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片翼の迷路  作者: サカエ
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 「……マヨール」

 呼びかけたものの、僕の本体の上に乗っかったマヨールは、起き上がろうとしなかった。

 身じろぎはしたから、魂が戻れなかったわけではないはずだ。

 固い床板の上にふたり重なって横たわった状態で、僕の顔の上には彼女の白金の髪がベールのようにかかっていた。髪のベール越しに見えるのは紫の空ではなく、片隅に蜘蛛の巣が張った味気ない天井だ。

「マヨール。大丈夫か?」

 再度呼びかける。

 彼女はようやく僕の胸の上から頭を上げた。

 髪がするすると滑るように僕の顔面からどく。そのまま起き上がるのかと思ったら、彼女は僕の両肩を掴んで床に押し付け、僕の顔の真上から、至近距離で僕と目を合わせた。

「痛い! 力抜いてくれマヨール。君は力天だろ。骨が折れる!」

 彼女の薄青い瞳からは強い意志の光が放たれていた。

 何かが彼女に、何らかの決心をさせたらしかった。

 ふいに彼女の柔らかな唇が僕の唇を塞ぐ。

「……!」

 こんな瞬間を待っていたはずなのに、こんなはずじゃなかったという気持ちだった。

 こんな瞬間を期待してマヨールを誘ったはずなのに、砂を噛むような気分になった。

 僕はマヨールが欲しかったはずなのに、この冷えた感情はどうしたことだろう?

 僕と彼女の間に、温度を通さない膜があるようだった。

 ――彼女は、何かに引きずられている。そう感じたから。

 僕がまるで反応しないので、マヨールは僕から唇を離した。

 再び目が合う。

「なんのつもり?」

「私、両翼になりたいの。……もっと価値ある存在になりたいの」

 薄く笑って彼女は言った。

「頼むから、手の力抜いて。本当に折れる……。君が画策してる両翼のなり方を教えて」

「両翼の子供を産んで、殺して宿る」

「……そんなところだろうと思った。僕との子供だと、両翼の可能性は四分の一だよ」

「賭けるわ。力識天って、悪くない」

「協力は断るって言ったら?」

「あなたが私の腕から逃れられるとは思えないけど」

「僕も逃げられるとは思えない……。この場はともかく、先の協力を断るって言ったら? 子供を殺すのも君をその骸に宿すのも、僕はごめんだって言ったら? そもそも、一度で子供ができるとは限らな……」

 もう一度、唇を塞がれる。短い口づけを何度か交わしながら、彼女にしては計画が早急でひどく杜撰だと感じていた。

 だから……ひょっとしたらと、僕は思った。

 両翼になりたいというマヨールの目的。その道筋に、曲がり角が出現したんじゃないか?

 僕と今、こうしたいという欲望が生んだ曲がり角。

(……僕の願望だな)

 美声を手に入れて歌いたくなった程度の欲求でいいから、そうであって欲しいと思った。魔族の男の恋心が、まだマヨールに取り憑いているからでもよかった。

 僕は、死んだ女の身代わりでも構わない。

 ほんの少しでも、マヨールが両翼の子供を求める以上に、僕とこうすることを望んでくれるなら……。

 僕の心の冷たい膜が、少しずつ溶けていく。

 僕は片腕をマヨールの体に回した。もう片方の手でマヨールの長い髪をかきわけて表情を見た。

 彼女は固い顔をしていたけれど、その瞳はいつになく熱っぽかった。彼女の目に映る僕の表情が少しでも甘くあればいいと思い、僕は小さく微笑んだ。

 僕の想いは伝わっただろうか?

 僕を見るマヨールのまなざしがふと緩む。僕は白金の髪をなでていた手を頬にすべらせ、指先で彼女の輪郭をたどるように肌をなぞった。冷たい心の膜はとろけて甘い蜜に変わった。

 思い出したかのように胸が高鳴って……。

 そして僕は突然、ひどく悲しくなった。

 僕の四つ辻が……僕の曲がり角が、出現した。

 僕の新しい道が誕生した。

 識天の僕はどうしたらいいか、分からないのに知っていた。




 赤紫の薄暗い空に、雲が渦になって流れてゆく。

 死骸が累々と横たわる岩場。

 灰銀の髪の背の高い男が、死闘の跡を眺めている。

「また何か思い出したのか? この戦い、赤翼がだいぶ暴れていたと皆が言っている」

 ハヴォイグは長剣についた血糊を振り払いながら、白金の髪と赤い翼を持つ少女に歩み寄った。

 『赤翼』と呼ばれはしても、彼女の翼本来の色は白だった。白い翼が敵の返り血で赤く染まるから、赤翼と呼ばれるのだ。

 この通り名がつくまでは、単純に『堕天使』と呼ばれた。その呼び名には誤りがあると、白金の髪の少女は思っていた。

 自分は『天界』から堕ちてきたわけではない。物心ついたときにはもう、ハヴォイグの群れにいた。血筋がどうあれ、自分は魔族だと思って生きて来た。

 けれど翼を発現出来るようになった頃から、経験していない記憶に悩まされるようになった。『魔界』から出たことはないはずなのに、『中層』と呼ばれる場所の光景が、細々と心に浮かぶのだ。『中層』――それは両翼天使でもなければ魔族でもない、弱々しい者たちが暮らす場所。

