初めての馬車旅 8
野営地に戻ると、ハウンドドッグの血液がしみ込んだ土の側にイザックとディエゴが立っているだけで、他の乗客たちの姿は見えなかった。
なんとなく覚えがある感じに馬車の方へ視線を向けると、幌の隙間から眠そうな目をこすりながら私たちを見ているペーター君と目が合う。
「移動の準備は済んでいるんだね?」
「ああ。後は俺たちが乗り込むだけで、すぐにでも出発できるぞ」
イザックに任せた交渉は身を結ばなかったんだな、と判断して馬車の方へ向かうと、
「この野営地を使えるようにしてくれるんじゃないのか!?」
ディエゴが慌てて私を呼び止めた。
「移動の準備を済ませていることは、アリスさんを信用していないようですまないと思っている!
だが、もしもの時のことを考えて乗客を守ることが俺の仕事なんだ。 気を悪くしないでくれ!!」
「……?」
「3万メレでこの仕事を請け負って欲しいそうだ。 かなり安い気もするが、乗合馬車にこれ以上出させるのは難しいと思う。 受けるかどうかはアリス次第だが、どうする?」
どうやら、私の処理が失敗した時のことを想定しての移動の準備だったらしい。 イザックは少し面白くなさそうな顔になっているけど、まあ、御者としては良い判断なんじゃないかな?
Bランクのイザックじゃなくて、まだ登録前の私がすることなんだし信用されなくても仕方がない。
それに3万メレと言えば、安い宿なら5日は泊まれる金額だ。たった数時間の睡眠を確保するために出す金額としては十分なんじゃないかな?
「いいよ。ただし前払いね」
「成功報酬じゃないのか?」
ディエゴが当然のように後払いを要求するので、どういう話になっているのかとイザックに視線で問うと、イザックは軽く肩を竦めて馬車を指さした。
……えっと、依頼は受けずに移動しようってことかな?
「話をする時間がもったいないから、さっさと移動しましょ?」
ネフ村で後払いの治療費を踏み倒されかけた経験があったので、今回は❝後払い❞の選択肢はない。
イザックに視線を送って馬車へと歩き始めようとすると、ディエゴがため息を吐いて小銀貨を取り出した。
「わかった! 先払いでいいから、きっちりと血のしみ込んだ土の処理をしてくれ! 乗客たちを早く休ませてやりたいんだ」
私たちが話している間に馬車から降りてきた乗客の視線が気になったのか、ディエコは前払いを了承した。
イザックが受け取ってくれるのを目の端で確認して、私は血液のしみ込んだ土の上へ手をかざす。
「【クリーン・ダブル】」
【ドライ】でも良いかな?と迷ったけど、【クリーン】を使うことにした。 土が乾いても血液の成分が残ったら意味がないもんね。
「「「おおっ!」」」
月明かりの下でディエゴや乗客たちが目を凝らす中、見る間に土は周りの土と同じ色になって、むせ返るような血の臭いも薄まった。
「これなら、多分……」
ディエゴの指示で土を掘って確認していたクルトが嬉しそうに呟く。
「ああ、これならこのままこの場所で野営しても問題はなさそうだ!」
声を上げたディエゴの言葉で、乗客たちにも安心したような空気が広がった。 やっぱり今からの移動は気乗りしなかったらしい。
「俺たちは夜番の準備を始めるから、今のうちに今夜の分の薪を出してくれ」
それぞれが寝床の準備を始める中、イザックがディエゴに声をかけると、ディエゴではなくクルトがアイテムボックスを開いた。
「これくらいで足りるか?」
「ああ、大丈夫だろう。 物資の保管はお前が担当か?」
「俺のアイテムボックスの方が容量が大きいんだ」
クルトが少し得意そうに言うのが微笑ましい。 どんな形でもお父さんの役に立てるのは嬉しいよね!
イザックが薪を組んで焚き火を用意している間に、私はかまどの準備を始める。
とりあえず2基出したけど、今から調理を始めるとこっちをずっと見ているペーター君の寝つきが悪くなるかもしれないから、少し時間を空けることにする。 薪が勿体ないから少し減らしておこう。
周りを見回すと、最初に聞いていた通りに乗客だけが馬車に残って、御者親子と護衛の2人は外に簡単なテントを張っている。
思っていたよりも焚き火の近くにテントを張っているので、かまどの位置を少し離して設置し直す。 調理中の音と香りはハクに頼んで向こうには届かないようにしてもらおう。
今夜の段取りを考えていると、少しずつ周りが静かになってきた。 みんなの眠る用意が整ったようだ。
「では、イザックさんとアリスさんは朝までよろしく頼むな」
念押しするように声をかけてきたディエゴがテントに入るのを見届けたら、さあ、調理開始だ!
今夜は新作は考えずに、今あるストックの少なくなっているものを補充することにする。
だから、味見の必要はないんだよ?
ハク、ライム。そしてイザックも! そんな期待したような目で見るのはやめようね?
ありがとうございました!




