温泉旅行
次の週末、知香とこのみは2人だけで伊香保温泉に1泊する事になった。
『無駄遣いはしないで、ちゃんとパパにご飯作ってね。パパ、ご飯が美味しくないと直ぐ怒るから。』
『……うん。』
知香が楓を置いて家を空けるのは初めての事だったので、楓の心はは小言を言われないで済むという安堵感と寂しさが入り交じっていた。
このみは、市内の実家に寄って知香の自宅にやって来た。
『お待たせしました。楓ちゃん、1日ママを借りるね。』
面倒臭いと思いながら楓は2人を見送る。
『社員旅行に招かれたばかりなのに悪いね。』
『あれは別です。予算の関係もありましたが知香さんたちを利用してしまったので。』
知香と健介、楓は表向きはななもえの社員旅行に招待されたが、これは梓と楓の再会のための演出で、ついでにホームページの撮影に付き合わされたのだ。
『こうちゃんの事だから、今回もなにか裏があるんじゃないの?』
『そんな事ないですよ。知香さんと2人だけで話をしたいと思っていたので、良い機会かなって思っただけです。』
知香とこのみの付き合いは20年以上になるが、2人だけで何処かに行く事は初めてだった。
『知香さん、申し訳ないんですが、高崎で一仕事しないといけないのですが、宜しいでしょうか?』
車は高崎インターチェンジで一般道に入り、問屋町の方に向かう。
『あそこにカメダがあるからお茶でもして待ってるよ。』
知香は喫茶店でコーヒーとシロノアールを注文してこのみを待った。
『申し訳ございません、お待たせしました。』
『こうちゃん、仕事モード入ったままだよ。』
知香はフランクだが、このみは何年たっても低姿勢で、先輩には敬語を使う。
『ね、仕事って販促か何か?』
『いえ。梓さんに来てもらって大変助かっているので、これからもうちで出所された方を引き取れないかと思っているんですよ。今日お会いしたのはその仲介をされている方なんです。主に旅館の仲居さんとかを紹介しているみたいですが、刑務所で縫製をやった方はうちみたいな会社でも雇えるかなって聞いてみたんです。』
『それって保護観察所とかで募集するんじゃないの?』
『そうなんですけど、出所された方が梓さんの様に真面目なら良いんですが、素行の怪しい人を雇ったりして近所から苦情が来たらうちみたいな小さい会社は直ぐ潰れちゃいます。なので、今日はどんな人が働いているか調査なんです。これから行く伊香保のホテルで、出所して働いている方を部屋に付けてもらう様にお願いしてきました。』
出所した人の働きぶりをチェックするために宿泊するのである。
『なんか探偵さんみたいだね。』
『その人を雇う訳じゃないから、普通にお風呂に入ってご飯食べるだけですから楽ですよ。』
喫茶店を出た2人は、一路伊香保温泉に向かった。
伊香保温泉は365段の石段街でよく知られている古い温泉で、源泉が石段の下を流れ、それを各旅館が引き込んでいる。
昔からある源泉は鉄分を多く含んでいるため茶色い湯で、後発のホテルなどは新たに掘削した透明の源泉を引き込んでおり、伊香保は大まかに言うと2種類の温泉が楽しめるのだ。
2人の泊まる宿は、石段から離れた高台にあり、200人以上宿泊出来る伊香保では比較的大きなホテルだ。
伊香保には500人規模の収容人数を誇る大型ホテルもあるが、特に石段に近い旅館はこじんまりした宿が多い。
『いらっしゃいませ。』
『今井と申します。』
名前を言うと仲介人からの連絡があったせいか、支配人が出てきてロビーに通された。
『本日はさち子と言う仲居をお付け致します。本人には何も話していませんので、普通にお過ごし戴ければと思います。』
どんな優秀な仲居でも自分の過去を知っている客の相手はしたくないだろう。
『お待たせ致しました。お荷物お持ち致します。こちらにどうぞ。』
さち子という仲居はやせ形で、2人よりやや歳上だろうか落ち着いており、着物がよく似合う。
エレベーターで5階の部屋に通され、窓の外を見ると高台なので雄大な景色が広がっている。
『展望風呂はこの直ぐ上の6階にございます。非常口は廊下の両側にございますので、後程ご確認お願い致します。夕食は6時で宜しいでしょうか?』
さち子はお茶を淹れながら一通りの説明をした。
『何かございましたらフロント9番にお電話お願い致します。ごゆっくりお楽しみ下さいませ。失礼致します。』
さち子は三つ指をついて挨拶をして部屋から出ていった。
『…………。』
『知香さん、どうしました?』
『いや、あの人何処かで会った様な……そんな事ないか?』
知香はさち子が楓の生みの親である関根睦月だという事は知る由もない。
『でもあんな感じだったら前科があっても全然問題ないんじゃない?』
『みんながみんなではないでしょうけれど、悪くないですね。』
このみは知香に話を合わせたが、本来の目的は言わずにいた。
(確かに楓ちゃんにそっくりだ。知香さん、分かっちゃうかも?)
睦月に会うのは初めてでも、その娘とは今自分の娘として毎日相対しているので会った気がするのはそのせいだと思う。
『こうちゃん、お風呂に行こう。』
2人は浴衣に着替え、6階に上がった。