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第21話 カーボローディング

「ズッシーオ様、よろしいでしょうか?」


 ここはルミッスル王国より北にある筋肉仙人チアオの道場だ。場所は岩山の天辺にある。下から見上げても雲しか見えないほど高い。

 道場内ではズッシーオ・ヤムタユ男爵がペックフライのトレーニングをしていた。

 その横に銀髪で眼鏡をかけた執事が立っている。ヤムタユ家の執事、スティーブだ。


「待ってくれないか。今はペックフライの最中なんだ」


  ズッシーオは専用のマシンに座っている。左右に逆扇のような長いバーが上部に突き出ていた。

 まずはマシンに座り、肩甲骨を寄せて胸を開いた状態でハンドルを握る。

 次にシートの高さは、ハンドルを握った手が大胸筋の下部にくる位置にする。

 そこから両腕が円を描くように、両手を近づけていくのだ。


 このトレーニングでは大胸筋の中央部が鍛えられる。大体12回で3セット行うのが基本だ。


 動作は肩甲骨を寄せた状態をキープしながら、肘を張って行うことが重要だ。

 逆に肩が前に出てしまったり、肘が曲がってしまうのはだめだ。

 背中がシートから離れないように注意しなくてはならない。


「……ずいぶんトレーニングに熱心ですね」


「うん。今日は胸の日なんだ。ベンチプレスにダンベルフライをこなしてから、これを始めたんだよ。終わったら上腕三頭筋を鍛えるね」


 ズッシーオの笑顔がまぶしかった。まるで太陽みたいだ。

 一方でスティーブの眉間にしわが寄っている。


「実はアンジュ嬢の手紙によると、カッミール様はカーボローディングなるものを取り入れたそうです。なんでもポーロ王国の魔法使いたちから伝わったとか」


「カーボローディング?」


 スティーブは説明した。カーボローディングとはグリコーゲンを多く蓄えるため、パンや芋類などの炭水化物を効果的に取り入れる食事法だ。


 そもそもグリコーゲンとはグルコース、ぶどう糖の高次多糖類である。無味無臭の白色の粉末で、糖原質とも言われている。動物の肝臓・筋肉に多く含まれ、分解されてぶどう糖となり、血糖量を維持する一方、筋肉その他の組織のエネルギー源となる重要なものだ。

 

ポーロ王国では闘技者などが行うもので、試合の1週間前、激しいトレーニングを行って、肝臓や筋肉の中の燃料にあたるグリコーゲンを使い切り、その後3日間ほど脂質の多い食事を、さらに3日間ほど内容の充実した食事をとって試合に臨む、などの方法があるという。


「なかなか興味深い方法だね。そういえばボディビルコンテストが近いから、仕上げているのかな」


「はい。一週間後にコンテストが開催されます。もう若様がここに来て半年近くたっていますね。その間、わたくしの話など一切聞く耳持ちませんでしたが」


 スティーブは嫌味を言ったが、ズッシーオは人の話を聞かない性質ではない。むしろ庶民の声は多く聞いているし、貴族たちの話も聞いている。

 どちらに偏るわけではなく、バランスの取れた領地運営を心掛けていた。これは今は亡き父親ディーノの教えでもある。

 問題なのはカッミールのことになると、まったく無視する傾向が強いことだ。


「先ほどのカーボローディングですが、魔法使いたちの話によると、この方法は、疲労が残ったり、3日前からの高炭水化物の摂取期において体調を崩した場合、特に消化器官の不調などにはグリコーゲンの蓄積が目的通り出来なくなる等のリスクもあるそうです。アンジュ嬢は危険だからやめるように願い出たそうですが、聞き入れなかったようです。なので若様に戻っていただき、カッミール嬢の説得をお願いしたいのですが」


「断る」


 ズッシーオは拒否した。


「彼女は頑固だよ。一度決めたら絶対にやめない。彼女の好きにさせてあげなよ。それに僕が説得に来たら、修業をやめて戻るなんて根性なしだと言われるね」


 その言葉を聞いて、スティーブの顔が曇った。そして意を決したのか、ズッシーオをにらみつける。


「もう、我慢の限界です。あなたは我らにとって素晴らしい主です。あなた方ヤムタユ家に仕えられた幸運を双女神様に感謝しております。ですがカッミール嬢のためにもあなたには帰っていただく。無理やりで恐縮ですがご容赦ください」


