モレーノ邸 2
「【クリーン】魔法の後にお風呂に入るなんて、無駄っていうか贅沢っていうか…」
脱衣室に置いてあった椅子に座ってカモミールティーを飲んでいるとマルタが呆れたように呟いた。
マルタは呆れたように言うけど、お風呂に求めるものが“リラックス”な場合、気持ちのいいお湯を保つ為に前もって体を清潔にしておくのは当然だと思う。
「それに、わざわざこんな所でお茶を飲むなんて、お貴族様の習慣って変なの!」
先に飲み終わったマルタが勢いよく浴槽に沈んだ。
「マルタ、浴槽に入る前にかけ湯をした方がいいよ?」
「クリーンを掛けたんだから、体はキレイよ」
どこまで清潔にしたら気がすむの?とでも言うようにマルタが苦笑するけどそうじゃない。
「<冒険者>は体が資本でしょ? 突然死の危険があるような入浴は避けるべき。 若くて体力があるからって過信してちゃダメ!」
「突然死?」
「うん。今はまだ温かい季節だけど、血管…、頭や心臓への負担を軽く見ちゃダメだよ? 寒くなったらなおさら、ね?」
お風呂が大好きな日本人にとっては当たり前の習慣だけど、ここには無いのかな? マルタに見てもらうために、ことさらに丁寧にかけ湯をしてから浴槽に入る。
ハクとライムは初めてだろうに“これが当然”といった風にお湯をかけられてくれるから助かるなぁ♪
「ん~っ! 気持ちいぃ~~」
「んにゃ~……」
「ぷきゅぅぅ……」
ここに来てから始めてのお風呂は、魂が抜けてしまいそうなほど心地いい。
大人が一度に5人は入れそうなほどに広いモレーノ邸の浴槽と浴室は、私がクリーンを掛ける必要がないほどにピカピカ磨き上げられていて、この家の使用人のレベルの高さを教えてくれた。お陰で気分の良さが5割り増しだ。
気持ちのいいお湯の中をハクが楽しそうに猫掻きで縦横無尽に泳ぎ、ライムが気持ち良さそうにぷかぷかと浮き輪のように浮いているのを眺めていると、心身共に癒されていくのをしみじみと感じる。
「アリス、さっきの話……」
「ん?」
「かけ湯をするとお風呂で突然死ぬことがなくなるの?」
従魔たちが可愛い姿を見せているのにマルタが静かだなぁと思っていたら、ずっと考え込んでいたらしい。
「大型の魔物討伐に成功して意気揚々と帰ってきた冒険者が、その日の夜に公衆浴場で死んでしまったことがあるわ。アリスの言うとおりの寒い季節だった。 知らないうちに何かの毒が回っていたんだろうって言われてたんだけど……」
「…現場を見ていないから何とも言えない。 かけ湯をしたらお風呂では絶対に死なないって事でもないしね。 でも、リスクはグンと減るよ」
「かけ湯だけで?」
「かけ湯と入浴前の水分補給だけで」
マルタはお湯の中で膝を抱えながら「さっきのお茶は貴族の習慣ってだけじゃなかったの」と呟いて目を閉じた。
納得したのか何かを思い出しているのかはわからないけど、今はそっとしておこう。
浴槽の縁に頭を預けてのんびりと従魔たちを眺めていると、浴室の隅で控えていた女性たちの困惑した雰囲気が伝わってきた。
何気なく見てみると、思いつめたような顔をしている1人の女性を他の3人が視線だけで窘めているようだ。
「どうしたの?」
「お嬢さまのお気を煩わせることではございません。 申し訳ございませんでした」
気になって聞いてみたけど、女性たちは一斉に姿勢を正して視線を伏せてしまう。
「言いたくないことなら言わなくてもいいんだけど。 でも、モレーノさまのお屋敷の使用人が客の前で表情を変えるなんて、ただ事じゃなさそう。
私から向かって右端のあなた、何か言いたいことがあるんじゃない?」
視線は伏せたままだけど、唇を噛み、手を握り締めて、私に意識が向いていることはバレバレだ。
「今聞いていた話を、誰かに話したいんでしょ?」
「っ!!」
私の横に移動してきたマルタの言葉に、女性がビクッ!と身を震わせる。
「申し訳ございません! この者は優秀なのですがメイドに上がって日が浅く、まだ心構えができておりませんでした。どうかお許しくださいませ!」
女性たちのリーダー格の人が謝ってくれるけど、許す許さないというような大層な話じゃない。
「そうなの? 別に怒ったりしないから事情を話してみて?」
優しく言ったつもりだったけど効果はなく、女性はますます強く手を握り締めて黙ったままだ。でも、マルタが、
「アリスは本当にそんなことじゃ怒らないし、モレーノさまに言いつけたりもしないわ。 でも、この後はモレーノさまと一緒にいるだろうから、言いたいことがあるなら今しかチャンスはないわよ」
と言うと、意を決したように顔を上げた。
他の3人も止めようとしたのは一瞬だけで、諦めたように彼女を見守っている。
「じ、実は…………」
彼女のおじいさんがお風呂の好きな人で、2日に1度は公衆浴場に通っているらしい。 でも、数年前の冬の冷え込む日に浴場で倒れたおじいさんは、命は取り留めたものの手足に軽い麻痺が残ってしまった。
お風呂そのものが原因だとは誰も思わないので、おじいさんは今でも3日に1度は公衆浴場に通っているらしい。 かけ湯も水分補給もしていないと思うので、この話を手紙に書いておじいさんに送ってやりたい、と。
マルタだけじゃなく他のメイドたちにも聞いてみたけど、この国にはかけ湯の習慣があまりないらしく、よほど汚れている時以外はそのまま浴槽に入ってしまうそうだ。
突然死のリスクももちろんだけど、衛生的にも好ましくない環境だな……。
「この話はモレーノ裁判官に聞いてもらおう」
私が呟くのを聞いたメイドたちは一斉に顔色を変える。
「そ、そんな! お許しください、お嬢さま! どうかお許しを……!」
事情を話してくれたメイドが涙を浮かべて懇願するので、慌てて説明をする。
「待って! 落ち着いてよく聞いて?
今の話はこの国ではあまり知られていないんでしょう? でも、みんなが知っておいた方がいい情報だと思うから、モレーノ裁判官に広めてもらおうと思うの。 あなたのおじいさんはモレーノ裁判官が公爵だった時の領地に住んでいるんでしょ?」
さっきそう聞いたけど改めて聞きなおすと、メイドさんはこっくりと頷いた。
「あなたが手紙で知らせるのと同時にモレーノ裁判官に流布してもらった方が、おじいさまが情報を信じてくれる確率が上がると思わない? 早く広めるにはモレーノ裁判官…、その土地の領主にお願いした方が確実でしょ?
あなたの名前は出さないから、安心してね!」
“名前は出さない”を強調して笑いかけると、やっと安心したのかメイドさんもかすかに笑い返してくれた。
ふぅ、やれやれ。 これで落ち着いてお風呂を楽しめそうかな。
そばで浮いていたライムを引き寄せて顎を乗せると、私はゆっくりと目を閉じた。
ありがとうございました!




