12 氷海で唄ったオルニス 6
翌日にはすっかり熱が下がったサファイアは殆どの時間、エリュシオンと共に過ごしていた。
今日は転移陣の書き換えをすると言うので見せてもらっている。
「これは何処に行くためのものなのですか?」
まだ少し掠れてはいたがだいぶ声は戻っていた。
床に手をついたエリュシオンが筆で転移陣をなぞっている。
「ディアグラフォ」
白く光った魔法陣にパチパチとヒビが入り粉々になって消滅していくと何もないただの床に戻った。
「あのさ。術中は話しかけちゃ駄目って言わなかった?」
「………そうなんですか?」
思い浮かべたサファイアは顔を傾けていた。
「…………」
『瞬間記憶』を持つ彼女が忘れるはずはない。
エリュシオンは筆の柄を顎に当てるとまじまじとサファイアを見る。
「言ってないかも」
「ですよね」
こう言う理不尽に事にもサファイアは割と温厚で淡々と応えてくれる。
怒らせたらどうなるのだろう。
少し見てみたいと思いながらエリュシオンはもう一度床に手をつきカラカラと笑った。
「この前の秘密基地に行くやつだよ」
エリュシオンは筆に魔力を流しながらもう一度同じような魔法陣を床に描き始めた。
「…………」
終わってから。
さっき言われた事を忠実に守ってサファイアは黙ってエリュシオンの描いた隙のない綺麗な魔法陣を眺めていた。
「エングラフィ」
エリュシオンが舌なめずりをして筆の柄で魔法陣の描かれた床を叩くと重いものが落ちた振動が伝わって固定されたのがわかった。
「もともとあったのに何故書き換えを?」
サファイアは立ち上がって服の汚れを払っていたエリュシオンの背中に近づいて話しかけた。
「古かったからね」
転移陣は何百年経っても効果を維持できるものだ。多少年月が過ぎたくらいで書き換えされるものではない。
サファイアはしゃがんで目を細めると出来立ての転移陣を眺めた。
「綺麗ですね」
「僕が描くんだから当たり前でしよ」
エリュシオンは紫色の瞳を細め腰に手を当ててサファイアを見下ろしていた。
本当にこんな軽そうなエリュシオンが描くとは思えない程繊細な造り。彼の趣味なのか紫色の淡い光を携えている。
「どれくらい経っていたものなのですか?」
「4、5年ってとこかな?」
サファイアは目を大きく開けた。
「4、5年? まだ古くないじゃないですか」
「だって君が使えないと困るし」
そんな理由でわざわざ……
目をつぶって首を振っていると体が持ち上げられて転移陣の中に連れていかれる。
「ちょっ」
言った時にはもう秘密基地についていた。
中に差し込む光加減で天気が良いのが分かる。
それでももう5の月が半に入った今は少しだけ肌寒い。
「酔った?」
「平気ですね」
「寒い?」
「少しだけ」
エリュシオンは手招きすると壁に植え込まれている魔石の前にサファイアを連れて来た。
この装置は生体研究所にもあった。部屋の灯りと室温を調整するためのものである。
「ちゃんと見ててね」
サファイアが頷くのを確認するとエリュシオンが魔石に手を当て魔力を流し始めた。
「セルモ25、シンフォス」
魔石を通して部屋に魔力が通ると部屋が少しずつ暖かくなり灯りに火が灯った。
「灯りがいらない場合はセルモで設定する温度ね」
「こういう事だったんですね」
寒い時は寒くて暑い時は暑い。
孤児だった時の生活とは違い貴族の使う建物は魔力を使って生活している。
その魔道具や装置を作った初めの人の奇特さを感じてサファイアはふわっと笑った。
「さて、道も作ったしね」
「別に歩きでも良かったのですが……」
「駄目。駄目だよ」
エリュシオンは首をふってサファイアに指を突きつけると言わんとする事が分かったサファイアが頬を膨らませてそっぽを向いた。
「それに何かの時に道を作っておくと役に立つからね」
転移陣のある小部屋の鍵を持つのはエリュシオンとアルフォンス。
「これ紅のと一緒につけておいて」
サファイアに小さな鍵を見せると魔石をくぐらせてある鎖に一緒につけた。
「僕のは付けてくれないの?」
「壊してしまうのが怖くて」
鎖に通された鍵を見下ろしてサファイアが言う。
何故付けていないのかは聞かなくてもよく分かる。彼女が本気で魔術を使えば自分の魔石は耐えられないから。
