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『魔界』には昼も夜もなく、いつも薄闇が立ち込めている。空は赤紫で、渦を巻くようにたなびく紫色の雲が、空の色に刻々と変化をつけていた。張り付けたような青一色の『至高界』の空に比べたら、ずいぶんと変化に富んだ空だ。
『中層』に住む者の中には、移り住むなら『上層』より『魔界』がいいと言う者が稀にいる。断片的に入る『魔界』の情報から、自分に向いているとおぼろげに感じるのだろう。味気ない『中層』に暮らす者にとっては、『魔界』も憧れになり得るのだ。
『扉』を抜けた先の岩場は魔族の戦闘が行われたばかりらしく、夥しい数の死骸が転がっていた。
戦闘があったのは数時間前だろう。死骸は生々しく血を流していて、まだ腐敗は進んでいなかった。
運がいいと僕は思った。
〈顔が半分潰れた女と話すのは平気?〉
僕はマヨールの魂に尋ねた。
〈魔界でなら平気な気がする〉と答えたので、僕は魔族の惨死体の中から『識属性』の強そうな女の死骸を選んで、魂を一時宿らせることにした。こうすれば死骸の感覚器官を借りて、触ったり嗅いだりすることが出来る。体感が豊かになるのだ。
最初にやったときは苦労したけれど、死骸に入り込むのはもう慣れた。
〈……慣れるのに時間がかかりそう〉
動き出した惨死体を見て、やはりマヨールは気味悪そうだった。
女魔族の死骸に宿った僕は、潰れた右眼を隠すように、長い前髪を整えた。
マヨールも死骸を吟味していた。
魔族同士の戦いで死を迎えた兵士たちの骸。『魔界』は『魔界』だけで完全に閉じている。閉じた環境の中での果てなき戦い。
なんのための戦いだろう。僕はいつも不思議に思う。
『魔界』でのし上がるための戦い?
『魔界』で頂点を極めたところで、弱肉強食のこの地では、地位はいずれ脅かされる。なのになぜ戦い続けるのだろう?
魔族は戦う生き物だから。答えにならないその答えは、天使が用意したものに過ぎない。理解不能だから、天使たちは魔族と断絶を決め込んだのだ。
〈たくさん死んでる。みんな新しい死体ね〉
マヨールは筋肉質な若い男魔族の死骸を見下ろしていた。
「ついさっきまで戦場だったんだろ」
僕が宿った女魔族の死骸からは、思いもよらない高く澄んだ美声が出た。
魂の声ではなく肉声だったから、マヨールはぎょっとしたらしかった。
僕はふざけて、『中層』でよく知られる恋唄の一節を口ずさんだ。「愛するあなたに想いが届かないなら青空に溶けて消えてしまいたい」とかいう、ありふれた歌。
「……気持ちいいな、この声」
〈そんなくだらない歌、歌わせられるとは思わなかったでしょうね、その魔族。いいなあ、私も体が欲しい。魂でいると、何を見ても現実味がなくて夢の中みたいだわ〉
マヨールはさっきから物欲しそうに筋肉質な死体を眺めている。
〈どうやったら入れるの? 魔族の死体に〉
「入り方も分からないのに、適した体は分かるところが君だね」
片翼のマヨールがひとつだけ持つ『天属性』は『力天性』だから、彼女は能力を発揮しやすい肉体を瞬時に嗅ぎつけたわけだ。
「その男に宿った君は、きっととても魅力的だよ」
〈あなたもいつもの神経質そうな顔より、その綺麗な女でいたほうがよさそうよ。まるで性格まで変わったみたい〉
僕は前髪を払って、潰れた右側の顔をわざと晒した。マヨールがぎょっとして後ずさるのを見て、けらけらと笑う。
僕はもう一度歌を口ずさんだ。本当にいい声だと思った。
いい声で歌うと気分が上がる。
