第32話 ルミッスル王国の事情
「よし、チンニング3セット終わり! 少し休んだらケーブルロウイングだ!!」
道場内でズッシーオは手ぬぐいで汗を拭いていた。今日は背中の日である。まずはチンニングで広背筋を鍛えていた。
最初は一回もできなかったが、慣れてくると数十回もできるようになった。ズッシーオはそれに感動した。
感動こそが人を強くするのである。その一方でスティーブが持ってきた書類に目を通し、領地運営にも勤しむ。彼は休む暇はなかった。
そうトレーニングの間に休憩する以外は。
そしてケーブルロウイングの準備に移る。
まずは専用のマシンに座り、ハンドルを握る。
この時デッドリフトの始まりのように、膝を軽く曲げておくのだ。
次に背筋を伸ばし、肩を前に出した状態から肩甲骨を寄せながら、ハンドルを経そのあたりまで引きつける。
大切なのは脚や腰の力で引っ張らないことである。
身体を伸ばしきった状態だと何の運動かわからなくなるからだ。
これを10回、3セットで行うのが基本である。
「ふぅ、チンニングとは違う刺激だね。終わったらダンベル・プルオーバーだな」
ズッシーオは嬉々しながらトレーニングを続けてきた。
ここに来て8か月以上が過ぎている。滞在費は渡していない。一度ズッシーオが生活費を渡そうとしたが筋肉仙人に断られた。
なんでもポーロ王国では自分の孫たちが貿易会社を経営しており、その利益の分け前で仙人は生活できているのだ。もっとも彼の生活など些細なもので1年の生活費は、ポーロ王国で商会に努めている者のひと月分の給料だという。もっともヤムタユ領の領民一戸世代の1年分でもあるが。
仙人にとって部外者に修業を付けるのは娯楽だという。それもズッシーオのように真面目に修業に取り組む人間が好きだ。だから無償で衣食住を提供しているのである。
かつては自身もポーロ王国で魔法使いとして活躍していた。それも人体解剖を中心にだ。完全な個人の趣味なので息子たちに跡を継がせる気はなかったという。
もっとも仙人のおかげで筋肉のメカニズムが解明され、ボディビルブームを巻き起こした功績があった。ポーロ王国に戻れば国から生活費が出て、贅沢に暮らせるという。
それは丁重に辞退し、代わりに筋肉学校を開校してくれと頼んだ。国民の誰もが筋肉を学べる学校で、入学金も無料だという。
もちろん文字の読み書きや計算の仕方も学んでいる。筋肉の名前や正しい日数や数字を知る必要があるからだ。そして筋肉の歴史も学んでいた。
「レイカさんと話してみたけど、彼女は相当な知識の持ち主だ。うちの国では魔法使いと勘違いするほどだね」
ズッシーオはケーブルを引っ張りながら考える。自分の国、ルミッスル王国ではまともに文字の読み書きができるのは神職者くらいだ。あとは商人くらいである。
貴族でさえ、自分の名前が書ければよいと思っており、文盲が多い。
ズッシーオの父親ディーノはそれに反発し、教会に多額の寄付をして子供たちに勉強をさせた。もちろん親は嫌がった。子供は貴重な労働力であり、勉学など何の役にも立たないと決めつけていたからだ。
しかしディーノがモスト・マスキュラーのポーズで迫り、その気迫に負けてしまったのである。
代わりに教会に勉強しに来た子供達には昼食が出た。さらにひと月分の小麦粉をくれた。そうすることで家庭の負担を軽減させたのである。
最初は嫌々だったヤムタユ領でも20年も過ぎれば普通になっていた。それ以前に奴隷も解放されており、技術は研鑽されるようになった。そのため男爵領でありながら、ヤムタユ家は栄えているのである。
「でも周りは理解してくれないんだよね。精々ノルヴィラージュ伯爵やアミアンファン公爵、国王陛下くらいか」
ズッシーオはため息をつきながらも、ダンベル・プルオーバーの準備に移る。
