第24話 カッミールの破滅 前編
「ふぅ、ついにこの日が来てしまったようね」
アンジュ・アミアンファン公爵令嬢はため息をついた。着ているのは白いドレスで上半身がぴっちりと浮き出ている。頭には翡翠の髪飾りと、貝の火のペンダントが胸元に下げられていた。
職人の腕のおかげか、ドレスには細工が施されており、一目で高価なものだとわかる。それを見に付けたアンジュも高貴な雰囲気を出していた。
彼女がいるのはルミッスル王国の王立劇場だ。外見は石造りで、所々に彫刻が施されていた。
正面の玄関は現国王レオナルドがフロント・ダブルバイセップスのポーズを取った石像が飾られている。さらに劇場の周辺はレオナルドがそれぞれちがうポージングを取った石像の柱があった。
劇場の中は布飾りに燭台、観葉植物に彫像などが置かれている。
舞台はかなり広く、数十人が躍っても余裕のある広さだ。さらに観客席は綿の詰まった布張りの椅子が数千脚も置かれているのである。
かなり豪華な造りであった。
これはレオナルド国王が20数年前にポーロ王国に留学した時に見学したものだという。
実のところ前国王はあまり勉学に興味がなく、息子の留学も金がもったいないと渋っていた。それを母方の実家が留学費を捻出したおかげで、レオナルドは外国の知識を学べたのである。
その際にボディビルコンテストを見学しており、筋肉に興味を抱いた。帰国後はポーロ王国と積極的に交流し、ボディビルのすばらしさを広めたのである。もちろん当初は、庶民はおろか貴族も興味を抱かなかった。レオナルドが無理やりやらせたのである。
その後、体つくりに必要なマシンなどを輸入し、ボディビルを流行らせたのだ。
ただ身体作りには多くの誤解がはびこり、各自は独自の方法でトレーニングをして体を壊すものが続出した。
ジェイクス・ノルヴィラージュ伯爵や故ディーノ・ヤムタユ男爵が正しい筋肉の知識を広めるよう努力したが、それも局地的であった。
ここ最近は宣教師のディアブル師が神の教えと称し、正しいトレーニング方法や、食事のとり方も学んだため、筋肉をつきやすくなったという。ディーノの息子、ズッシーオのおかげであった。
「お姉さま、おはようございます」
妙にくぐもった声がした。アンジュが振り向くと、そこには異質な女が立っていた。
いや、女ではなく、成熟する前の少女と言った方がいいだろう。まず目につくのは無骨で黒光りする鉄仮面であった。頭をすっぽりと覆い隠し、その表情はまったくわからない。
その一方で少女の身に着けている物は白いビキニだけであった。
彼女の胸は薄く、あばら骨が浮いている。腕はがっしりと太く、腹筋も割れていた。
大腿筋もがっしりとしている。
ノルヴィラージュ伯爵の次女、ヴェルチュだ。彼女は恥ずかしがり屋なのである。
「あら、ヴェルジュおはよう。今日も素敵な筋肉ね」
「まあ、お姉さまったら恥ずかしいですわ。私なんてカツミお姉さまと比べたら枯れ木同然ですもの」
「そんなことはないわ。特にあなたの僧帽筋はとてもいい仕上がりよ」
「はい。シュラッグを毎日欠かさずやっておりますの。首の筋肉を鍛えないと、肩こりがひどいですの」
シュラッグとは僧帽筋を鍛えるトレーニングである。
正確には首の付け根の肩こりをする箇所を鍛えるのだ。
まずは背筋を伸ばした状態でダンベルもしくはバーベルを持つ。この時顔は正面を向けるのだ。
それから肘を伸ばしたまま、肩を耳に近づける。慣れたらあごを上げてみたり、引いてみたりと刺激を変えるのだ。
もちろんシュラッグだけでは意味はない。サイドレイズやフロントレイズなど三角筋の前部と中央部も鍛える。リアレイズでは三角筋の後部を鍛えられるのだ。
あとはデッドリフトで背中全体を鍛える。どちらか一か所を鍛えても意味はない。
ヴェルチュははにかんだ。彼女がなぜビキニでいるのは理由がある。身体がはっきりとわかる衣装は恥ずかしいからだ。彼女は自分の身体に自信が持てないのである。
