片目の化け物、生きた太陽に踏まれる
曇天だった。割れた窓硝子越しに外を覗いて、その生き物らしい物体は体を震わせた。喜んでいるらしい。体と言ってもはた目から見ると黒い毛玉にしか見えない。大きさは人の頭ほどであり、全体を縮れた黒い毛が覆っている。正面から見れば黒く大きな右目だけがあり、生物の顔であればあるはずの鼻や口、まゆ毛や左目などはなく、ただ大きな右目だけがあるその毛玉は、器用に体を上下に揺らして跳ね上がると、薄暗い部屋の中を飛び回った。
毛玉は強い光が苦手だった。目が大きいかららしい。ゆえに普段は夜活動しているが、曇りの日は朝からでも動けた。
毛玉は蝶番が壊れて今にも外れてしまいそうな扉を飛び越え部屋を出ると、螺旋階段をぽんぽん飛んで下り、一階まで降りると外へ出た。
季節は冬である。中庭に生えていた草は枯れ、噴水が見えていた。もちろん今は水は出ていないし、溜まっているのは綺麗な水ではなく濁った雨水である。それでも毛玉はここが好きだった。館と同じ白大理石で造られた池の中央に噴水口があるが、毛玉は白大理石の縁に飛び乗り、まるで猫の様に体を伸ばした。伸びると今度は虫のように蠕動運動で白大理石の上を這いずり始めた。時折震えるのは楽しいからだ。
毛玉はひっくり返ると大きな右目で空を見上げた。灰色の空が綺麗だった。いつも曇っていればいいのにと思う。
湿気で壁紙が剥がれ、敷かれていた絨毯は色を無くし、飾られている絵にはカビが生えた埃だらけの館の中も居心地はいいが、こうして外で風に吹かれながら空を見上げている時が、毛玉には至福だった。
実は毛玉には右目以外に小さい耳がある。ちゃんと二つあり、その耳は風の音や鳥の声、館に住みついている小動物のたてる音が聞こえていたが、遠くから近づいてくる馬の足音を捕えた。
毛玉は起き上がり体を震わせた。久しぶりに『人間』が館に来るようだった。毛玉は人間が好きだった。たいてい人間は、毛玉を見ると声を上げて逃げていく。その様子が滑稽で、毛玉は楽しかった。
今日はどんな人間だろう、何人いるだろう、男だろうか女だろうか、飛びかかってやろうか、目の前で這いずってやろうか、毛玉は目を細めて企む。
そうこうしているうちに、馬の足音はだいぶ近づき、跳ね橋の前まで来たようだった。毛玉は飛び跳ねて館内に戻り、二階の窓から端を見下ろした。
馬は三頭いた。その馬上にそれぞれ人影がある。皆たぶん男だろうが、フード付きのローブを羽織っており顔は見えない。
男たちは馬を下り、朽ちて落ちそうな跳ね橋を歩いて渡ると、躊躇なく館内に入ってこようとしていた。毛玉は慌てた。今までの来訪者はいずれも館内への進入を躊躇い、跳ね橋の上でうろつき回っていたが、今日の人間は違うようだ。
毛玉が部屋を出て階段を降りようとした時には、既に男たちは館内に入っていた。大きな二枚扉の前に立つ男たちの姿に毛玉は驚き、思わず階段を踏み外してゴロゴロと音を立てて転がり落ちてしまった。
「なんだっ」
声を上げたのは一番背の高い男だった。毛玉の形状上、転がり落ちてもすぐには止まれず、毛玉はその男の足元まで転がってしまった。
「なんだ、コイツは!?」
男の声が上から聞こえる。毛玉はゆっくり体を起こし、大きな右目で男を見上げた。男の目は青かった。その目が毛玉の姿を映した瞬間、
「!」
毛玉は上からの圧力で、床に押しつぶされた。男の足で踏まれたのだ。毛玉には口がない。声は出ない。体を動かし男の足から逃れようとするが男の足はまったく動かない。
「虫か? いや、動物か? 猫か?」
男の問いに低い声で答えたのは、他の男だった。
「虫や動物なら踏まれれば鳴くでしょう。もしやこの館に巣食う化け物では?」
「コイツが化け物?」
男の足が毛玉から離れた。毛玉は急いで逃げようとしたが、今度はむんずと上から掴み上げられた。男の青い目が毛玉を睨み付ける。
「これは目か? それも右目だけだ。左目はないようだ」
