17 氷海で唄ったオルニス 11
膨らませて。
膨らませて。
頭の中で広げると葉脈の様な道を見つける。
偶然見つけた路地裏みたい。
執務が始まり3日後。
昨日の様子だと丸く収まったと思って安心していたアシェルとアレクシスは不機嫌そうな表情でやって来たエリュシオンを見て顔を見合わせた。
「おはよ……」
心なしか声にも元気がない。
アレクシスが目で“聞け“とアシェルに訴える。仕方なさそうにため息を吐くとアシェルはエリュシオンに声をかけた。
「どうした? 話は収まったんじゃなかったのか?」
エリュシオンは机に着くと机に突っ伏していた。
「ほんと、信じられないよ……」
一体何が?ともう一度顔を見合わせた二人はエリュシオンを見た。
「拗れているのか?」
アレクシスが立ち上がるとエリュシオンの肩を掴んだ。
「なんの話?」
起き上がったエリュシオンがきょとんとした表情で首を傾げた。
「なんのって……」
二人の顔を見たエリュシオンは勘違いをしているらしい事に気づくと笑い声を上げた。
「あはは。二人ともなんて顔してるの? ただの寝不足だよ」
そう言ったエリュシオンはサファイアの寝相恐ろしく悪くて眠れなかったことを二人に話した。
「大体、兄上もはっきり言ってくれればいいのに……」
「…………」
「…………」
アレクシスは掴んでいた手を放すとそのままエリュシオンの頭を叩いた。
「紛らわしい事言いやがって!」
「痛いなぁ! そっちが勝手に勘違いしたんじゃん」
それを見ていたアシェルは気持ちよく笑うとまた机に視線を落としていた。
「そうだ。ねぇ、アシェル」
「ん?」
アシェルは視線を書類に向けたまま、エリュシオンに返事をする。
「キサラない? 4分の一のやつ」
「キサラかぁ……なんでだ?」
今日の朝起きると既にサファイアは起きていた。部屋に置きっぱなしになっていたキサラを見つけた弦を弾いた音でエリュシオンは目を覚ました。
「サファイアが弾きたそうなんだけどうちは大人用のしかなくてね。あったらでいいんだけど……」
少し弾いてやると尊敬の眼差しで自分を見ており多分覚えようとしていた。
「アシェル殿下のはもう4分の三ですね。もうすぐ大人用のになります」
アシェルがウェスキニーを見ると彼はかしこまって答えた。
「だそうだ」
「そっかぁ」
エリュシオンは自分の頭を撫でると「じゃあ取り寄せるしかないかなぁ」と呟いた。
4分の一のキサラと聞けば、誰に使わせるのかは聞かなくてもわかる。アレクシスが自分の机に帰ると勢いよく座って仕事をし始めた。
ウェスキニーは書類を整えた後各自の机を確認したあと部屋を出て行った。
「氷上祭で弾かせでもするんじゃないだろうな?」
「あ……」
多分アレクシスは適当に言っただけだろう。
でもその言葉を聞いてエリュシオンは良いことを聞いたかのように顔を上げた。
「そんな発想なかったかも?」
「おいおい……」
アレクシスは腕を組み宥めるようにエリュシオンに言った。
ただでさえサファイアは目立つ。
表立って隠す事はしないにしても多少は隠さなければ問題が起きかねない。
出来ればそれは避けたかった。
「やめろよ?」
「なんで? ねぇ、アシェル?」
「…………」
アシェルが顔を上げると想像して微笑んだ。
「こらっ! アシェル!」
嫌な予感がしてアレクシスはアシェルを止めようとした。自分はエリュシオンは止められても位の高いアシェルの決定には逆らうことができない。
それを分かってエリュシオンはアシェルに話を振ったのだろう。
「アレクシスを押し退けていいなんて言えないだろう? それよりサファイアはいつ来るんだ?」
簡単にはいかなかった。
エリュシオンはペンの羽根で頬を撫でていた手を止める。
そう言えばその事もあった。
後二日執務をやると何もなければまた5日間の休みに入る。
ルシオにも診察に来るように言われている。
「んー……と」
「俺もあまり期間が空くと記憶が曖昧になるし出来ればあと2日のうちにして欲しいんだけど」
「そうだよね」
羽根ペンの端と端を持ってまわす。
昨日はサファイアの寝相が悪くて散々な目にあった。エミュリエール云く体調が良い証拠という事だ。
明日?
急な話でルシオが来れるかどうか分からない。
「ルシオ兄に明日か明後日合わせられるか聞いてみる」
「サファイアの方は平気なのか?」
アシェルは手元に視線を置いていたが考えていたのは別の事だった。
機嫌が悪くなって籠城した後、仲直りは出来たらしいが詳しい話は聞いていなかった。ルシオが寝不足だと言ってエリュシオンを返した日、ルシオは『きつく叱ったから落ち込んでいる』と言っていた。叱ったのはエミュリエールだろう。エリュシオンに渡した箱には何が入っていたのか?