ならば鉄仮面をかぶり、人前でビキニをさらすのはどうかと思うだろう。しかし本人にとってそれが一番安心できる服装なのである。なのでアンジュはあまり深く突っ込むことはない。
「……カツミの仕上がりはどうなのかしら?」
「それは素晴らしいですわよ。でも昨日は大変でした、カツミお姉さまは2日前にドカ食いをしてしまい、太ってしまったのです。なので昨日の夜から今朝にかけてランニングをしました。足の爪が割れて血だらけになりましたが、おかげで体重は減ったそうです
それを聞いてアンジュは頭がくらっとした。ヴェルチュも感情を押し殺し、淡々と事実を伝えているだけで、カッミールの行為を手放しに称賛しているわけではない。
一番彼女の身体を心配しているのは、ヴェルチュなのだ。
するとヴェルチュはアンジュの胸に縋りついた。そして鉄仮面の中から、しくしくと鳴き声が聞こえてくる。
「お姉さま! もうわたしにはカツミお姉さまを止められません! お父様はもう何も注意してくださらないのです! 四六時中、身体を鍛えること以外、まったく興味がないのです!!」
アンジュはヴェルチュの背中をさする。泣きじゃくる赤ん坊のようにあやした。
母親はいるが、まったく止められない。ジェイクス卿は一度カッミールを殴ったが、まったくケロリとしている。そのため両親は彼女に注意をしなくなった。もう放任することにしたのである。
「今日のコンテストはレオナルド陛下も見に来る大切な日。このコンテストで優勝すれば、名実とも王国一となる。そうなればカツミはますます増長し、筋力トレーニング以外、まったく目にもくれないでしょう」
「カツミお姉さまを止められるのはズッシーオお兄様だけです!! どうしてお兄様は帰ってきてくださらないのですか!!」
ヴェルチュは吠えた。彼女にとってズッシーオは兄と思っている。もちろん彼女には血の分けた兄はいるが、それはそれだ。
「今のズッシーオは身体を鍛えることに夢中だと、ヤムタユ家の執事が教えてくれました。そもそもあそこの使用人たちはひとりで100人の兵士の働きをします。それをズッシーオは軽くいなすのですから、誰もあの方を止められないのです」
すでにヤムタユ家の執事、スティーブから話を聞いている。捕獲に失敗したとのことだ。いっそのことズッシーオが無力な無能であったならと、後悔するばかりだ。
「やあ、アンジュ嬢。ご機嫌麗しゅう」
そこに野太い男の声がかかる。そこには軍服を着た熊が立っていた。
溢れんばかりの筋肉は軍服では抑えきれないほどである。
カッミールとヴェルチュの父親、ジェイクス・ノルヴィラージュ伯爵であった。
「ノルヴィラージュ伯爵様、ごきげんよう」
アンジュがドレスの裾を掴んで頭を下げる。ヴェルチュは父親に食って掛かった。
「お父様! どうしてカツミお姉さまを止めてくださらないのですか!! 本日のコンテストで優勝したら、お姉さまはますます増長するのは必至ではありませんか!!
「はっはっは、ヴェルチュよ。声を荒げるのは下品だぞ。お前は伯爵令嬢なのだからな!!」
ジェイクス卿は豪快に笑う。だがアンジュはその能天気さに腹が立った。じっとにらみつけている。それに気づいたのか、ジェイクス卿はアンジュに声をかけた。
「ヴェルチュにアンジュ嬢よ。心配することはないぞ、カッミールが優勝することなどありえない。それにもうボディビルに夢中になることもなくなるからな」
ジェイクス卿は歯をむき出しにして笑っている。アンジュは不審に思った。ジェイクス卿は見た目通りに豪快だが、決して馬鹿ではない。むしろ戦場では冷静な判断力を持っている。時には卑劣な作戦で勝利することもあるが、本人は「勝った方が正義なのだ」と言っている。
その男が娘の優勝はありえないという。ヴェルチュはそれを聞いて安堵したが、アンジュは逆に不穏なものを感じた。
何か友人に不幸が起きる。そんな気がしてならなかった。
カッミールの話は前中後編になります。




