柔らかな手
「紬くん、大丈夫!?」
名前を呼ばれて、紬は目を開ける。
本当は、ほっといて欲しいと思うのにどこかほっとした自分に気が付いた彼は、ゆっくりとした動作で声の主を見上げる。
目の前にいるのが花梨じゃない。
その現実に落ち込む自分に、紬は女々しいなぁと嗤って、ぐっと顔を顰めた。
(こんなんだから、俺じゃなくて、紡が選ばれるんだ)
男らしいだのなんだの言われる紬だが、結局のところ自分の感情一つ上手く表現できなくて、カッコ悪いことがみっともないと思ってて、それがより一層みっともないっていう自分がまたカッコ悪いっていう悪循環。
それが子供のようだと思えば思う程雁字搦めになる思考に、実らなかった恋に、彼は打ちのめされているのだ。
だがそれを理解はしていても、納得ができていない。
だからこそこんなにも苦しい。
「……紬くん……」
「大丈夫、だから。ほっといて、くれ」
「……」
そばに人がいたら、楽になる。
そんな場合もあるのだろうけれど、彼の場合は違う。
誰かがいて安心はする。
だけれど、いて欲しい人が明確にわかっていて、それが叶わないと彼は知っているのだ。
実際に体調が悪いわけではなく、バツが悪いだけだ。
だから放っておいて欲しいのだ。
(まるで、ガキだよな。いいや、俺はガキそのものだ)
手に入らなかったものに、駄々をこねて叱られて、拗ねている子供そのもの。
まったくもって、格好悪い。
「あの、ね」
「あ?」
「ハンカチ、濡らしてきたの。あの、大丈夫、なんだろうけど」
「……ん」
おずおずと差し出された白いハンカチは、確かに先ほど見た時よりも濡れて色が変わっている。
紬は少しだけ躊躇って、今度は彼女の好意をむだにしないようにとそれを受け取った。
ひやりとした感触に、ほっとしたような彼女の表情に、ちくんと罪悪感が痛みを訴える。
「……なあ、如月。さっきは、怒鳴って、……悪かった」
「えっ」
「……」
「い、いいよそんなの! わたしも、ちょっと、……しつこかったかなって、今も追っかけてきちゃったし! ハンカチも押し付けちゃってるし!!」
ぱたぱたと手を振って言い訳を始めた彼女に、紬は呆気にとられた。
ああ、そうか、とそして理解する。
今まで病気で出て来なかった彼女は、彼女なりに緊張していたに違いない。
久しぶりの学校に、馴染めるだろうかって。
好意を否定されて悲しかった、よりも。やりすぎただろうか、という不安の方が勝ったのだろうと紬は思う。
「あ、あのね紬くん!」
「……なんだよ」
「わ、わたしのことも雫でいいよ!」
唐突に、名前で呼べと言われてまた目を瞬かせる。
予想もできない行動をする彼女――雫に、紬はしばらく沈黙してから、ふっと笑った。
それは押し出されたような笑い声で、その声に彼女は顔を赤くさせる。
「わ、笑わなくても……!」
「悪い。だって、突然だろ。俺が名前で呼べっつったのは、紡と混ざるからだ。なんでお前まで名前で呼べとか言い出すんだよ」
「だ、だって! 花梨ちゃんも名前で呼ばれて……」
「付き合いがそれなりに長いからだ。他の女子のことは下の名前で呼んだりしねエよ」
「そ、そうなんだ……」
「けど、まあ。そうしろってんなら、そうするよ」
「! ……う、うん!!」
「変な奴」
さっきまで花梨のことで頭がいっぱいだった紬の気持ちが、ふっと楽になった。
それは雫が起こした、何気ないことだったのだけれど彼にとっては別のことに意識が向けられたのは救いに違いなかったのだ。
「……紬くん、やっぱり一回保健室行こう?」
ひやりとした、それでいて柔らかなものが額に触れる。
それが雫の手だとわかって、紬はぎしりと体を硬直させた。
好きな女の子はいるし、女子と会話だってできる。
だけれど紬はそう、触れ合うような関係の異性は今までいなかった。
当たり前のように己の額に触れてくる雫に、どうしていいかわからなかった。
振り払うことは容易だったけれど、それではまた彼女を傷つける。
追いかけてきてくれた、優しくて変な奴。それをもう一度傷つけるのは、流石に紬にとってカッコ悪すぎる話だったのだ。
この期に及んでカッコつけたところでどうってことはないのだけれど、それは少年らしい無自覚な、幼いプライドのようなものだったのかもしれない。
「やっぱり顔色悪いし、もう直ぐ昼休みだし。自習のプリント、後で持っていくから」
「……」
自習の時間に飛び出した。その現実を思うと、彼女が追ってきてくれたことはありがたいがクラスメイトがどんな反応をするんだろうと思うとうんざりもする。
だけれど、それらすべてを理解して雫がそうした行動をしてくれたのなら。
花梨は、紬を通して紡を見ていたけれど。
雫が、他でもない紬の為に、来てくれたのであるなら。
(……馬鹿か、俺ぁ)
どれだけ現金な話なのだろう。
好きな女は花梨で間違いなく、来て欲しいと願ったのも花梨だ。
それなのに、自分を案じてくれる雫の存在に、救われたような気持ちになっている。
それが理解できなくて、自分がどれだけ勝手なのかと紬は濡れたハンカチを痛いほどに握りしめた。
雫の柔らかな手が、心地良いだなんて思ったのも恥ずかしければ。
こんな醜態を見られたことも恥ずかしいし、教室で怒鳴ったことはもっと恥ずかしい。
何一つとってもカッコ悪いことしかないのだ。
「……昼休み、飯はいらねって紡たちに伝えてくれるか」
「え? う、うん」
「雫」
「! うん!!」
「悪いな、初日から色々、さ」
「……いいよ。紬くんは、具合悪いんだもんね。わたしも初日だからって、ちょっとどうしていいかわかんなくて。さっきもね、紬くんが出てった後、皆の目が怖くなって出てきちゃったんだ」
「そっか」
「あ、でも紬くんが心配だったのも本当だよ!」
「……おう」
そりゃそうだろうな、と少しだけ落ち着いた紬は思う。
突然怒鳴った紬、その後に残された雫はきっとクラスメイト全員から注目されたに違いない。
自習時間にくっちゃべっていた自分らが問題だったのだろうが、あの時は手紙の主を探すことばかり気が行っていてこんな風になるなんて紬には想像できなかったのだ。
―― あなたと、恋がしたいです。 ――
あの手紙をもらってから、何かが変だ。
元々、失恋からおかしくなっていたことは自覚している紬だったが今は輪をかけておかしくなった気がする。
それがどういうものなのか、よくわからない。
ただ、あまりにもおかしい。そんな感じしかしない。
それでもいつものように朝は来るし、紡は兄弟だし、一緒に登校することも嫌じゃない。
ただバス停から降りたところで待つようになった花梨の姿に、胸が痛むだけだ。
二人が仲睦まじくする姿にもやもやとしたものを抱え、苦しんで、なんで自分は選ばれなかったのだろうと女々しく想うのだ。
いつも通りの日常だ。
それでもどこかで崩れた日常だ。
そこにきた手紙に、今度は雫の存在だ。
(ああ、なんか、変わっちまったのか)
何が、とはわからない。
だけれど紬の中で、確かに何かが変わった気がした。