 枯葉の散った石畳の道。せせこましく立ち並ぶ石造りの建物。機能的だが美しくない仕立の服を着て、同じ机がぎっしりと並ぶ部屋の中、紙束を手にせわしなく歩く。空はぼんやりと明るく、白い雲は緩やかに流れ、腹を裂かれる心配も首を切り落とされる心配もなかったが、そこにいる自分は何者でもなかった気がする。

 くすんだ石の街の部品のひとつ。それが私。

 この記憶は何なのかと、苛々と日々を過ごした。戦いがあると気が紛れた。

 ハヴォイグは『魔界』の実力者としてはまだ若く、彼の地位を狙う者はいくらでもいたから、戦いの切れ目がないのがありがたかった。

 ここはくすんだ石の街ではない。

 赤翼は眼前の光景を眺めた。自分が殺めた魔族の死骸がごろごろと横たわる岩場。

 愛するあなたに想いが届かないなら青空に溶けて消えてしまいたい――――

 ふとそんな歌が、声にならないほどの小声で、赤翼の口をついて出て来た。『中層』でよく知られていた恋歌だと、彼女は思い出した。旋律の記憶は胸の痛みに直結している。

 もう会うことのない、かつての恋人の記憶。

 赤翼は不思議そうに自分を見つめるハヴォイグを見つめ返し、救いを求めるような口調で言った。

「赤ん坊の首を絞めたわ。恋人と一緒に」

「赤ん坊はおまえだ。おまえのその体だ」

「……知ってる。もう大体、思い出したから。どうでもいいような細かい記憶が、思いもよらない時に新しく蘇るの。……くだらないことよ」

 サルティルという仕事仲間がいた。同じ頃に子供が出来た。サルティルが子供を産んだとき、お祝いに子供のための品をたくさん贈った。「ありがとう。でも、どういう風の吹きまわしかしら」と、彼女は可笑しそうに言った。私は贈り物なんかしない性格だったから……。サルティルは言った。あなたの子供が生まれたら、わたしもいっぱいお祝いしなきゃ、と。

 そんな自分たちの会話をヨシュが悲しげな目で見ていた。恋人との仲は、とっくに職場の皆の知るところとなっていた。結婚の祝宴はしないの?と、毎日のように訊かれた。ヨシュ以外の職員たちは、私たち二人を祝福してくれていたから……。

 サルティルのように家族で暮らす未来も、考えなくはなかった。子供のために日々の義務をこなし、家族とのふれあいに喜びを見出す暮らし。

 もし『両翼』が生まれていなければ……。生まれた子供が『片翼』か『翼なし』だったら……。そんな未来もあり得たかもしれない。

 赤翼は首を振る。

 両翼は生まれた。

 魂を追い出し、体を乗っ取った。

 魂を二度追い出し、体を乗っ取った。

 ――二度。

「ジュット」

 ハヴォイグが、誰も呼ばない赤翼の本当の名を呼ぶ。

「思い出せ。全部。中層の記憶も、上層の記憶も。恋人を裏切った記憶も、全て」

「なぜ?」

「俺が欲しかったのは『ジュット』だ。今のおまえは、ただの未熟な『力識天』に過ぎない」

「私はどんな男だったの?」

「魔界に向いた男だった」

「赤ん坊の首を絞めるとき、とても悲しかったわ。一度目のときも……二度目の、マヨールの魂を締め出すときも。『ジュット』は情に溺れて泣いてた。首を締めながら、愛してるマヨールって、うわごとみたいに呟いて」

「ほう」

「ばかみたい。泣くくらいだったら、そんなことしなければいいのに。そんな訳の分からない男が欲しいの? 私だったらいらないわ」

 目覚めきらない自分の魂に嫉妬を覚えるという、奇妙な感情。そんな自分に苛立ち、赤翼はハヴォイグに詰め寄った。

 まだ若く魅惑的な領主は、少女の顎に指先を添えて、上向かせた。

 ハヴォイグの深い瞳に間近から見つめられ、赤翼は息を飲む。

「そんな男だから、だ。目的のために情も何もかも切り捨てる分かりやすい識天使なら、天界にくれてやるさ。俺は識天使の優秀な頭脳が欲しかったわけじゃない」

「なら何が欲しかったって言うの。『ジュット』は他の識天使とどこが違うの?」

「上層にいる天使たちのどこが脆いか分かるか、赤翼? 目的に向かって一直線で、まるで濁りがないところだ。ジュットの魂の迷路を早く思い出せ、赤翼」

「魂の迷路……?」

「奴は自分で迷路を発生させて、そこを出る力で先に進む。目的は設けない。答えも求めない。達成もない。ただ、迷路の形をした終わりなき道を生み続ける……。魔界は、ジュットの心のような意味のない迷路で出来ている場所だ。ジュットは魔界に向いている」

 ハヴォイグの言うことは、若過ぎる赤翼にはよく分からなかった。

 ただ、一つだけはっきり感じたことがある。

 自分が完全に『ジュット』になったら、ハヴォイグは今よりもっと自分を見つめてくれる……。

 『ジュット』が目覚めきっていない今の自分はなんなのか、若い堕天使は考えなかった。

 自分が何者であるか考える代わりに、彼女はぼんやり思い出す。

 光を照り返す大道に、真っ白い石造りの建物が、ずらりと立ち並ぶ。空は異質なほどに青く、ただ影だけが色濃い。

 大道をゆく天使たちの両翼は白く。

 けれど背を振り返り眺めやる自分の翼は。

 返り血で、まだらに赤い。

 

 

 

【END】


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