「壊れたら作ってあげるのに」
エリュシオンがソファに勢いよく座ると体重を預けた。
「あれだから意味があるのです」
サファイアが手を合わせて頷いた。
あれはエリュシオンが自分の為に初めて作ってくれたもの。養子になる為に貰った記念のもの。
エリュシオンの隣に静かに座るとサファイアは横に置いてあるキサラに視線を向けた。
身を乗り出してキサラを掴むと膝の上に乗せた。
「もしかして弾けるの?」
「前に修道院で弾いてくれた旅の方がいて。弾けませんよ」
優しい指使いで弦をなぞる。
ボンと鈍い音をさせて弦を弾くと可笑しそうにエリュシオンを見上げた。
「昨日の声みたいです」
「随分置きっぱなしにしていたからね」
エリュシオンはサファイアの手からキサラを取ると丁寧に元あった場所に戻した。
随分置きっぱなしと言う事は弾いていたのはエミュリエールだったのかもしれないとサファイアは思った。
秘密基地への出入りは自由。
ただしエリュシオンかアルフォンスには声をかけていくのが約束という事になった。
休暇中とその後の課題やカリスティオクリュシュタの予定については邸で決めた方が良いと言う事になり二人で戻ってくるとアルフォンスに少し休息を取るようにと言われて食事までベッドに眠らされた。
「午後からは何をなさるんです?」
アルフォンスはサファイアの首に触れて熱がない事を確かめた後、テーブルで必要事項を書き込んだ用紙を見ていた。
「んー……。いつも見たいにのんびり魔術の勉強でもしようかな。“王様”の返事待ちだしね」
課題のことや熱の事は報告というかたちで済む。でも、他国の絡む『氷上祭』となるとサファイアを連れて行くのにはアンセル国王陛下の許可が必要である。
本当にちょうどいい。
修学院への中途入学前という立場が心強い味方だ。
エリュシオンは準備のことも考えて昨日のうちに国王陛下へ手紙を飛ばしていた。
紙を眺めていた顔を上げるとアルフォンスの顔を見る。
「そう言えば。あの子達は?」
サファイアがフィノスポロスピティに行く前に連れてきた二人。そろそろ半月になる。
「そうですね……」
アルフォンスが歯切れの悪い反応をした。
「あれ。結構駄目だったり?」
「いえ、二人ともやる気はあるのですが……」
特にユニの方が教えてもらうにも下働きするにも強く緊張しているらしい。
「あらら」
彼女は奴隷の報復の被害者であった事を思い出しエリュシオンは編んでいる髪の毛先を弄んだ。
「もう少しお時間いただくと思います」
「出来たら一人連れて行きたいけど、どう?」
まだ申請段階。
却下されれば元も子もないが許可が降りれば行くための準備が必要になる。エリュシオンにしては随分急な話だった。
「はい。その頃には必ず」
『氷上祭』は6の月半を過ぎてから行われる。
今は5の月半が終わったところ、ひと月を切っていた。
「僕も急にこんな話になるなんて考えてなかったなぁ」
エリュシオンは頬杖をついて苦く笑った。
思いの外可愛がっている自分と予想外に風邪を引いたサファイア。
あの甘えて寄ってくる様子を思い浮かべてエリュシオンはため息をついた。
「わたくしはついていかなくてもよろしいのでしょうか?」
「もしかして行きたかったり?」
アルフォンスが手を口に当てるとはにかんだ。
「正直、行きたいかと言ったらその通りなのですがここも心配ですので」
エリュシオンが邸に帰らない間はハウススチュワートであるアルフォンスが取り仕切る事になる。だが、今はエミュリエールもいる為少し余裕ができている。連れて行くことも不可能ではない。
「まぁ、申請がまず通る事を願うよね」
「許可が降りたら大急ぎで準備しなければいけませんね」
取り敢えず、エリュシオンは許可が降りても降りなくてもいいように準備するものを書き出すようにアルフォンスに依頼した。
後はサファイアの“事情“を知り何かあった時に動かせる人間の選出。
ここにはフィリズが確定していた。
(先輩は……大丈夫かなぁ)
口に手を当てるとクククとエリュシオンは笑う。ラトヴィッジ先輩は出来ればお願いしたいけど保留にしておくことにした。
後はもっとトラヴギマギアについてよく知っている人物が良いと思っていたが良い人材が思い当たらなかった。
