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第8話 ディアブル師の説教

「では説教を始めさせていただきます」


 ここはノルヴィラージュ伯爵領にある教会だ。石造りで色とりどりのステンドグラスがはめられてある。

 これは西方にあるポーロ王国から輸入された高級品だ。ノルヴィラージュ伯爵家と教会にはガラス窓が使用されている。下級貴族では手も出ない代物だ。


 教会内にはひとりの老人が双子の女神像の前に立っている。

 70年を乞えたくらいで、白を基準にした服を着ていた。顔は日焼けしている。

 弱弱しさはみじんも感じず、矍鑠たる姿である。


 老人の前には複数の人間が粗末な木製の長いすに身を寄せ合っていた。彼らは領地の領民である。老人の説教を聞きにここまで足を運んだのだ。

 老人の名前はディアブルといい、宣教師であった。彼はルミッスル王国内を旅し、双女神教の教えを広めていたのである。

 過去には遠い外国へ足を踏み入れたことがあったらしい。海を越えた南の大陸では暗闇から抜け出た影人なる蛮人に殺されかけたり、未知なる猛獣に喰われそうになったりと色々あったそうだ。

 

「人の身体は生まれたときは真っ白です。例えば冬に振る雪のようにね。それが年を取るごとに汚れていくのです。春になると雪が解けて泥で汚くなるのと同じですね」


 聴きに来た人々はうんうんとうなずいた。ノルヴィラージュ伯爵領でも教会では週に1回勉強会が行われるが、今回の場合は勉強に興味のない農民が多い。賢くなることに疑問を抱く性質があるのだ。そんな彼らでもディアブル師の言葉はわかりやすかった。


「人には成長するたびに悪の心が宿ります。それは垢のようにこびりつくのです。もちろん風呂に入りこすれば問題はありません。しかし心の中に棲む悪は簡単に洗うことはできないのです」


 するとディアブル師は服を脱いだ。その下は鎧のような筋肉が現れたのである。

 三角筋は肩パットのように膨れ上がり、大胸筋は鉄の鎧のようであった。

 大腿四頭筋は軍馬のように太く、ディアブル師が日頃筋力トレーニングに研鑽していることがわかる。


「自身の心に宿る悪魔は肉体を鍛えるしかありません。わたしは毎日筋トレを繰り返しております。おかげで70を越しても身体の調子はいいし、健康で過ごせています。ですが、そんなわたしでも未だに悪魔は住んでいるのです」


 するとディアブル師は背中を向けた。


 両腕を下ろし、三角筋に力を込める。すると背中の筋肉、広背筋にしわが寄った。

 それから両腕で力こぶを作る。そこには悪魔が宿っていたのだ。


「バック・ダブルバイセップスだ。すごい広背筋だね」


「でもディアブル師の背中には悪魔が宿っているわ。何て恐ろしい」


「あの方でも身体に巣食う悪魔を追い出せなかったのか」


 大衆はひそひそと話していた。かなり教会内はざわざわしている。

 ディアブル師は両腕を下げて、リラックスポーズを取った。


 次に広背筋に力を入れる。ピンと張りつめた状態で、両腕を腹部に付けた。

 バック・ラットスプレットのポーズである。


「ああ、今度は天使の羽根が生えているみたいだ!」


「ディアブル師の背中には天使も宿っていたのかしら。なんて神々しい……」


「だが悪魔と天使が両方棲んでいるなんてどういうことだろう」


 さらに騒がしくなった。ディアブル師は服を着ると聴者たちをなだめた。


「このように筋肉を鍛えたわたしでも己の中にいる悪魔を追い出すことはできませんでした。ですが天使を呼び出すことにも成功しているのです」


「でもディアブル師。身体を鍛えたら悪魔が宿るのでしょう。それなら鍛えない方がよいのでは?」


 農民の女が質問した。ディアブル師はにっこりと笑いながら否定する。


「その逆です。悪魔は追い出さなくてもよいのです。むしろ体内に飼いならしてしまえばよいのですよ。先ほどバック・ラットスプレットのポーズでも天使の羽根が生えたのをご覧になったはずです。肉体を鍛えることで悪と善のバランスを保つことができるのですよ。どちらかに偏ってはいけません。

 太陽の女神ソレイユ様は輝けるお方ですが嫉妬深く自分より美しいものを醜いものに変えてしまう神話があります。そして月の女神リュヌ様は闇を司りますが、迷える死者たちを招き、彼らに安らぎを与える慈悲深さがあります。