「口も鼻もありませんね。それにこの毛………まるで人間の髪のようです」
「大きさも人の頭ぐらいだな。確かに猫や犬ではないようだ。しかし化け物と言うには弱そうだぞ」
「化け物だからといって強いとは限りません」
「弱くて汚い化け物か。なんだ、つまらん。もっと恐ろしい物を期待していたのに」
毛玉は自分を怖がりもしない青い目の男が恐ろしく、体を動かしてどうにか逃れようとするが、その行動が男に気に障ったらしく、男は毛玉を掴んでいる手に力を込め、
「こいつ、連れて帰るぞ」
「!」
男の提案に驚いたのは毛玉自身だった。館の外、跳ね橋の向こうへ連れて行かれる恐怖に毛玉は全身の力を込めて男の手を振り払った。男の手が離れ床に落ちると、這いずって館の奥へ逃げようとしたが、
「逃げるなっ」
再度上から男の足で踏みつぶされた。痛みを感じる体ではないが、踏まれたり掴まれたりはされたくない。踏まれながらも逃げようとすると、男は苛立った様子で、
「逃げたら斬り殺すぞ」
帯刀していた剣を抜き、毛玉の目の先に突きつけた。毛玉は剣が嫌いだった。しかし剣で斬られても刺されても死なない体である。毛玉は構わずに逃げようと体をよじった。男は躊躇いもせず剣を毛玉に突き刺した。だが血は流れない。男は、まるで水を刺しているような手ごたえのなさに、毛玉から剣を抜いた。その様子に声の低い男が、
「剣を刺しても死なないとは、やはり化け物のようですね」
「…………そうだな」
男は毛玉を再び掴み上げると、
「おい化け物。お前はここに住んでいるのか?」
青い目で問われ、毛玉は大きな右目を瞬きした。
「それが返事か?」
もう一度瞬きする。
「言葉は分かるようだな」
瞬きで返答する。
「お前はオスか?」
毛玉は体を左右に振った。
「メスか?」
瞬きをして、毛玉は自分で驚いた。毛玉の体なのに自分に性別があり、その性別を認識していた事に今気づいたのだ。
「メスなら…………そうだ」
男は毛玉を自分の腕の中に抱え込むと、
「おい、こいつを俺の婚約者にしよう」
男の提案に、声の低い男が驚いた。毛玉も驚いた。驚いている周囲に対し、男は、
「こいつを婚約者にすれば、父上も兄上たちも妻を娶れとうるさく言わなくなるぞ」
「お、お待ちください。それはさすがに貴方様でも許されませんよ」
「父上たちはどこの娘でもいいと言っていただろう? 俺はこいつでいい」
「それは娘ではありません」
「メスだ」
「人間ではないでしょう」
「言葉を理解し、知能はあるようだ」
「化け物ですよ」
「だからこそ面白い。このシャノーにふさわしい」
男は毛玉を両手で自身の頭上に抱え上げると、青い目で毛玉を見上げた。その時男のフードが脱げ、毛玉の大きな右目にキラキラとした光が入ってきた。
男の髪は見事な金髪だった。肩につく長さのその髪が偶然、扉の隙間から差し込んできた太陽の光を受け、毛玉はその輝きに目を瞑った。強い光は嫌いだった。いつの間にか外は晴れていたらしい。
金髪碧眼の男は、抱え上げた毛玉がゆっくり目を開けるのを待ち、口元に笑みを浮かべ、
「俺の名はシャノー。このアルグランド国の第三王子だ。喜べ、化け物。お前は俺の婚約者だ」
毛玉はシャノーの言っている意味が理解できず、大きな右目をさらに大きくしたが、眩しさにすぐさま目を閉じた。それをシャノーは、
「わかったようだな。よし、行くぞ」
毛玉は慌ててシャノーの誤解を解こうと体を動かすが、シャノーの手は毛玉から離れない。そのまま門の外へ連れ出され、太陽の光に大きな右目をぎゅっと閉じる。目を閉じると体の動きも止まってしまう。シャノーは抵抗しない毛玉に機嫌を良くし、毛玉を片腕で抱え馬に乗ると、
「さあ、王都に戻るぞ」
シャノーの腕の中で毛玉が恐る恐る目を開けると、シャノーは既に馬を走らせていた。体を伸ばし、シャノーの背後を覗き見れば、毛玉は自分が住んでいた館がどんどんと遠ざかって行くのが見えた。
毛玉は、急減に襲ってきた不安に、ただただ目を開く事しかできなった。