知香の幸せ
『ともかせんせい、さようなら。』
『はい、さようなら。また明日ね。』
あすなろ保育園で保育士の仕事に就く知香は充実していた。
大好きな子どもたちと触れあい、接する事が出来るこの仕事を知香は誇りに思っていたのだ。
週末になると、知香は車を走らせ埼玉の深谷から山を越えて山梨しの甲府に行き、まだ医師としてはひよっ子の健介に会う。
『車の運転、大変だろ?』
『大丈夫だよ。好きだし。』
知香が好きなのは車の運転だけではない。
『早く一人立ちして一緒になろう。』
もともと口数が少なく、どちらかといえば口下手な健介だが、知香の前では素直に自分の気持ちを伝える事が出来た。
『愛してる……。』
そんな遠距離恋愛の2人に変化が訪れたのは、それから間もなくの事だった。
『ごめん……調子悪くて……。』
知香が体調不良を訴えて、もう2週間になる。
健介は、電車を乗り継いで実家のある深谷に戻ったが、行き先は自分の実家ではなく知香の家だ。
『あら、健ちゃん。』
『ご無沙汰しております。知香は……知香さんは大丈夫でしょうか?!』
由美子は笑いながら健介を知香の部屋に通した。
『知香!』
『健ちゃん?!』
知香はベッドから起き上がった。
『ばか。無理すんな。』
『大丈夫だよ。病気じゃないし……。』
『病気じゃないって……。』
『出来たの……。』
『へ?』
『健ちゃんと私の子だよ。3ヶ月だって。』
健介は天にも昇る様な気持ちになった。
知香の体調が回復するのを待って、お互いの両親に挨拶、結納、結婚式と慌ただしく過ごし、知香は出産の日を健介の父・大介が院長を務める森山記念病院で迎えた。
『知香さん、ごめんなさいね。うちの子ぎりぎりまで仕事しているから。』
『良いんです、お義母さん。その方が健ちゃんらしいから……あっ。』
義母の房江と会話した直後、陣痛が始まった。
『チカ、頑張って。深呼吸!』
親友の看護師・美久に励まされて知香はその時を迎える。
『ううっ!健ちゃん!!』
『お義母さん、知香は?』
房江と由美子が見守る中、健介が帰って来た。
『今頑張ってるから。』
健介が帰るのを待っていたかの様に大きな泣き声が聞こえた。
『おめでとうございます。元気な女の子です。』
『よくやった。知香、ありがとう。』
健介は知香を労う。
『健ちゃん。……私、この子の名前考えたんだけど、ダメ?』
『いちおう聞いてみよう。もし知香の付けた名前が良かったらそれで良いさ。』
『いつも深谷と甲府を行き来して、この子が生まれる頃って紅葉がきれいな時期だなぁって思ったの。だから楓ってどうかな?』
『楓か……。』
『それと女の子だから結婚したら自分の苗字じゃなくなるでしょ?だから、高木の苗字の一部が入っていた方が良いかなって木へんに風で楓。どう?』
『うん、良いよ。良い名前だ!』
知香は夢から覚めた。
前日、睦月には楓の意思次第で会わすと約束したものの、健介の言う通り楓には伏せたままの方が良かったのだろうか?
そう自問自答しながら床に着いたらこんな夢を見たのだ。
(楓……。確かにうちの子に相応しい良い名前だよね。私たちが付けた名前ではないけれど。)
もし、次に睦月に会う時があれば誰がどうして楓という名前を付けたのか聞いてみようと知香は思った。
『やっぱりそうなりましたか……。知香さんならそう言うと思っていました。』
このみには昨日の睦月とのやり取りを電話で報告した。
『私は健介さんと同じ気持ちです。今でも楓ちゃんと睦月さんを会わす事は反対ですが、今の楓ちゃんと知香さんなら大丈夫だと思っています。それで、どういう形で会わせるのですか?』
『健ちゃん、平日は休めないでしょ?逆に睦月さんは土日休めないし。だから前みたいに伊香保に泊まりに行こうと思うの。』
『それは良いですね。睦月さんが仕事をしている姿を楓ちゃんに見せるのは有りだと思います。』
このみは知香の案に賛成した。
『せっかくだし、梓さんと渚ちゃんたちも一緒にどうかな?』
睦月と楓を結ぶきっかけはこの2人だし、反対するこのみを説得したのも渚である。
知香は、このみと梓母娘も立ち会ってほしいとお願いした。
『分かりました。梓さんの外泊は許可が必要ですが、県内だし私も一緒だから大丈夫でしょう。直ぐに保護観察所に連絡を取ります。』
仮釈放中の梓は自由に外泊は出来ないので、身元引受人であるこのみが保護観察所に許可をもらう必要がある。
知香は、楓には睦月の事は黙ったまま、夏休みに入った最初の土曜日に伊香保温泉に泊まると伝えた。
『伊香保のお湯ってお肌にも良いんだよ。美人の湯って言われてるの。』
『私の肌、きれいになるかな?』
傷跡は他人が見ても分からない程度にはなったが、自分で触ったりすると分かるのだ。
『渚ちゃんも一緒だからね。』
一緒に健介によって傷の修復治療をした渚とは初めて一緒に入浴する事になる。
『その前に期末テストは頑張ってね。』
それが楓にとって一番の悩みだった。