 筋肉も正解はありません。悪を認め、悪を乗りこなす。それが双女神さまが人間たちに望むことなのです」


 こうして説教は終った。無知な農民たちは皆一様にディアブル師の教えをかみしめていた。近いうちに入信するかもしれない。そうなればお布施も増えると言う寸法だ。


 ☆


「お見事でしたわ。ディアブル師」


 ひとりの女性が挨拶しに来た。高級だが余所行きの動きやすいワンピースを着ている。アンジュ・アミアンファン公爵令嬢だ。後ろにはカッミール・ノルヴィラージュ伯爵令嬢も立っている。彼女は白いドレスを身にまとっていた。しかし彼女の太い腕はドレスをはち切れんばかりである。


「おお、アンジュ嬢にカッミール嬢ではございませんか。この年よりの説教を聴きに来てくれてありがとうございます」


「そんなことはありませんわ。ディアブル師の説教はできることなら聞き漏らしたくありません。それに素晴らしい肉体でしたわね。バック・ダブルバイセップスとバック・ラットスプレットのポーズは見惚れてしまいましたわ」


 アンジュは筋肉マニアではないが、素直に人が鍛えた筋肉を褒めることはある。

 今回教会に友人であるカッミールを連れてきたのも、彼女の歪んだ精神を正してほしいと願ったからだ。


「ふん、半分棺桶に脚を突っ込んだ年寄りの筋肉など大したことはございませんわ。アンジュの作るおとぎ話の方が聴きごたえがございましてよ。知っておりますか、アミアンファン領ではアンジュの作った物語を紙芝居で聞かせておりますの。それはもう大変な人気でございますわよ。ディアブル師の説教よりもはるかに」


 暴言を吐いたのはカッミールであった。アンジュは鬼の形相で彼女に振り向いた。


「カツミ!! ディアブル師に対して失礼ですよ、すぐに謝罪をしなさい!!」


「いやですわ。わたくしより美しい筋肉などありえません。まったくつまらないことに時間を潰されてしまいましたわね。わたくしには時間がないのです。先に帰りますわよ」


 散々悪態をついてカッミールは教会を出て行った。アンジュは猛烈にディアブル師に頭を下げる。


「お許しください! カツミがあんな態度を取るなど思いもよりませんでした!! かくなるうえは彼女を連れてきた私が責任を―――」


「それには及びませんよ、アンジュ嬢」


 ディアブル師はやんわりとたしなめた。


「私はまったく気にしておりません。そもそもカッミール嬢の言葉は本心ではありませんですね。まるでわざと怒らせるような態度を取っていましたね」


「そうなのですか? だとしたらなぜあのような真似を……」


「それはアンジュ嬢が一番ご存じではありませんか?」


 ディアブル師の指摘にアンジュは気づいた。


 カッミールは貴族としてのたしなみを教育されている。そもそも彼女は本来礼儀正しい人間であった。アンジュと一緒の時だけ他者に悪態をつく傾向が多い。以前ズッシーオの事を悪く言っていたがあれは幼馴染と一緒だからである。

 家臣や使用人に対しては愛情深く接していることも知っている。問題なのは筋肉にこだわることだ。


「カッミール嬢は甘えておりますな。自分が悪いことをしても誰かが庇ってくれると信じている。それを助けてくれるのはアンジュ嬢ではございませんがね」


 その言葉にアンジュは思い立った。本当に注意してほしいのはズッシーオ・ヤムタユ男爵だ。アンジュの口から彼に伝わり、カッミールを注意しに来ることを期待しているのである。

 幼少時はズッシーオがはしゃぐカッミールをたしなめることが多かった。現在ではズッシーオが彼女に何かを言うことはない。ますますカッミールは調子に乗っていた。だがそれはズッシーオに構ってもらいたい乙女心の不器用さであった。

 ヤムタユ家には優秀な執事であるスティーブがいる。彼は身体能力が常人離れしており、山を登る巨大なヤギのようであった。

 彼に頼めばズッシーオに手紙を配達してくれるかもしれない。アンジュはそう決意を決めるとディアブル師に別れの挨拶をして立ち去った。


 その後姿をディアブル師は見守っている。それからこうつぶやいた。


「さてはて、男と女の気持ちはなかなか伝わりずらいものですなぁ

 ボディビルの大会では「背中に鬼神が宿ってる!」とか「天使が翼を広げている!」みたいな掛け声があります。

 今回は肉体には悪魔と天使が宿っており、それを自らの意思で飼いならすことを重要視することにしました。

 

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