第5話 ストレッチの重要性
「ではトレーニングを始める前に、ストレッチを行うとするかの」
ズッシーオは筋肉仙人のチアオにとある建物に案内された。それは木造建てで窓の部分には竹の格子がはめてあり、屋根は乾拭きでできていた。
ズッシーオは東洋には木や草で家を建てるという話を聞いたことがあるが、実際に見るとなかなかしっかりとした造りであり、不思議な趣を感じた。
さて建物の中は草で編まれた畳と言う物が敷かれてあった。チアオは裸足で畳に上がる。ズッシーオもそれに倣った。草の匂いが充満しているが、心地よい香りだと思えるから不思議だ。
「トレーニング前には必ずウォーミングアップとして、ストレッチを行わねばならん。ストレッチとは、筋肉や関節を伸ばすことで体の柔軟性を高める運動のことじゃ。これくらいは知っておるじゃろう?」
「はい、話には聞いたことはあります。手足をぶらぶらさせるのがいいと聞きますが、具体的にどのようにすればよいのでしょうか」
ズッシーオはあまり詳しくないので素直に訊ねた。それを聞いたチアオはにっこりとほほ笑む。
「素直に教えを乞う姿勢は感心じゃな。そもそも筋肉は伸ばす、縮めるという動作を繰り返すことで血液を送り出しておる。筋肉がこわばってしまうと、この血液の循環が悪くなるのじゃ。特に模擬戦などをおこなうまえには、血液のめぐりをよくして筋肉の温度、体温をあげておく必要があるわけじゃ」
ちなみに血液の仕組みや内臓の名前は貴族の間でも知られている。主に魔法使いたちが死刑囚たちの身体を解剖し、そのメカニズムを解析しているからだ。
ちなみに死後の場合は篤志解剖という。死刑囚は生きたまま切り刻まれ、その反応を蓄積しているそうだ。あまり大っぴらには言えない暗部である。
双女神教では人は死んだら土に返さなくてはならない。そうしないと再び人間として生まれ変われないと伝えられている。
火葬などは死刑囚にのみ執り行われている。王族や貴族はきちんと土葬を行うのは当然だ。
もっとも筋肉に詳しいのは芸術家が多い。彼らは大抵貴族のお抱えで、進んで人体解剖に関わっていた。
それには理由があり人体を写実的に描くには、胸や腕など、人体の筋肉の凹凸がよくわからないといけない。なので芸術家たちは解剖学の基礎を学ぶのである。優れた芸術家は魔法使いたちよりはるかに優れた解剖図を描くことができたのだ。
「そういえばノルヴィラージュ領にはオーギュストという彫刻がいたっけ。あの人の彫刻は素晴らしかったな」
「まあ、それはさておき、ストレッチの話に戻るぞ。まずは手首と足首のストレッチじゃ。両手を組み、軽く回すのじゃ。そして同時につま先を支点にして、足首を回すのじゃよ」
ズッシーオは言われたとおりにやった。
次に首のストレッチだ。
こちらは側頭部に手をやり、軽く首を伸ばす。そして首の後ろを伸ばすときは、両手で後頭部を組む。引っ張らずに、腕の重さが自然と首が伸びるようにするのが理想だという。
肩のストレッチは三角筋の後部を伸ばす。胸を軽く張った状態で肘を引き付ける。
次に三角筋の中央を伸ばす。こちらは斜め上から斜め下に大きく腕を持ってきて、肘を胸の下のあたりに引き付けるのだ。
胸のストレッチはまずは身体の後ろで腕を組み、後方に伸ばす。
そして胸と背中は、前ならえの体勢のように両腕を前に出す。腕だけでなく肩も前に出し、その状態から腕を真横にやり、胸を広げるのだ。この動作を繰り返すのである。
腕のストレッチは上腕三頭筋から始める。頭の後ろに腕を上げ、肘を曲げる。そして、もう片方の手で軽く左右に倒すのだ。
次に上腕二頭筋だが、こちらは腕を身体の前に伸ばし、もう片方の手で左右に手のひらを軽く倒す。このとき、伸ばした方の腕は曲げないことが大事だ。
そして身体の側面を伸ばすストレッチに、腰のストレッチ。お尻に脚などを続けるのだ。
一通り終えると身体がポカポカしてきた。激しい運動をしなくてもここまで温まるのかとズッシーオは信じられない思いだった。
「どうじゃ、身体が温まったじゃろう?」
「はい。ここまで温かくなるとは思いもよりませんでした」
「ストレッチには疲労からの回復を促進する効果がある。トレーニングの後にもおこなうことが大事じゃな。あと無理やり筋肉を伸ばす必要はないぞ、イタ気持ちいいくらいがちょうどいいのじゃ」
他にも長時間、事務仕事で首回りががちがちに凝り固まった場合は首のストレッチが効果的だという。
長時間の立ち仕事や座り仕事後には腰のストレッチがよいそうだ。腰回りの筋肉だけではなく、背中やお尻、さらには腹のインナーマッスルを柔らかくするという。こちらは風呂上りにベッドの上で行っても大丈夫だそうだ。
「部位的ストレッチはやるとやらないとでは差があるからのう。覚えておいて損はないぞ」
「そうですね。私の身体が柔らかくなりました。この情報を私の領地に伝えたいですね。できるなら後で書いて残すとしましょう」
「紙ならたくさんあるぞ。わしの息子たちが作っておるからな」
「そういえば仙人様の家族はどこにおられるのですか。レイカさん以外見たことがないのですが」
レイカは主に家事をしていた。洗濯や掃除、料理などは彼女の仕事である。山の天辺でありながら物が豊富であることに不思議だと思っていた。
「ああ、山の麓に集落があるのじゃよ。そこで鉱石を集めたり、鍛冶でトレーニング器具を作っておるのじゃ。家の裏に昇降機というものがあってな。ちょくちょくこちらに荷物を運んでくるのじゃよ」
昇降機とは滑車を利用したものらしい。人力だが直接登って運ぶよりははるかに物量が多く運べるそうだ。
「ダンベルやバーベルなどの器具は東洋の人間が作っていると聞きますが、まさか仙人様の身内だったとは。世界は狭いですね」
ズッシーオは素直に感心していた。