大事なことは多過ぎず少な過ぎないこと。
大体5人以上10人未満を予定していた。
さっき触っていたキサラが過ぎる。
(後で……)
ルシオへも5日後の執務に来てもらうことも含めて了承とっておかなくては行けない。
(まず、これだなぁ)
エリュシオンは手紙を書く道具を持ってきてテーブルに置いた。
ワクワクする。
なんだろう去年久しぶりにエミュリエールに呼ばれた時よりもずっと。
ルシオへの手紙を認めているとエリュシオンは知らぬ間に鼻唄を唄っていた。
唄っている声が聞こえる。
とても楽しそうな声。
サファイアが唄に気付いて目を開けると唄いながら手紙を飛ばしているエリュシオンの姿が見えた。
まだ起きている事には気付かれていない。器用な彼も唄はあまり上手くないらしい。
本当に楽しそうだ。
感じる人間味。
不器用で温かくて安心する。
サファイアはもう一度目を閉じると唄に耳を傾けていた。
唄が終わってから今目が覚めた事にすると昼食を取る事になった。
午後は丸々のんびりする事になっていた。
エリュシオンはカリスティオクリュシュタに行くには色々準備が必要になる事と国王の許可が必要だと言った。
「そんなに手がかかるのでしたら私は違うところでも良いのです」
「駄目だよ。僕が連れて行ってあげたいんだから」
正直、エリュシオンがどういう意味でそう言うのかその心根は分からない。
でもエリュシオンは自分を可愛がってくれていると思う。
サファイアは彼と養子の契約を交わす時にある約束も交わしている。
それに対しての足枷……
「君さ、その何考えてるか分からない顔やめてよ」
「あ……すみません」
「最近は少し懐いてくれたかと思ったのに……」
ため息を吐かれてしまった。
「それで、この君の魔石。どれくらいのペースで作れるものなの?」
「そうですね」
ニュクスに食べさせるような小さな魔石は作りたい時作りたい場所で自由に作り出す事が可能だ。でも、エリュシオンの持っているような大きな物になるとそうもいかない。
「頑張って10日間にひとつでしょうか」
「…………」
その返事を聞いていたアルフォンスが顔に焦りを浮かべていた。
「余裕持ったらどう?」
サファイアは口に手を当てると展示を仰いだ。
「15日もあればひとつ作るのには十分です」
「3個ね」
「3個ですか?」
サファイアは首を傾げてエリュシオンに聞き返した。
「アレクシスと君の護衛二人には持たせておいた方がいいからね」
「…………」
手を後ろで組むと目を逸らして口を噤むと「考えさせてください」とポツっと言って部屋を出て行く。
「ちょっと。どこ行くの?」
「部屋に。おいで」
ニュクスを肩に乗せるとサファイアは静かに扉を閉めた。
初めて見る表情をしていた。
「エリュシオン様……」
アルフォンスがため息をついていた。
「やっちゃったな……」
アルフォンスがため息をつくとエリュシオンが頭の後ろを撫でて眉を下げていた。
怒っていた。
当たり前だ。
大量の魔力を消費して作った魔石を自分以外が選んだ人に渡せと言ったのだから。
サファイアの様子からして魔石を渡すのは感謝や信頼の証みたいな物なのだろう。
(少し欲張ったかな)
夕食に少しまた話をしようと思ったらサファイアは部屋で食べると言って出てこなかった。
「なんだ? 喧嘩でもしたのか?」
「うん。ちょっとね……」
エミュリエールに昼間あったことを話すと彼は怒るでもなく穏やかに笑っていた。
「ルシオが男と女では魔石に対して温度差があるのだと言っていたな」
「それって男の方が軽く考えてるって話?」
エミュリエールはこっくりと頷いた。
「サファイアはだいぶ魔石を贈る相手に気持ちを伴っているタイプだな」
「あの子の事を考えてたつもりで言ったんだけどな」
「もう少しちゃんと話をしてやるといい、きっと解決する」
そう言われても結局サファイアは夜寝るまで部屋が出てこなかった。
人には逆鱗になるツボがあります。
それはその人の大事にしているもの。人それぞれです。
時には怒った人の方が傷ついている。
そんな時もあるかと思うのです。
もやもやエリュシオンの可哀想な連休。早く仲直りできるといいね。
今日も読んで頂きありがとうございました。