ダンベル・プルオーバーとはダンベルを利用した上級者向けのエクササイズだ。
まずは両肩をベンチに乗せ、腕を伸ばしてダンベルを構える。この時注意するのはベンチに乗る位置は肩であり背中ではない。指はダンベルのプレート部分にしっかりと引っ掛けるのだ。
次にダンベルを頭の後ろまで倒し、元の体勢に戻す。腕は肘が頭の後ろに来るくらいまで倒すのがよい。動作は大きく、ゆっくりとやるのが大切だ。あと肘は開かないように注意する。
あとダンベルの下ろしすぎも気を付ける。肩を痛めるからだ。
ダンベルを持ったまま、万歳をする感じで行うのだ。
これで広背筋と胸が鍛えられる。ズッシーオはこれを10回に3セットを行っていた。
終わったら上腕二頭筋に移る。背中なら背中だけのトレーニングを行うべきと思うだろうが、それはまだ上級者向けだ。
最初はバランスよく背中と上腕二頭筋、それと腹を鍛えるのである。
「ふふふ。精が出ますねズッシーオ様」
道場に入ってきたのはレイカだ。10代後半で、ズッシーオとは同年代である。
8か月も一緒に暮らしているが、彼女に対してよこしまな気持ちは一切起きなかった。彼は筋肉を鍛えるのに夢中で、女性は興味がないのである。見てほしい女性はただひとり、カッミール・ノルヴィラージュ伯爵令嬢だけであった。
「はい、ここのトレーニングはとても勉強になります。正直、ルミッスル王国では考えられませんね」
「そうですか。それならなぜカッミール様は筋肉を鍛えられているのでしょうか。あまり勉学意欲が強いとは思えませんが」
それには理由があった。文盲が多いなら正しく身体を鍛えられないのではないかと思うだろう。
実のところ、ボディビルをたしなむのは王都の貴族くらいであった。
社交界で筋肉を披露するのが、挨拶代わりということが多いのだ。
特にノルヴィラージュ伯爵の筋肉は素晴らしい。学友であったズッシーオの父親と、アミアンファン公爵、それに国王レオナルドが筋肉のすばらしさを広めたからだ。
特にレオナルドは魔法使いたちに命じて、筋肉のメカニズムを研究させた。しかし急にそんなことを言われても成果が追いつかない。
仕方ないのでポーロ王国から筋肉全書を輸入し、それを貴族に広めたのである。
ただ文盲の貴族は理解できず投げ出すのが多かった。代わりに子供たちに教え込み、筋肉を鍛えさせたのである。自分たちの名刺代わりにするためだ。
ディーノも素晴らしい筋肉の持ち主だったが、彼は自分の領地でマニュアル作りに勤しんでいた。さらにズッシーオはそんな父親の手伝いをしていた。当時は筋肉より領地運営の勉強に勤しんでいたからだ。
一方でズッシーオの弟であるサバットは王都でボディビルにはまり、レオナルドが作ったジムに通って、身体を鍛えた。叔父のバンブフォイユも領地を出ないが、ポーロ王国から輸入したトレーニング器具などを利用して立派な身体を身に付けたのである。
「カツミは伯爵の影響で筋肉を鍛えたのですよ。貧弱な私に愛想をつかしてね。特に2年前はすごかったな。私の父上が亡くなった後、一層筋肉を鍛えまくってましたよ。背中の日は、背中だけの筋肉を鍛えてましたね。デッドローイングやナローグリップで行うベントオーバー・ローイングとか、ロープーリーローなどもやりましたね」
「まあ……。背中は特に鍛えずらいですからね。腕の力が強いと腕で引っ張ってしまい、背中に刺激が伝わりにくいのですよ。努力家なのですね、カッミール様は」
「はい。彼女は天才と呼ばれていますが、本当は努力家なのです。地道なトレーニングで素晴らしい肉体を手に入れたのです。だから彼女を陥れた国王陛下と伯爵には苛立ちを覚えますね」
そうズッシーオは歯ぎしりするのだった。