 ズッシーオはペックフライを終え、手ぬぐいで汗を拭いていた。

 スティーブは音もなく、ズッシーオの背後に忍び寄る。それから彼の首筋に手刀を当てようとした。

 その動きは蚊のように素早く、常人では目で追えない速さだ。


 ズッシーオは一歩前に歩み出た。スティーブの手刀は躱されてしまう。

 躱した本人はお椀に盛られたプロテインをごくごくと飲み干していた。


「君の動きは熟知している。それに動いたときに風が吹いたからね。すぐに気づいたよ」


 ズッシーオは振り向かずに言った。使用人が雇い主に無礼を働こうとした事実を黙認している。まるで子供がいたずらのように軽い口調であった。


 逆にスティーブは戦慄する。自分の動きが完璧に読まれていたことに恐怖を覚えたのだ。


 ならばと、今度は口元に何かを含む。それは針であった。縫い針よりも細い針で、タンポポの毛のようである。

 この針を吹き出し、経穴に突き刺す。そうなれば人はあっという間に眠ってしまうだろう。人体の神秘を知り尽くしたシャンユエ一族ならではだ。


 スティーブはプッと吹き出した。その速度は蜂のようである。

 しかしズッシーオが突如振り向いた。針は彼の右肩に刺さる。目的のツボと違うので、本人はケロリとしていた。


「だめだめ。鼻息が荒くなっているよ。いつもの君なら冷静に対処できるのに、今日は苛立っているようだね」


 ズッシーオは笑顔を浮かべたままだ。彼にとってスティーブの行為などまったく気にしていない。ズッシーオはスティーブを信頼しているのだ。


「……ならば実力行使です」


 スティーブは虎のように前に出る。そして右脚でズッシーオの頭部めがけて蹴りを入れた。

 そのしなやかさは柳か竹を連想する。鞭のように目にも止まらぬ速さであった。

 それをズッシーオは紙一重でかわす。続けて、複数の蹴りを繰り出すが、どれも当たらない。

 その様子を筋肉仙人チアオが眺めていた。


「スティーブの蹴り。あれを一発でも喰らえば、首の骨がへし折れてしまうな。それを平然と顔色変えずに躱すとは……。さすがはディーノの息子じゃな」


 ズッシーオは手ぬぐいで汗を拭いていた。その間にスティーブの蹴りが来る。その動きはまるで舞を見ているかのようだ。

 しかし攻撃しているスティーブの表情には焦りが見える。冷や汗もかいていた。


「―――以前もそうでしたが、ここに来て筋肉を増加したためか、心に余裕ができたようですね!!」


 初めてスティーブが声を荒げた。シャンユエ一族でもズッシーオと正面で殴り合いをしても、彼には勝てなかった。ただしスタミナ切れでへばることはあったが、今のズッシーオは身体が大きくなり、スタミナもけた外れに増えている。スティーブの攻撃はすべて見切っているのだ。


 不意にズッシーオがスティーブの脚を叩いた。本気で叩いたというより、暖簾を押しのけた感じである。

 スティーブはバランスを崩し、倒れてしまった。ハァハァと息を切らしている。ズッシーオは汗ひとつかいてない。


「帰ったらアンジュに伝えてほしい。コンテストの結果がどうであれ、僕は必ずカッミールを迎えに行くと。あと1年半、待っていてほしいとね」


「……わかりました」


 スティーブは断念した。チアオは彼に歩み寄る。


「わしの目から見ても、お前さんの実力はかなり高い。並の相手では歯が立たないだろう。それこそ兵士が100人いてもお前さんのひとり勝ちが瞼に浮かぶわい」


「嫌味ですか。結果としてわたくしは若様に勝てませんでした。ここに来てから若様の実力は遥かに上がっております。今のルミッスル王国であの方に敵うお方は国王レオナルド陛下か、ジェイクス卿、アミアンファン公爵くらいなものでしょうね」


「なのにあの男は過小評価されているそうだな。まったく王国には人を見る目がないのか」


「そうですね。ルミッスル王国では筋肉が大きい人間ほどもてはやされます。それこそアンプリュダン伯爵家の次男フォルスの人気が高いように。ですが今の若様は他の貴族と比べても見劣りしません。早く領地に戻っていただきたいのですが……」


「納得しない限り無理じゃろう。ズッシーオの身体は貧弱であったが、心は鋼じゃわい。打たれても柔軟に対応できるし、やり遂げようとする意志もある。さらに知識をどん欲にむさぼり、それをだれでも活用できるように調整する。あの男こそ王になればよいのに……」


「レオナルド陛下も一度は若様を養子として迎え入れ、王位を譲る考えでした。もっともディーノ様と若様に断られましたがね」


 ズッシーオは上腕三頭筋を鍛えるためにライイング・トライセップス・エクステンションを始めた。

 身体を鍛えることに貪欲になった彼は嬉々として筋肉を傷めつけていた。

 しかしスティーブはその頑固さに危機を抱いているのであった。

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