第4話 アンジュの心配事
次回は月曜日です。土日だけ休みます。
「お嬢様、アンジュ様がお見えです」
メイドが部屋に入り、主に報告する。
ここはルミッスル王国のノルヴィラージュ伯爵領の屋敷だ。かなり大きく、伯爵一家と使用人を含め100人以上が生活している。
庭は木や茂みがきれいに切りそろえており、腕の良い庭師がいることがわかる。
部屋の真ん中にはベンチプレスの道具が置かれてあった。隅には替えのバーベルがいくつも置かれてある。
部屋の主は一心不乱でベンチプレスをしていた。ベンチプレスは腕や大胸筋を鍛える基本種目である。
ベンチプレスのやり方はまずバーを肩幅より手のひらひとつ分からふたつ分の広さで握るのだ。
そして肩甲骨を寄せて、胸は張る。
次にバーをラックから外し、肘を伸ばして構える。
両足は床につけ、しっかりと踏ん張るのだ。その状態から胸の下にバーを下ろし、同じ軌道で持ち上げる。
下ろしたときは、手首がひじの垂直線上にあるようにするのだ。
上げるときに尻を浮かさないことが重要である。
バーの握り方は親指をほかの指と同じ側に握る場合もあるが、最初のうちは親指を巻き込む方がよい。
バーを下ろす位置は乳首の辺りで、下ろしたときに、ワキの角度が60度になるのが理想だ。
動作中も肩甲骨を寄せるのも大事である。
危険なのは首のあたりに下ろすことだ。下ろす位置が高すぎては胸に効かないばかりかギロチン状態になる。
キツくなると下ろす位置が上の方になりがちになるので注意が必要だ。
ベンチプレスは8回に3セットが理想的である。
しかし部屋の主は8回どころか数えきれないほど繰り返しているようだ。
身に付けているのは黒いビキニ水着だけである。身体からは汗が滝のように流れており、ぜぇぜぇと息を切らしていた。
汗と熱気で部屋中は異臭が立ち込めている。アンジュは白いドレスを身に付けており、部屋に入った瞬間、ハンカチで鼻を抑えた。
「カツミ……、あなたは何をやっているのかしら」
友人が来たにも拘わらず、ノルヴィラージュ伯爵令嬢カッミールは一心不乱でベンチプレスを繰り返しているのだ。
あまりにも無礼な態度だがやめさせるわけにはいかない。カッミールはやめろと言われるとますますやりたくなる性格なのだ。
一度決めたら目標を達成するまでやり遂げる。男なら賞賛されるが女は控えろと注意されるだろう。
「ベンチプレスですわよ。アンジュはやらないのかしら?」
カッミールはベンチプレスをしながら答えた。声は聴こえているらしい。アンジュはメイドに椅子を勧められて座った。お茶を用意するとのことだが、遠慮した。
悪臭漂う部屋でお茶の香りなど吹き飛ぶからだ。メイドは失礼しましたと頭を下げて後ろに控えた。
さすがにカッミールのお付きはお嬢様の奇行になれっこのようである。
「筋肉は鍛えすぎると逆に壊れてしまうと聞きました。少し休んだらどうですか?」
「休みたくありませんわ。ここからがいい調子ですのよ。そのような軟弱な考えなどわたくし好みませんわよ。誰がそのようなくだらないことをおっしゃったのですか」
「あなたのお父様、ジェイクス・ノルヴィラージュ伯爵よ。あのお方はかつて筋肉仙人様に教えを請うたことがあるそうですわ。その際に筋肉の鍛えすぎに注意するよう言われたらしいですわよ」
アンジュの言葉をカッミールは鼻で笑って否定した。
「それは嘘ですわね。お父様の肉体は王国一、いいえ世界一でございますわ。そのような考えなどするはずがございませんもの。それに市井ではそのような話など聞いたことがございませんわ。眉唾ですわね。むしろあなたが作る物語の方がわたくし好きですわよ」
カッミールはベンチプレスを繰り返しながら答えた。アンジュはため息をつく。
カッミールの父親ジェイクスは素晴らしい肉体の持ち主であった。王国一と呼ばれており、現在も彼を超える人間はいないと思われている。
彼は軍隊を率いるときもトレーニングは欠かせないそうだ。器具がなくとも森の木や蔓などを利用して、自重トレーニングやウェイトトレーニングを繰り返しているという。
