第1話 筋肉仙人への道
ズッシーオは岩山を上っていた。まるで壁である。
ここはルミッスル王国より北にある山だ。前人未踏の険しい山で何人もの男たちが山に挑んで命を落としている。
この山の頂上に筋肉仙人がいる。ズッシーオは確信していた。そもそも幼馴染のカッミールの父親ノルヴィラージュ伯爵は18歳の頃にこの山に登り、筋肉仙人の修業を受けてきたのだ。
最初は一般的な体型だったのに、山を下りたらゴリラのように身体が大きくなっていたのである。
その後、仕事が忙しく筋力トレーニングはおろそかになりがちだが、体格はあまり変わらない。
だが伯爵は社交界では口を酸っぱくして語っている。
「筋肉仙人に関わるな」と。
自分の頭では理解できない。おそらくは頭の回る人間でなければ筋肉仙人の真の意図はつかめないと嘆いていた。伯爵は割と武闘派で若い頃は暴れ牛の額を勝ち割り、畑を荒すひぐまをこらしめてペットにしたりと武勇伝に事欠かない人物である。
ズッシーオの指はすでに感覚はない。岩山を上り続けたために、指がマヒし始めたのだ。
標高の影響で息も苦しくなり、意識ももうろうとしていく。
だが彼は昇るのをやめない。筋肉仙人に会いたいからだ。
(カツミ……、君は何故筋肉に憑りつかれたのだ……)
幼馴染の筋肉令嬢を思い出す。彼女は幼少の頃から限界に挑むことを生きがいとしていた。
「わたくしには時間がない」といつも口にしていた。
12歳の頃、彼女はある日、自分の住む領地から王都へ走ろうとしていた。なぜこんなことをしたのか。自分の限界を知るためだ。
それ以前にズッシーオが君は女の子だからと言ったことに腹を立てた。
彼女は夜中こっそりと抜け出し、皮袋に牛乳を詰めて、走っていったのだ。
彼女は一度も休憩を取らなかった。領地から王都まで地図を見ればすぐにたどり着けると思ったからだ。
ちなみにこの国では精度の高い地図は存在する。しかし機密事項のため貴族しか所持できない代物だ。カツミは勝手に模写してそれを頼りに夜の道を歩いていた。
ルミッスル王国は善政を敷いており、よほどのことがない限り餓死する状況にはならない。もちろん盗賊はいるが定期的に領地の貴族が捕縛し、荒地を開墾させていた。
カツミの脚はぱんぱんになっていた。十数時間も歩き続け、やがて日が昇っても彼女は休まなかった。
休みなく走るのが自分に課した規則だった。
カツミは皮袋に入っていた牛乳を飲み干した。だが常温保持されていたため完全に腐っており、数歩歩いた後彼女は吐き気を催した。そしてそのまま倒れてしまい、通りがかりの商人の馬車に拾われたのである。
もちろん父親の雷が落ちたのは言うまでもないが、カツミは目的を達成できなかった自分を恥じたのだ。そこから彼女はおかしくなってきたのである。
ズッシーオはこの話を聞いて、自分に責任があるとカツミに会いに行ったが、彼女はでベッドで寝ていた。
見舞いに来たズッシーオを一瞥すると、すぐに布団に潜り込んだ。
「……女の子が失敗してさぞかしおかしいでしょうね」
冷たい声であった。今までそんな言葉など聞いたことがなかった。彼女が身体を壊して寝込んでも、笑う要素などどこにもない。
彼女はこの時点でひねくれはじめたのである。
さてズッシーオはいつの間にか頂上へたどり着いた。意識はない。知らないうちに身体が動き、目的地へたどり着いたのだ。
そして目の前には異質な風景が広がっていた。
木々が茂っており、木造の家が数件建てられていた。
開けた場所ではニワトリたちが放し飼いになっており、見た事のない衣装を着た女性が餌を挙げていた。
女性はズッシーオに気づき、すぐに家へ入っていった。
ズッシーオはそれを見ていたが、身体が動かない。やがて身体が沈むとそのまま眠りについてしまった。
☆
「気づいたかね」
目を覚ますと老人の顔があった。ズッシーオは寝かされていた。竹を束ねて作られた寝台に毛布が敷かれており、その上で寝ていたのだ。
部屋の中は見た事のない家具があった。
草で出来た床に、足が短い丸いテーブルなど様々だ。
目の前にいる老人は禿げあがった頭に白いひげを生やしている。
しかし肌は日焼けしており、身に付けているのはパンツ一丁だが老人の身体は見事に鍛え上げられていた。
まるで肉の鎧を身に付けているようだ。ゴリラほどではないが、圧迫感のある老人である。この方こそ筋肉仙人であろう。
「ぼっ、いえ私はズッシーオと申します。貴殿が筋肉仙人様でしょうか!!」
ズッシーオはすぐに寝台から飛び降りて、頭を下げた。それを見て老人は笑う。
「筋肉仙人か。世間ではわしをそういうらしいがな。わしの名はチアオじゃ。100年にひとりの逸材や、太陽の天才児とも呼ばれておるがの。ほっほっほ」
なんとも自信満々な態度だが不思議と嫌味に聴こえない。老人の人柄がなせる業だろうか。
「ところでお前さんは何しに来たのかね」
「はい! 筋肉仙人様の元で修業をして肉体を鍛えたいのです!!」
「ほう、何のために鍛えたいのかね?」
「もちろん、私の婚約者を見返したいのです! そして貧弱な自分を変えたいのです!!」
「ならばよし。明日から修業を付けてやろう。今日は体を休めるがよい」
あっさりと了解されて、ズッシーオは拍子抜けした。俗的な願望に対して否定的だと思ったのだ。
「あの、私の願いは邪とは思わないのですか?」
「なぜじゃ。肉体を鍛えるのに複雑な考えなどいらんよ。お前さんのように素直な欲望を叶えてもよいのじゃ。それにわしは高尚な人間ではない。筋肉のすばらしさを広めたいが、わしは人見知りでのう。大勢の人前ではあがってしまうのじゃ。世話はわしの孫娘であるレイカに任せよう。まずはゆっくりと休むがよい」
チアオはその場を去った。ズッシーオは安堵し、寝台に戻って眠りにつく。
明日から修業ができる。胸が高鳴るが、疲労のせいで深い眠りに落ちていった。
しかしズッシーオは知らない。仙人の家には特殊な籠があり、そこから山の下へ降りれることを。現代社会ならエレベーターに似た乗り物だが、仙人はそれを使って自由に下界へ行き来していたのであった。
筋肉を鍛えるのに複雑な理由はいらないのだ。
というより中世ヨーロッパ風の世界観で仙人はミスマッチだよね。
チアオは中国語で橋を意味します。参考文献の棚橋弘至氏から取りました。
棚橋氏はプロレスラーであって、ボディビルダーではありませんが、筋肉に関しては一緒です。
レイカはアイドルで女子プロレスラーの才木玲佳さんがモデルです。