あれは……
(たぶん魔石だな)
「少し魔力は減っているけど元気だよ……」
羽根ペンを持ち替えたエリュシオンはまた羽根で頬をゆっくり撫でていた。
「あまり無理させるんだったら日を改めたっていいだろ?」
「…………」
二人の話を黙って聞きながらアレクシスは書類を捌き始めた。アレクシスには二人の言っている事が半分くらいわからなかった。
「ルシオ兄には早く見せておきたいんだよね。それに、奇矯の事もあるからサファイアにも早めに話しておきたいし」
「なんか、忙しいな」
「そう、それ」
エリュシオンが羽根をアシェルに指して言った。
「お前、お喋りするんだったらさっさとルシオに手紙でも書けよ」
「そう、それ!」
羽根をアレクシスにも向けるとエリュシオンは引き出しから紙を出して手紙を書き始めた。
その様子を見て二人がため息をつくとまた執務を再開し始めた。
「……い!」
ぼんやり目を開ける。昨日は本当に眠れなかった。
眠い。
「おい!!」
肩を掴まれる。
アレクシスの大きな声でエリュシオンは目を大きく開いた。
寝ていた。
彼の顔を眺めて状況を理解するとそろっと目を逸らした。
ありえない……
「………ごめん」
「手紙」
アレクシスはそれだけ言うと何も言わずに机に戻っていった。
机を見ると確かに紙飛行機が置いてある。国手館からを示した杖に蛇が巻き付いている蝋封。
ルシオからだ。
中身を読むと明日は都合が悪いから明後日にして欲しいというものだった。
「ルシオ、明後日だって」
「いいんじゃないのか?」
手紙を読みながらエリュシオンが言うとアレクシスは特に怒っている様子もなく返事をした。
「それならこれ片付けないと駄目だろ?」
目の前に積み重なった紙の束。
5日間で貯めた書類はそれなりの量になっていた。
一日目はルシオに強制送還され、今は自分が居眠りした分だけ進んでいない。
終わらなければ3日後からの5休暇をずらせばいい話だが準備もある。国王陛下からの返事が来たらすぐにでも本格的に準備を始めたい。
(忙しいな……)
エリュシオンは腕を組んで目をつぶって考えると決心したように息を吐いた。
「仕方ない。残業する」
「嘘だろ?」
アレクシスは眉を高く上げて驚いた表情を見せた。
エリュシオンは事件や討伐の時は行動が分からない上に執務は時間になるとさっさと帰っていく。こんな真面目な事を言うのは初めてだった。
「なに? 僕がそんな事言ったらおかしいの?」
アレクシスの表情に不満を感じたエリュシオンは両手で頬杖をついていた。
「いや……お前が一生懸命執務なんてしたら雪が降るんじゃないか?」
「降らないよ! 寝ちゃってたからその分やってくの!」
いつも一生懸命なのに。とエリュシオンはぶつぶつ文句を言っていた。
「あはは」
アレクシスの意見に同感かそうじゃないか。アシェルはおかしそうに笑い声をあげていた。
「そこ! 笑わないで」
「悪い、悪い。じゃあ俺もそうするかな」
「アシェル!」
ノリ良く言ったアシェルにアレクシスは制止をかけた。
「だって見ておきたいだろ?」
「…………」
そりゃあそうだ。
アレクシスは無言になった。
特にやる事がないわけでもない。だが、差し当たって“今“というものは目の前の書類だ。
明後日にサファイアが来て能力評価をすると言うならアシェルも見ておきたいだろう。
アシェルが立ち上がって各自の机にある書類をまとめる。
「何してるの?」
エリュシオンは不思議そうに首を傾げた。
「今日終わらせる分と明日の分を分けようかと思って」
残業といってもだらだらと執務を続ければそれはそれで効率が悪い。ここまでという終わりを決めて行う事が必要だろう。
「ふーん?」
今サファイアがやっている課題。
自分が課題で国王の報告書を作った時に書いた内容。
時間でもいいのかもしれないが期間が決まっていてやる量が決まっている場合は仕事の量で終わりを決めたほうが良いという事。
(これくらいかなぁ)
明後日の分は5休暇に足すとして、明日届く分を考えて書類を分けた。
「お前ら何時に帰りたいんだ?」
書類を分けようとしてアシェルは顔を上げた。
これから何時間あるかという事も大事だ。
「出来たら4の刻。遅くても4刻半かなサファイアに今日のうちに伝えておきたいし」
勝手に話を進める自分達に不満そうな表情を向けていた。
「アレクシスは帰ってもいいんだぞ? あまり長く集中するのは好きじゃないだろ」
書類を分けながらアシェルが静かに言う。
「俺だけ帰るなんて出来ないだろう……」
