第15話 上腕三頭筋
「よし、リバース・プッシュアップを終えたな。少し休んだらプレスダウンをやるぞ」
筋肉仙人チアオが言った。
ズッシーオは壁際に置いた椅子の端を掴み、足を前に出して踵を床に付けていた。
リバース・プッシュアップは上腕三頭筋を鍛えるトレーニングだ。
なるべくできるだけ限界が来るまでこなす。それを3セット繰り返していた。
プレスダウンは専用のマシンを使うトレーニングだ。
ラットプルダウンのようなバーを用いる方法もあるが、ズッシーオは筋肉を収縮できるロープを使用している。
やり方は脇を閉じた状態でロープを握る。そこから肘を支点にして腕を伸ばすのだ。
伸ばしたときは、小指が外側にくるようになるのが大事である。
ここで注意するのは体重をかけてロープを引っ張ったり、肘が動いたりすることだ。
動作中は軽く胸を張った状態で肘を固定するのが一番である。
大抵背中を鍛えるときは、上腕三頭筋と腹筋の3つを鍛えることが多い。
だが絶対ではなく上腕二頭筋と上腕三頭筋を一緒に鍛える場合もある。
トレーニングをすると筋肉がパンパンに張ってくる。続けていくうちに、それだけでは物足りなくなるのだ。
そこで筋肉に新しい刺激を与えるためにエクササイズの数を増やしていくわけだが、なんでもかんでも取り入れると時間が足りなくなる。
それを分割法でローテーションを組むわけだ。
現在のズッシーオのメニューは胸の日は、胸、上腕二頭筋、腹筋を鍛えている。
脚の日は、脚と肩、腹筋。
今日は背中の日なので背中と上腕三頭筋、腹筋を鍛えていたのだ。
3つとも腹筋を鍛えているが、どちらもトレーニング方法は違う。
通常のクランチに加え、ツイスティング・クランチを行ったり、レッグレイズを行う場合もある。
レッグレイズは腹直筋の、下部を鍛えるのに最適なトレーニングだ。
ズッシーオはプレスダウンに取り掛かる。最初は難儀したが、徐々に体が慣れてきた。
現在は10回を3セット行っている。
「プレスダウンで気を付けるのは、どこまで戻すかによって三頭筋のどこに効くかがまったく違ってくるぞ。フルチャレンジするよりも、可動範囲をいくつも分けで試す必要がある。三頭筋はなかなか発達しにくい部位じゃが焦ることはない。自分のペースでやるのが大事じゃな」
今のズッシーオは上腕三頭筋も成長している。自分ではどうトレーニングをするべきかわからないので、素直に筋肉仙人の指示に従っていた。
もう少し成長すればズッシーオ自身も要望を言えるかもしれないが、まだその時ではない。
「慣れるようになったら腕の日を作るようにする。今は基本を行い、壁にぶつかったら新たに模索しよう。筋肉の成長はじっくり時間をかけなければならんのじゃ。無理は厳禁じゃぞ」
ズッシーオがプレスダウンのメニューを終えた。椅子に座り一休みする。
そこで彼は思い出したように口に出した。
「そういえばカツミは最初上腕三頭筋を鍛えたときは、ライイング・トライセップス・エクステンションから始めていたな」
「ほうライイング・エクステンションか。ナローグリップ・ベンチプレスと一緒にやると効果的じゃぞ」
ライイング・トライセップス・エクステンションは2つのエクササイズを組み合わせ、より強く上腕三頭筋を刺激する方法だ。
まずはベンチに仰向けに寝て、重り付きのEZバーの狭い部分を持ち、腕を垂直に伸ばして構える。
次に肘を曲げバーを頭の上まで下ろしたら、肘を伸ばして元の体勢になる。
上腕は動かさずに、肘を支点にして行うのだ。肘を開かないように、両腕は平行にするのが大事である。
ライイング・トライセップス・エクステンションでバーを持ち上げることができなくなったら、そのままベンチプレスを行うのだ。脇を閉じた状態で行うことが大切である。
「そうなのですか。ですがカツミは普通と違いましたね。潰れたらそこで終わりではなく、通常のフォームで上がらなくなったら今度はベンチプレスみたいにバーを胸のところから押し上げて、そこからライイング・エクステンションをゆっくりとした動作で額のところまで下ろし、そこから胸の位置までバーを移動させ、押し上げたら再びゆっくり下ろすやり方でした。それを限界まで行っていましたね」
カッミールの父親、ジェイクス・ノルヴィラージュ伯爵は筋肉仙人の教えを世間に広めることはできなかった。ただし自分の一族には広めることはできた。
家族などは専用マシンを使い、専用の食事療法を取ることができたのだ。
筋肉を育てるのに大切な大豆の栽培をしたのも、仙人の教えがあったからである。
もっとも当時はジェイクス卿の奇行と馬鹿にされており、周囲の領地では真似をするものは一切現れなかった。ズッシーオの父親ディーノが賛同し、次にアミアンファン公爵と国王レオナルドも共感した。
おかげでルミッスル王国ではボディビルが流行したのである。
「無茶をするのう。そりゃあ刺激を与えるのは大切じゃが、いきなり強烈なのは身体を壊すぞ。いったいカッミール嬢はなぜ筋肉にこだわるようになったのじゃ?」
「15歳のときでしたね。王都で行われた女性用のボディビルコンテストがありました。彼女は訓練などで身体を鍛えていました。ただ彼女は目が悪く、稽古の時はいつも相手の動きを読めずにいたのです。伯爵家の娘なのに武芸ができないことを悩んでいました」
当時は女でも武芸を磨くことがあった。お成さ馴染みのアンジュ・アミアンファンは鎧と槍は持たないが、ボクシングをたしなんでおり、腹筋が割れていた。
しかしカッミールはアンジュの顔を殴れなかった。もともと彼女は人を殴ることができない優しい性格で、アンジュでなくとも相手を傷つけることができないのだ。
武芸を諦め落ち込んでいたところを、王都に住む友人に誘われ、ボディビルコンテストに出場したらしい。
最初はある程度身体を鍛えた自分なら楽勝だと思っていた。しかしそこにいた女性陣は己の身体を限界まで鍛えていた美の集合体であった。誰もがカッミールより強そうに見えたのである。
カッミールの身体は貧弱であった。公衆の面前で裸同然に立たされ、女の価値を問われた。そして価値なしのレッテルを貼られたという。
彼女はプライドを打ち砕かれた。当時のメイドの話では家に帰った時、料理を所望したという。肉いっぱいのシチューを鍋いっぱいに作ったが、それらをすべて平らげたそうだ。
腹は満ちても心は満たされておらず、彼女の目は虚空の一点を見据えたまま静止していたという。
「それ以来トレーニングに熱中したのです。聞いた話では父親からトレーニング方法を聞きだし、かなりむちゃな鍛え方としたそうですね」
「……お前さんはそれを止めなかったのか?」
「当時は忙しくて彼女に会えなかったのです。2年前には父が亡くなったので、大変な時期でした。その間に彼女の筋肉は女性にしては素晴らしいものに仕上がったのですよ。さすがだと思いました」
ズッシーオは素直に感心していた。幼い頃から彼女を知っているが、彼女はいつも目標を探していた。それを目指したら一直線であった。しかし挫折すると落ち込みようがひどかった。ズッシーオはそんな彼女を支えていたが、ある時期を境に敬遠してしまう。
その後、彼女に婚約破棄されて、現在に至るわけだ。
「……今のカッミール嬢に必要なのは筋肉ではなく、お前さんだと思うがな」
仙人は皮肉を言ったが、ズッシーオの耳には届かなかった。