「あの死体に宿らせてあげるから、少し足を伸ばしてハヴォイグのところへ行こう」
〈ハヴォイグって誰?〉
「魔界の貴族」
〈……知り合い、とか言わないわよね?〉
「知り合い」
〈ジュット〉
マヨールが「局長」とではなく、僕の名前を呼んだ。
〈前から思ってたことだけど、あなたって何者なの? その若さで局長として就任してきたことは、理解できるわ。あなた、識天として有能だもの〉
「ありがとう」
〈実は……あなたは至高界にいたことがあるって噂も聞いた。詳しい経緯は知らないけど……。でも、そういうことじゃないの。あなたの経歴の特殊性じゃなくて、あなた自身が変わってる〉
「そう?」
〈なんのために隠れて扉を編んだりするの? 魔界の有力者と関係を持つのは、なにか理由があってのこと? 違うでしょう? 目的の匂いがあまりしないのよ〉
「目的や利益へ向かう一本道には時々四つ辻があって、迷子になるよね。……ああ、すごくいい声。この声で言葉を紡ぐと、話す内容なんてどうでもよくなるね。この死体がもうすぐ腐敗してしまうなんて、とても残念だよ。ハヴォイグに頼んだら、魔術でどうにかなるかな?」
〈質問に答える気はないわけね〉
「答えてる。察してよ。答えようとすると、この素敵な声が邪魔するんだ。目的なんてないよ。魔界に来ようと思ったことはない。魔界に通じる扉が開いたのは単なる偶然さ。ハヴォイグは素敵な奴だよ。それだけさ。ああ、いい声だなあ」
〈体が変わると性格まで変わるの?〉
「そうかもしれない。歌ってもいい?」
〈魔界に歌いに来たの?〉
「歌いに来たんだ。今気付いた」
マヨールのあきれた声に、僕は上機嫌で答える。
〈ねえ、識天性っていうのは、知識を元に物事を論理的に理解し、筋道立てて的確に物事の処理を行うための能力じゃなかったの?〉
「違う。今君が言ったことなんて、努力次第で君でも得られる能力だよ。知らない道をどこで曲がればいいか、知らないのに知ってるのが識性。それ以前に、一本道に曲がり角を出現させるのが識性。曲がり角を曲がると新しい道がある」
〈意味がわからないわ〉
「わからなくていいよ。ああ、君が魔界で戦ってるところが見たいなあ。きっと美しいだろうね」
マヨールの魂が入った魔族の男は、脇腹が裂け左腕が肘からちぎれていたが、マヨールは健在なほうの腕で剣をふるって、襲ってくる動物型の魔物から僕が宿った女を守ってくれた。マヨールが宿る黒髪の男は、満身創痍でも美しかった。マヨールの剣捌きが美しいからだ。僕は惚れ惚れした。
襲ってきたのは紫と銀の縞柄の魔虎だった。毛皮の上からでは刃物の痛手を受けない魔獣だ。魔獣の赤い口腔内に、マヨールが剣先をずぶりと刺し入れた。血液がマヨールの宿る男の肘を伝う。跳びかかったところを串刺しにされた魔獣は、しばらくひゅうひゅう空気の漏れる声で唸りながら痙攣していたが、やがて震えは止み、静かになった。マヨールが剣先を地に向けると、魔獣は滑り落ちてどさりと音を立てた。
マヨールは綺麗に弧を描くように、剣を振って獣の血を払った。剣を振るう彼女の動きには、惹きつけられる華があった。
力天使は戦うとき、こんなにも美しいのに。
『中層』では、もう何百年も大きな争いが起きていない。片翼力天使の多くはその戦闘能力を抑え、身の丈に合わない仕事をして暮らしている。マヨールもそのひとりだ。歳若い彼女は、その境遇に満足する気持ちになれない様子だった。
彼女の瞳にいつもある焦りが、現状への不満を物語っていた。
かわいそうなマヨール。
彼女に『魔界』を見せることが出来てよかった。