後ろ向きで言ったアシェルの背中を見てアレクシスは腕を組んで深く息を吐いた。
「別に遠慮なんてしなくていい」
後必要なのは、納得させること。
納得に他人を理由にしないのは受動的にしないため。
「…………」
なんで?と理由を求められている。
エリュシオンはサファイアという明確な理由がある。
それなら自分はアシェルだ。
この頃人を試すような言動が増えてきたような気がする。子供の部分と大人の部分が少しずつ入り混じり始めているようにアレクシスは感じた。
「俺の使命でやりたい事だからだ」
アシェルは結界の張り直しをする国の大事な跡取り。国王になってからも側に付き歳をとって役目を終えるまで輔ていく事をアレクシスは国王陛下にもアシェル本人にも誓っている。
結局自分も甘い。
アシェルは随分とサファイアを気にしている。それは、恋とかそう言うものでなくもっと自分と近い感情のようだとアレクシスは思った。
「アレクシス、助かる」
振り向いてくしゃっと笑うアシェルを見てアレクシスはニカッと笑った。
「よーし。やろうっと!」
やる気満々のエリュシオンがガリガリと書類を進めていく。途中で昼食を摂り、夕食を摂る。
やっと終わったのは4の刻になる少し前だった。
「終わった……」
アレクシスが机に手をついて消えそうな灯火のような声を零した。
「やった。帰ろう!」
エリュシオンが残りは明日だと言うと早々に立ち上がり床に魔法陣を出そうとしていた。
「じゃ、お先に」
「お待ちください。エリュシオン様!」
ウェスキニーが慌てて扉を開ける。彼は手を上げて魔法陣に入ろうとしていたエリュシオンを呼び止めた。
「え? なに?」
あまりウェスキニーに呼び止められる理由のないエリュシオンが乗ろうとした足を止めて振り返った。
手には柔らかな皮の袋をもっていた。
そこそこの大きさがある。
「これをお持ちください。許可はいただいております」
中を開けると4分の一サイズのキサラ。
「これはラミエルのか?」
同じように中を覗き込んだアシェルがウェスキニーに聞いていた。
「ええ。ラミエル様はそろそろ2分の一サイズになりますから」
思いがけないウェスキニーの気遣いに嬉しくなるとエリュシオンは皮の袋を大事に抱えてにこっと笑った。
「ありがと。ウェスキニー」
「サファイア様にもよろしくお伝えください」
ウェスキニーはそう言うと胸に手を当ててお辞儀をした。
早く話がしたい。
邸に戻ったエリュシオンはサファイアの部屋に向かう。この時間ならまだ眠ってはいないはずだ。
「サファイア?」
歩いてくる音がする。
「おかえりなさい。お仕事お疲れ様でした」
暖かくしている部屋に入れてもらうと中には既に先客がいた。
「おかえりなさいませ。エリュシオン様」
「珍しいな。残業なんて」
寝る前のミゲの香木を焚きにきたエナとお茶を飲みすでに寛いでいるエミュリエールだ。
水差しでお茶を入れているサファイアがそわそわと手に持っている皮の袋を見ていた。
「はい。これ。借り物だけど」
エリュシオンに皮の袋を渡されるサファイアは落とさないように両腕で抱えた。彼女が持つと大きく見えてしまうのが不思議だ。
「どなたからですか?」
サファイアはソファに座って丁寧に結んでいる紐を解いていた。
「キサラか。この大きさだと4分の一だな。君に丁度いい」
隣に座っていたエミュリエールが中から取り出すのを手伝う。袋から出てきたキサラを見てサファイアは目を輝かせエリュシオンを見た。
「ラミエル様のだよ」
サファイアの部屋のお茶は体調管理の為いつもハモミリ(カモミール)になっている。湯気でたちのぼるミロに似た甘い花の香りを吸い込むとエリュシオンは一口啜った。
「でも、そしたらラミエル様は?」
ラミエル様は確か自分と同じくらいの背だったような気がする。
サファイアは不安そうな表情を浮かべた。
「ラミエル様は2分の一になるから使わなくなるんだって」
入籍式の時にお見かけした時よりも大きくなったのだろう。
サファイアはあの酸っぱかったエカトプードを思い出した。
「ありがとうございます」
嬉しい。
サファイアは顔を綻ばせると大事そうにキサラを抱きしめた。
〇〇さんが言ったのでやりました。
〇〇さんが行くので行きます。
私はこの言葉があまり好きではありません。
ハモミリのお茶は万能薬。
ギリシャではお茶は具合の良くないときに飲むもののようです。
でも、ちゃんとリプトンとかもあるのですって。
今日も読んでいただきありがとうございました。