そして大豆を愛しており、食事には大豆を利用した料理が欠かせないそうだ。大豆は畑の肉と呼ばれるほど栄養が高い。ノルヴィラージュ領では小麦だけでなく、大豆を栽培していた。
過去に小麦が伝染病で全滅したときも、ノルヴィラージュ領の大豆のおかげで飢饉を乗り越えたという逸話があった。
これはヤムタユ男爵領でも同じで、基本的に保存食を貯蓄しており、飢饉の際は大儲けしたそうである。
しかしルミッスル王国は理論よりも精神論が優先される。小難しい話より、昔から先人に語り継がれた言葉が正しいと信じ切っているのだ。
ジェイクス伯爵は筋肉仙人から筋肉の話を教えてもらった。だが彼の頭はよくない。脳みそが筋肉で出来た脳筋であった。
それ故にうまく相手に伝えることができず、ゆう事を聞かない相手は殴って解決した。
そのため必要以上の恨みを買い、ジェイクスの教えを無視する傾向になった。
アンジュの実家であるアミアンファン公爵家はジェイクスの断片的な話を繋ぎ合わせ、それをボクシングのトレーニングに取り入れていた。おかげでここ数年、領地問題を解決するための試合では連戦連勝を続けていたのだ。
しかしこれは精神論として片付けられてしまう。王国は変化することを恐れているのである。もっとも国王レオナルドになってからは少しずつ改善されているが。
「それにしてもズッシーオは何を考えているのかしら。筋肉仙人に教えを乞う必要などありませんわ。わたくしと一緒に筋トレをすればいいじゃない」
「あなたのように休みなくトレーニングをするなんてありえません。人は誰もあなたと同じではありませんのよ」
カッミールは突如ベンチプレスをやめた。アンジュに言われてやめたのではなく、既定の数をこなしたからやめたのである。
部屋にはメイドが入ってきて、彼女にプロテインの入ったガラスの器を差し出した。
それを一気に飲み干す。その間にメイドは汗をかいたカッミールの身体を濡れた布で丁寧に吹いていた。
「そんなのは言い訳ですわ。トレーニングはやればやるほど筋肉が身に付くものですのよ。これもに半年後に開催されるボディビルコンテストに向けての仕上げですわ。今日は胸を重点に鍛えたいですの、お次はディップスやりますので、帰っていただけるかしら。わたくしには時間がありませんのよ」
アンジュは頭を抑えながらやれやれと立ち上がった。半年も先なのに急いでやる必要があるのかと思う。カッミールは最初ズッシーオのために身体を鍛えていた。貧弱な身体でも彼はか弱い女性を守る勇気の剣を持っていたのだ。
ところがカッミールの身体がズッシーオを超えた時点で彼女は筋肉の悪魔に憑りつかれた。
ズッシーオだけでなく、他の男を見下し、馬鹿にし始めたのである。
「今度、ディアブル師に説教してもらいましょうか……」
この王国では双女神教が主流である。信者は太陽の女神ソレイユと、月の女神リュヌの小さな石像をあがめるのだ。
ソレイユはフロント・ダブルバイセップスのポーズを取り、リュヌはフロント・ラットスプレットのポーズを取っている。
ソレイユは光で、リュヌは影と言われているが、石像の背中を見ると意味が一変する。
ソレイユの背中は悪魔が宿り、リュヌの背中には天使が羽根を広げているように見えるのだ。
人の身体は鍛えれば鍛えるほど、背中に悪魔と天使が宿るという揶揄である。
ディアブル師は御年70過ぎの老人だが、説教がうまく文盲の庶民や貴族でも人気のある人物だ。
アンジュはディアブル師を呼び、友人をどうやって引き出すかを考えていた。
後ろではアンジュが次のトレーニングの準備を始めている。
ソレイユはフランス語で太陽、リュヌは月を意味します。
実際のところバック・ダブルバイセップスのポージングでは広背筋が本当に悪魔が宿っているように見えます。
まあポージングの際の掛け声が「背中に鬼神が宿ってる」とか「天使が羽根を広げたみたいだ」とかがあるのです。
これを宗教と絡めると面白いなと思いました。