「そんな大きな獣を片手で串刺しにできるとはね。すごいな」
少し離れて見ていた僕は、拾った小枝を空に突き出し、マヨールの剣捌きの真似をした。
マヨールはそんな僕を一瞥し、突然剣を投げつけてきた。僕がびっくりしたまま硬直していると、剣で地面に串刺しになった毒蛇が、僕の足元でぐねぐねとのたうち回っていた。反射的に蛇から逃げた僕は、小石に足をとられて転びそうになり、マヨールに支えられた。
僕が宿った女の細い腰を、マヨールが宿った男の逞しい腕が支える。
「ありがとう……。なんだか惚れそうだ」
「気味の悪いこと言わないで」
マヨールが低く響く声で答える。
「本当に惚れそう。君もいい声」
「死体に惚れられたくない」
「君だって死体じゃないか」
「死体だけど……。くやしいけど、この体は私の本体より優秀」
「きっと翼が出るよ。天界で言ったら両翼に相当する能力じゃないかな」
「翼……発現できるの? どうやって……?」
マヨールは、はっとして僕を見た。
「血液が背中に集まるように集中してみて。翼の出る場所がむず痒いような感覚になるから……それを増幅するように気を集めて。子蟲がたくさん集まって蠢くみたいな嫌な感じがするはずだよ。嫌で嫌でたまらなくなったら、内側から皮膚を突き破るように放出してみて」
勘のいいマヨールは僕の言うことを即座に体に反映させた。彼女が宿った男の死骸は、バサッと音を立てて見栄えのする大きな黒い翼を発現させた。
しかしそれは一瞬のことで、紫の薄闇に溶けゆくように翼は半透明に薄れ、やがて消えた。
「まあ、死体だからね」
「そんな……。残念だわ」
マヨールは失望した顔で右手に持った剣を見つめていた。死体の所有物らしいその剣は、激しい死闘があったことを示すように、ところどころ刃毀れしていた。
ハヴォイグの小さな居城は、水の枯れた暗い谷底にひっそりと建っている。
ハヴォイグと知り合ったのは、初めて魂になった僕が『魔界』をうろうろしていた時だ。魔力のありそうな悪魔だと思って遠巻きに眺めていたら、彼の配下に見つかった。捕まって、彼の前に引き出されたのだ。
ハヴォイグは好奇心に富んだ珍し物好きの魔族で、『魔界』の実力者としてはまだ若く、柔軟だった。どういうわけか僕は彼に気に入られて、それ以来居城の近くまで行くと、使い魔が気配を察して僕を迎えに来る。
僕が魔族や魔獣の死体を借りることはよくあるから、使い魔はいつも僕がどんな姿をしていても驚かないのだが、今回は違った。
「敵ノカラダ」
使い魔は美しい女魔族の姿を見て警戒を示した。そしてマヨールの宿った男を見ると、薄い翅をピンと張り、小さな体全体で威嚇してきた。
「ソイツ、敵」
「敵じゃないよ。僕の部下」
「敵ノカラダ」
使い魔はブゥゥゥンと翅音を響かせて、居城の方向へ飛んで行ってしまった。
敵の体? ではこの魔族の群れは、ハヴォイグ傘下の悪魔に屠られたということか。
この体を捨てるかと思案していると、ふと魔力の気配があった。
なじんだ気配だ。
無傷の左目で気配の方向を見ると、にぶく灰銀に光る髪を背に垂らした長身の魔族が、マントを翻して立っていた。鋭敏そうに引き締まった顔立ちの、若い男。
城主自らのお出ましだった。
「ハヴォイグ」
「そいつは少し、手強かった。俺が手を掛けて殺したんだが」
魔界の若い新興貴族は、満足げに目を細めてマヨールが宿る死骸を見た。
「紹介するよ。僕の部下のマヨール」
「よくその肉体を扱えるな」
「マヨールは優秀なんだ。本当は綺麗な女で、僕の自慢の部下さ」
マヨールが魔界言語を知らないのをいいことに、僕は調子に乗って彼女を褒めた。
