第19話 レッグカール
「ふぅ、起きるべくして起きたか……」
ズッシーオは頭を抱えていた。目の前には執事のスティーブが立っている。一切動かない様子は彫像のようであった。実際は動くなと言えば、丸一日指先ひとつ動かさない。解放されてもまったくけろりとしている。本人曰く、ただ立っているだけでらくちんだとのことだ。
さて彼の口からヤムタユ領に襲撃者が来たこと、シャンユエ一族のシャオメイが隠形の術で相手をいたぶったことを報告された。
ズッシーオ自身、そのことについて口を出す気はない。元から指示していたことだ。それどころか事前にクラージュ・アンプリュダンとは手紙でやり取りしていたのである。
もちろんシャンユエ一族が秘密裏に手紙のやり取りをしていた。クラージュだけではなく、裏で繋がっている人間は数多い。カッミールの父親、ジェイクス卿もそのひとりだ。
ズッシーオは悪人ではないが、善人ともいえない。領民のことは家族同様に大切に想っているが、害をなすものには容赦はしないのだ。これは父親が好意には好意で、悪意には徹底的に報復しろと教えられたためである。
貧弱男爵の身体は弱いが、心は鋼のように強いのだ。
「まったく我々のいるヤムタユ領を好き勝手にできるなど、どれだけおめでたい思考回路なのでしょうか。呆れますね」
スティーブは呆れた口調だが、敵対する相手に決して手加減はしない。自分ならもっと残酷で敵対者に恐怖を宣伝させるのにと、残念がっている。
ズッシーオはたしなめた。
「いいや、普通はそうだよ。うちみたいに情報網がしっかりしているわけじゃないからね。それに情報の重要性もうち以外はあまり理解していないと思うよ。ノルヴィラージュ伯爵やアミアンファン公爵以外はね」
「元はディーノ様の発案でしたが、これほどまで巨大な力を持つとは思えませんでした。さすがはディーノ様ですね」
「うん。でも父上のすごいところは自分がいなくなった後でも、僕らが運営できるようなシステムに構築したことだね。おかげで父上がいなくても機能している。これはすばらしいことだよ」
ズッシーオとスティーブは故人に感心していた。叔父のバンブフォイユや弟のサバットでも同じように領地運営できるシステムを作り上げたのだ。
それ以上にスティーブを含むシャンユエ一族の力があってこそである。
「ですがズッシーオ様もなかなかのものです。ディーノ様のマニュアルの不備を改善したのですからね。やはりヤムタユ領はズッシーオ様がいなくては話になりません。今すぐ戻ってきていただけませんか」
「いいや、僕は帰らない。カツミにふさわしい男になるまで帰らないと決めたんだ。彼女には2年後に帰ると言ったけど、僕が満足するまで意思を変えるつもりはないよ」
いつの間にか私から僕に変わっている。これは親しい人間と一緒だからだ。筋肉仙人の場合は師匠と弟子の関係だからだ。
スティーブは主の言葉を聞くと、ため息をついた。ディーノと比べると貧弱男爵と揶揄される彼だが、意志の強さは父親譲りである。シャンユエ一族の長老フートゥににらまれても引くことがないから、一族でも高く評価されていた。
「さて僕はこれからレッグカールをしなくてはならないんだ。申し訳ないが話はこれでおしまいだ」
ズッシーオは道場の中に入る。そこには専用のマシンが置かれていた。
まずズッシーオは仰向けに寝て、バーに足をかけた。ポジションはマシンの支点が膝の真横にくる位置である。
それから脚は骨盤、膝、足首を結ぶラインが一直線になるようにした。
その状態から膝を曲げ、バーをお尻の方向にまきこむ。動作中はつま先の肘の方を向けておくのだ。
これでハムストリングを鍛えることができる。大体15回の2セットが基本だ。
ズッシーオは懸命にレッグカールを行っている。以前と比べて彼の脚は太くなった。元々ズッシーオは思い立ったら一直線の性格である。今まで筋トレをしなかったのは、ディーノのマニュアルをより改良するためであった。
その間にカッミールが黄金の身体を手にしたのである。彼女が努力して得たのなら自分の得られるはずだと信じていた。
「レッグカールが終わったら、今度はレッグエクステンションだ。こちらは大腿四頭筋を鍛えられるんだよ」
ズッシーオは笑っていたが、スティーブは冷たい表情のままだった。
筋肉を鍛える喜びに目覚めたのはいいが、あまりに周りが見えていない。
「カッミール様はますます筋力トレーニングにのめりこんでおります。それこそ身体を壊す様に。アンジュ様が止めておりますが、最近はまったく話を聞かないそうです。やはりズッシーオ様が直にお止めにならないと……」
「だめだよ。カツミは僕のいうことなんか絶対に聞かないんだ。それも僕の身体が貧弱だらかいけないんだよ。カツミは女性だけど努力で鋼鉄の身体を得た。それなのに男の僕は貧弱なままだった。彼女が僕を見下し、婚約破棄したのは自明の理だったのさ」
ズッシーオは話を切り上げ、ひたすらレッグカールを続けている。
「おお、ハムストリングスが成長する喜びの声を上げているよ。効いてる、効いてるね」
実に楽しそうにトレーニングする主を尻目に、執事は苦い顔になった。
そもそもズッシーオは一度でもカッミールに注意したことがないのだ。昔から彼女のやることに反対することがないのである。
スティーブは理解していた。カッミールは待っているのだ。ズッシーオが自分を止めに来てくれることを。
悲しいことにズッシーオは乙女心をわかっていないのだ。領地運営は問題なくできているのに。




