寝付きが良い事に言葉を漏らすとエリュシオンはサファイアの手を持ち上げてみたり髪を触ったりしていた。
「気を失っているのと、寝てるのか変わんないじゃん」
「あまり弄くるのはいけませんよ」
サファイアを着替えさせてくれたエナと共に食事の後片付けをしていたアルフォンスが苦い表情を作る。
次にサファイアが起きた時にはもう外は暗くなっており食欲旺盛な彼女をみて誰もが『大丈夫』だと思っていた。
「よく食べる様になったね」
「大食いみたいに言わないでください。魔石を作ったからですよ」
「でもそろそろおやめくださいね」
サファイアが口を尖らせると空いたお皿眺めてアルフォンスを見た彼女に彼は言っていた。
食事を摂った後は湯浴みに行く事になった。
浴室までエリュシオンと一緒に来てもらい、手前で彼が立ち止まると扉が閉まって見えなくなる事に漠然と恐怖を覚えた。
「…………」
浴室にはアニスに見守られたエナとユニがおり黙って扉を眺め続ける自分を心配そうに見ていた。
「サファイア様? お洋服脱がせますね」
手が冷たくなっていく。
ざあっと血液が下に降りていく感覚。
エナが服を脱がすと真っ白い肌が露わになりサファイアは身を縮めた。
「大丈夫ですか?」
「うん。寒いから早く浸かるね」
震えている手を重ねて紛らわすと湯船に足を入れてゆっくり体を沈める。
(寒い)
温かい湯の中にいるはずなのに全く体は温まらなかった。
(寒い)
扉が閉まって人が見えなくなるのは当たり前なのに何度も先刻の光景が頭の中を巡りサファイアは目を閉じていた。
(違う……)
「サファイア様!」
歪な形のアニスの声。
「違うの………」
寒くて震えているのではない。
生体研究所にいた最後の日、ルシオとお別れをした時に似ている。
淋しい
サファイアが勢いよく立ち上がると水飛沫が上がり体からぽたぽたと温水が滴る。
それが落ち切るのを待たずに湯船から出て扉に向かって走り出すサファイアを既の所でアニスが取り押さえてタオルで包む。
「いけません。サファイア様! せめて服を着てください!」
「いや!」
強く拒否をする彼女は珍しい。
アニスは思わず緩めてしまう手に力をこめてサファイアを落ち着かせるように背中を摩る。
(なんで行かせてくれないの?)
淋しいと寒いと苛立ち。
振り切ったサファイアは扉の前に立ちはだかるアニスに混乱して蹲ると体に力を入れた。
様子がおかしい。
そう思った時にはもう遅かった。
「エリュシオン様をお呼びして! すぐ!」
頷いたユニが躊躇う事なく走って行き直ぐにエリュシオンを連れて戻ってきた。
一緒にいたのかエミュリエールとアルフォンスもその後ろについて来ていた。
「えぇ……うそ」
全裸に対しての事なのかそれとも。
蹲ったサファイアの周りには体を守る様に繭のような膜が張られていた。
「殻だな……」
エミュリエールが呟くと前に出て殻に触ろうとした。
「やめて」
エリュシオンがその手を掴みエミュリエールの前に出た。
幼いうちは強く恐怖を感じると生理的な防衛反応として結界を張る事がある。
それを『殻籠り』と呼んでいた。
普通の結界の様に魔術を干渉させる事で壊す事は可能だがあまり荒い壊し方をすれば子供の心に恐怖を植え付ける事にもなる。
「僕がやるよ」
兄にはさせたくなかった。
「いいのか? お前。結構使うぞ」
「まぁ、倒れたら代わりにお願い」
こういう事があっても当主は普通手を出さない。
それは、この邸全体を外部から守る為に結界を張ったり邸に過ごしやすい様に魔力を流している為だ。子供相手なら魔力も少ないので殻も簡単に壊す事ができる。
だが、サファイア相手ではこの邸だと兄と自分の二人だけとなるだろう。
この国内でも何人いるだろうか。
「まぁ、大丈夫だよ」
(幸い彼女の魔石持ってるしね)
エリュシオンは静かに殻に触れるとゆっくり干渉させて行った。
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