魔界の空気はいつもの苛立ちから僕を解放して、上機嫌にしてくれる。紫の薄闇の中でなら、僕の心は宙に遊ぶ。僕は童心というものを味わうことなく育ったが、きっとこんな心持ちのことを言うのだろう。美しい声を授かったら、すぐに歌いたくなるような心持ちのことを。
「お前が宿っている女も手強かったぞ。呪印の使い手だったからな。そっちの男とは恋仲だったようだな」
「やっぱりね。どうりで惚れそうになるわけだ」
僕はマヨールに視線を送った。会話を理解出来ないマヨールが不機嫌な顔で黙っているから、ハヴォイグの話を冗談半分に通訳してやろうと思った。
けれどハヴォイグが話を続けたので、僕は口を開きそびれた。
「ジュット。魔界へ堕ちる気があるなら、損傷のない新しい骸を準備してやってもいい」
僕は驚いてハヴォイグを見た。
上り坂の若い実力者は、自信に満ちた笑いを冷たい美貌に浮かべ、女の骸の内側にいる僕の魂を見ていた。
「ジュット。俺の配下に下れ」
ハヴォイグが言うには、この美声の女を腐敗から救う手立てはないとのことだった。
しかし死んだ直後の骸だったら、別の魂が入り込めば腐敗はしないと言った。
つまり、ハヴォイグが僕に準備してもいいと言う「新しい骸」とは、死にたての死体のことだ。魔族が死にたてほやほやの死体をあちこち探し回って準備するとは考え難い。
(僕のために配下を一人殺してもいいってことか……)
なぜそこまで気に入られたのか分からない。自尊心をくすぐられる話ではあったが、僕は辞退することにした。僕にだって僅かばかりは、僕のために殺される配下を憐れむ気持ちはある。
それに経験上、魂は宿る体の残留思念のようなものの影響を受けることを知っている。長期に渡って他者に宿ったら、僕は僕でなくなる気がした。
僕らはハヴォイグの城を出た。
マヨールが何の話をしていたのか訊いてきたので、僕は「この体が腐るのを止める手立てはないみたいだ。死んだ直後の死体なら、魂が入り込めば大丈夫らしいけど」とだけ、彼女に話した。
彼女は他にも何かあるだろうと怪しんだようだった。でも僕は、血の匂いに誘われて襲いかかってくる黒い魔鳥を彼女が剣で斬り捨てる動作に見惚れていたから、彼女の疑問に無視を決め込んだ。
死骸を捨てて魂に戻るとき、少しばかりさみしい気がした。「歌う?」とマヨールは訊いたけれど、もうそんな気分じゃなかった。
僕は赤紫の空を見上げた。
黒い魔鳥はもう襲ってこなかった。僕はもっともっと、マヨールの剣捌きが見たかった。僕は女の死骸を乗っ取ったつもりでいたのに、女の死骸に心を乗っ取られたかもしれなかった。
なんだかとても、黒髪の男魔族が愛しかった。離れたくなかった。
――僕の無傷の片目が、涙で濡れていたせいかもしれない。マヨールは剣を捨てた後に僕を見て、一瞬、その右手を僕のほうへ伸ばしかけた。
止まっているはずの心臓がきゅっと縮んだような気がした。淀んでいるはずの血流が早くなったような気がした。
目の前の相手に抱きしめられたいと思う気持ちが、僕の魂から発したものか借り物の体から発したものか分からなかった。
たぶんマヨールも、宿った体が求めるものに戸惑ったのだろう。目を泳がせ、伸ばしかけた右手を引っ込め、後ろを向いた。
僕は唇を噛んだ。僕の失望も、僕のものか死体のものかよくわからなかった。ただただ、背を向けられたことがさみしかった。
誰のものかも分からない得体の知れないさみしさは、もう終わりにしたかった。
僕は呪文で『扉』を再度呼び出し、『中層』の僕の隠れ家に戻った。