家庭の地獄
翌日、2人は源泉近くの露天風呂に入った後、周辺観光とお土産を買って帰途に付いた。
『睦月さん、まだ未練はあるのかな?』
『分かりません。収監されていた時はかなり未練があったと梓さんは言ってますが、もう5年前ですし。』
話題はどうしても睦月の事になってしまう。
『私ね、睦月さんに聞いてみたい事があるの。そんなに大事な子どもなのに、どうしてあんなになるまで虐待したのかって。』
『私は、分かる気がします……。』
『こうちゃん……?』
このみは男の子時代の自分を思い返す。
『今でも父は私が憎くて暴力を振るった訳じゃないって思っています。私が父の思い通りにならなかったからじゃないかと。子どもの頃は親には従順で親の言う通りになろうとします。でも、父が男らしくって言う傍、私は女の子になりたいと言う別の意識が育っていったんです。』
『そうか。それって反発している訳じゃないのよね。ただ、親の願いとズレているだけ。暴力は許される訳じゃないけど、抑えが効かなくなるって事かな?』
『知香さん、その気になったら本当に睦月さんに確かめちゃうから怖いです。』
『そんな事しないよ。楓を守るためだから、2度と会わないで済めばそれに越した事はないけど。ただ……。』
知香は一度空を見て考えた。
『楓がやっぱり偽者の女じゃなくて本当のお母さんに会いたいって言うかもね……。』
『知香さんらしくないなぁ。大体楓ちゃんがそんな事言う訳ないですよ。』
『だったら良いけど……。』
知香の自宅に戻ると、道路脇に母・由美子の車が停まっていた。
『お帰り。このみちゃん、今日はありがとう。折角だから上がってお茶でも飲んでいって。健ちゃんもいるし。』
由美子はまるで自分の家の様にこのみに言う。
『でしたら湯の花まんじゅう買って来ましたから一緒に食べましょう。』
居間に行くと、健介が本を読んでいた。
『やあこのみちゃん、いらっしゃい。』
『楓は?』
『あら?今までここにいたんだけど。』
それまでは由美子と仲良く話をしていた様だが、知香が帰ってきたので自分の部屋に行ってしまった様だ。
『……ったく。』
『反抗期?そんな感じには見えなかったけど。』
祖母の由美子には普通に会話をしているらしい。
『この前の生理の時からなんだけどね。そのちょっと前からそんな傾向があったんだけど。』
『思春期の女の子は難しいからねぇ。でもね、ともちゃんも健ちゃんも全部自分一人で解決しようとする癖があるでしょ?山梨にいた時と違ってここには2人共両親がいるし、信頼出来る友だちだってたくさんいるんだから、もっと頼りなさい。』
『す……すみません。』
変なところが似ている夫婦だった。
『良いわ。これからちょくちょく夕食の時に顔を出すから。ともちゃんに言えない悩み、私が聞いてあげる。』
『ありがとう、お母さん。』
由美子は知香の料理の先生でもあるので、それだけでも助かるのだ。
『それでは私、今井の家にも寄りますからこれで失礼します。ごちそうさまでした。』
このみが立ち上がる。
『このみちゃん。今度渚ちゃんと一緒に梓さんも連れてきてね。楓も喜ぶから。』
『分かりました。』
このみがいなくなり、知香は2階にいる楓に聞こえない様に健介と由美子に睦月の話をし始めた。
『それは本当なのか?』
『間違いないと思う。……今の時点でもし睦月さんが楓に会いに来たら、楓、睦月さんのところに行っちゃうかも……。』
『なに弱気な事言ってるの、ともちゃんらしくない。もうその睦月よりともちゃんの方が長くかえちゃんの母親やってるのよ。』
『そうだ。楓だってあれだけその母親に虐待された訳だし、今さら帰りたいなんて言わないだろう?』
由美子と健介は知香こそ楓の母親だと説得をする。
『私だってそう思うけど……そう思いたいけど自信がないの!』
知香の叫び泣きは、再び鬱の状態になるサインだった。
高校時代もそうだったが、知香みたいに普段は前向きな性格の人ほど鬱に陥りやすい。
『とも。とりあえず落ち着こう。お前がうろたえたら楓の居場所がなくなるんだ。必要なら精神科で診てもらえ。』
医者である健介は畑違いではあるが知香の異変に直ぐに気付いた。
『ごめん、お母さん、健ちゃん。』
知香は涙を拭いて気持ちを落ち着かせようとする。
『明日、保育園の方は大丈夫?子どもたちは敏感だから先生が元気ないと直ぐ悟られるよ。』
『うん。明日早番だから、終わったら直ぐ病院に行く。』
知香は翌日、精神科で薬を処方してもらい、直ぐに落ち着きを取り戻した。
鬱は軽い症状なら投薬だけで済む事も多く、特に知香は予兆の時点だったので日常生活に影響はなかったが、自宅に帰ると地獄が待っている。
溺愛していた楓との冷戦は、知香にとっては何よりも辛い生活なのである。