第27話 悲劇の始まり
「というわけで、至急お戻りください!!」
木造の道場の中で、双子の猫っぽい美女シャオメイとシャオチュウが土下座した。目の前には体格のいい青年、ズッシーオ・ヤムタユ男爵がマシンを使い、体を浮かせている。
ディップスという上級者向けのトレーニングだ。
まずディッピングバーを両手で持ち、身体を浮かせる。
その状態から、肘の角度が90度になるくらいまで腕を曲げるのだ。
この時大切なのは真下に下ろすのではなく、やや前傾姿勢で肩甲骨を寄せた状態で行うことである。それをゆっくりとした動作で行うのだ。そうしないと筋肉に負荷がかからないからである。
バーを持ったまま腕立て伏せをやる感覚と言えばわかりやすいだろう。
専用の機材がなくても、背もたれのある椅子を利用しても問題はない。
このトレーニングでは大胸筋の下部と、上腕三頭筋にも効くのだ。
ズッシーオも最初は一回もできず、代わりにリバース・プッシュアップをしていた。
今では難なくこなしている。
シャオメイは主を見た。枯れ木と揶揄された貧弱な身体は見る影もなく、立派な肉付きになっている。生前のズッシーオの父親、ディーノと比べたら月とスッポンだが、同世代と比べれば遜色のない体型であった。
「つまり、君たちはカッミールを慰めるために、修業中の私を無理やり呼び戻したいと。そういうことかな?」
ズッシーオは息を吐きながら、身体を浮かせている。自分の腕だけで身体を支えることはかなりの負担がかかるのだ。それに加えて腕を動かすなど素人では真似できない。
しかし彼は余裕しゃくしゃくでこなしている。主の成長にシャオメイたちは感動していた。
「そうです! カッミールお嬢様はドーピングと言うボディビルダーにとって不名誉な烙印を押されたのです! それを慰める役割は旦那様しかいないのです!!」
シャオチュウが叫んだ。ふたりは幼い頃からズッシーオとカッミールの世話をしてきた。年齢はズッシーオたちと同じで、兄妹のように育ってきたのだ。だからこそズッシーオを敬愛し、カッミールにも同情的なのである。
「今ではカッミールお嬢様はルミッスル王国の笑いものでございます。誰もあのお方の味方をするものはおりません。皆がカッミールお嬢様を侮蔑し中傷の的にしているのです。あのお方の心の傷をいやすのは、あなたしかおりません。無礼を承知で主にたてついた非礼は詫びます。ですが何卒お願いいたします」
シャオメイは重い口調で答えた。しかしズッシーオの表情は変わらない。やがてディップスを終えて、立ち上がった。手拭いで汗をぬぐう。
「味方がいないなんて嘘だね。カツミにはアンジュがいるし、他のボディビル仲間もいる。それに今回の件で国王陛下に疑問を抱く貴族もいるだろう。私を騙すなんて100年早いね」
ズッシーオは瓶の中に入っていた水を柄杓ですくって飲んだ。
シャオメイは図星を指されていた。実際にカッミールのドーピング疑惑はルミッスル王国中に広まっている。今まで彼女の筋肉に辟易していた者たちはこぞって彼女の陰口を楽しんでいた。
その一方でカッミールの友人であり幼馴染のアンジュは徹底に反発した。カッミールが不通にコンテストで負けたのなら話は分かる。しかしドーピングをねつ造したことは許せなかった。
それにカッミールに敵は多いが、味方も多い。コンテストに出場した令嬢たちも一緒にカッミールの擁護に回った。彼女たちは高慢ではあるが誰よりも筋肉に対して真摯なカッミールを尊敬していたのだ。彼女がいたからこそ、令嬢たちは世間の偏見にも負けずに筋力トレーニングを勤しみ、肉作りに精を出せたのである。
それから国王レオナルドへの不信感も高まった。普段ならドーピング検査で陽性反応が出ても、本当かどうか調査していたはずだ。それなのに結果だけで判断して、カッミールの国内コンテストの永久出場停止を決めたのはおかしい。
さらには厳格なジェイクス・ノルヴィラージュ伯爵が娘の不正に怒りを露わにしないのも疑惑の種であった。
彼は不正や嘘が大嫌いで、怠け者や口数が多い人間を殴り飛ばすことが多い。
そんな彼が沈黙を守っている。これは国王と伯爵が不正を共謀している物だと、暗に示しているのだ。
王国内ではアンジュを中心にカッミールの名誉回復に勤しんでいた。アンジュの父親であるアミアンファン公爵もこの件では怒り心頭であり、ふたりに対して絶交宣言までしたのである。今やルミッスル王国は騒ぎの真っ最中であった。
「とはいえ、純粋なカツミがドーピング疑惑をかけられたんだ。その心中は察するけど、私はまだ帰るつもりはない。ここで帰ったらカツミは私に対して失望するだろう。さらに意固地になって婚約破棄を取り消すことはないだろうな。ここはひとつ、手紙を書こう。国内がだめなら、国外のコンテストに出ればいいとね」
ズッシーオは手紙を書き、シャオメイたちに渡した。シャオメイは複雑な表情を浮かべており、シャオチュウは喜びの笑みを浮かべていた。
☆
ズッシーオの手紙が送られて数日後、ノルヴィラージュ伯爵領内で、カッミールはトレーニングに勤しんでいた。
普段よりさらに重たいダンベルとバーベルを片手に、胸の筋肉を鍛えていたのだ。
アンジュは風のうわさで知り、心配になって馬車で駆け付けたのである。
「カツミ。元気そうで何よりだわ」
「ええアンジュ。わたくしは元気ですわよ。すべてはズッシーオの手紙のおかげですわね」
「ズッシーオの手紙ですって?」
「そうですわ。それには国内がだめなら、国外のコンテストに出ればいいと書かれておりましたの。わたくし目からうろこが零れ落ちましたわ」
カッミールの表情は明るい。コンテストが終わった後、彼女の身体から精気が抜け出ていた。冷え切った岩のように固まっていたのだ。そのまま雨風に晒され、風化してしまいそうに落ち込んでいた。
今ではどうだ。太陽の日に晒され、熱を帯びた鉄のように赤赤としている。目には希望の灯が宿っており、顔には精気を取り戻していた。
「なるほど、国王陛下は国内のコンテストは禁止にしましたが、国外はだめとは言っておりませんわね。さすがはズッシーオですわ」
アンジュは感心した口調であった。もし普段の彼女ならズッシーオが帰らないことに憤慨していただろう。しかし今はカッミールに対する憐憫の情と、国王とジェイクス卿に対する怒りで占められていた。
ズッシーオの提案に疑問を持つことなく、受け入れてしまっても仕方がないのだ。
むしろ彼の案は天のひらめきと思っているくらいである。
「調べてみましたが、3か月後にポーロ王国でコンテストが開催されるそうですわ。世界中の人種が集まり、美しい女性たちの筋肉を披露する大会ですの。わたくし必ず出場いたしますわ」
「わたしも協力するわ。旅費のことなら心配しないで。わたしたちがお小遣いを出し合ってお金を集めるから。お父様も協力してくれるはずよ」
後年、アンジュは自分の考えを後悔していた。あの時カッミールに対してボディビルを諦めさせるのが最善であったのに、逆に後押ししたことは間違いであったと、著者に記している。
ふたりの悲劇は自分の責任であると、懺悔と反省の書を書き上げたのであった。




