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板張りの床は、所々ささくれ立っていた。窓から入り込む風が冷たくて、僕は窓を閉めるため席を立った。軋む床に靴音を響かせ、窓辺まで歩く。窓から見える樹木の葉は茶色く乾いていて、風に揺れて一枚、また一枚と枝から離れ、黒ずんだ石畳に散った。
色彩の乏しい初冬の景色。その中を白い外套を着込んだ女が、石畳の道を歩いてくる。彼女は窓辺の僕に気付くと、微笑むでもなく挨拶未満の僅かな合図を送った。
僕は軽く眉をあげて彼女の合図に応え、声には出さず心の中で呟いた。
おはよう。僕の愛するマヨール。
ジュット。至高界を見たことある?
書類を手にしたマヨールが、仕事の話をするかのようにそう訊いてきた。
僕は「そこから来た」とは答えず、インクで汚れた羽根ペンと書きかけの草案から顔を上げないまま、ただ「ああ」とだけ口にした。
『天界上層』を『至高界』と呼ぶのは、そこに憧れを持つ者に多い。
その憧れはどこから来るのだろう。
光を照り返す大道に、真っ白い石造りの建物が、ずらりと立ち並ぶその様だろうか。
『天界上層』の居丈高な街に住むのは、みな両翼と呼ばれる天使だ。白い翼を持つ天使たちは、光降る大道に濃い影を落としながら、ゆるやかに歩みゆく。建物は大きく白く、天使たちの翼も大きく白く、空は異質なほどに青く、ただ影だけが色濃い。それが『天界上層』、『至高界』の風景だ。
両翼の天使たちは、僕たちが暮らす世界に関するあらゆることを決定する。
両翼の天使たちが決定を下し、片翼の僕たちが決まりごとを実行に移す。
両翼と片翼のうち、実際に翼があるのは両翼だけだ。
僕たちは、片翼と呼ばれはしても、片方だけですら翼を発現出来ない。
インクで右手を青黒く染め、机と机の間を書きものを持って駆け回り、喧嘩腰の議論を交わし、時に疲弊し時に充実し、そして時に誰かに恋をして、相手を手に入れたいと夢想する。
僕は一呼吸おいて草案から顔を上げ、マヨールの薄青い瞳を見た。
彼女は瞳も髪も薄絹越しに見るような淡色で、肌も青空に浮かぶ雲のように白い。
でもその白さは、両翼の天使が内側から発する眩しい白さではなく、単純に黒いか白いかの白だ。そんな輝きのない片翼の彼女を抱き寄せたいと思う僕もまた、まぎれもなく片翼の者だと思い知る。
両翼は片翼の異性に執着なんかしない。両翼天使にとって翼を発現しない者など、下等生物のようなものだからだ。彼らの多くは両翼どうしですら恋をしない。能力の高い両翼天使を絶やさないためには、あてがわれた相手との間に子を成す方が、効率がいいからだ。
片翼の僕たちは、義務が入りこむ以前の段階で、誰かを求めてきりきりと胸を焦がす。
だけど僕とマヨールの場合、焦がしているのは僕の方だけだ。
ひどく屈辱的なことに。
マヨールの誘うような半開きの唇を自分の唇で塞ぎたいと考えることは、片翼の者にとっては美しい感情なのだそうだ。
どこが!
僕は腹立たしくて、眉間に縦皺を刻む。
僕の執務室は大部屋からは独立しているので、職務中でも無駄口を咎められることはない。もっとも、僕がこの局の責任者なのだから、僕に意見する者はいないけれど。
「任務で至高界に行くことがあるの?」
マヨールのくだらない質問はまだ続きそうだった。僕は羽ペンを置き、机上の書類が言わんとしている内容を示すように、指先で書類をトンと叩いた。
「上層どころか魔界に行かされる可能性が出てきた」
「魔界に?」
彼女は薄青い瞳を驚きに見開いた。
白い翼の天使がいる『上層』と、翼のない片翼と片翼ですらない者がいる『中層』が、『天界』というひとつの世界を成してはや数千年。その長い年月、『天界』は『魔界』と公的な行き交いを断っている。
『魔界』の者は独自の進化を遂げているから、長期の断絶の後に交流可能なのだろうかと、普通ならば不安を持つだろう。
僕はそんな不安を全く持たない。
優越感が腹の底から湧きあがってくる。僕は唇の端で笑った。普通なら「感じが悪い」と受け取られるたぐいの笑いだ。
マヨールは僕のこんな不遜な笑いに対して、不快感を示すことがない女だ。
それはたぶん、マヨールも僕の同類だからだろう。
周囲のすべてを見下し、自分の居場所はここではないと感じている。そしてそのことを仕事仲間に見抜かれ、「思いあがっている」と陰口を叩かれたところで、どうとも思わないからだろう。
彼女は思いあがるのも無理はないほど有能だと僕は思う。それに引き替え……。
(ここの奴らは上層の決定に、唯々諾々と従ってばかりだ)
生まれながらの片翼は無能なやつばかりだ。どいつもこいつも『魔界』に行きたがらないから、この部署まで出張要請が回って来た。局違いもいいところだ。みな余程『魔界』を避けて通りたいらしい。
僕は執務机を挟んでマヨールに向き直った。
「具体的な決定はまだ出ていないから、大掴みな話をしよう。両翼天使の偉い奴が、魔界の現状を詳細に調べたいらしい」
マヨールが何か言いかけるのを、僕は手のひらを向けて制し、先を続けた。
「しかし、上層だけでは人手が足りないらしい」
僕は椅子から立ち上がった。唐突な僕の動きに、マヨールは一歩後ろへ下がった。そんな彼女を鋭く見つめる。
「今夜は予定ある?」
「サルティルの結婚前夜祝いがあるじゃない」
「祝ってやりたいわけ? 君のことだからどうせ白けた顔で祝宴に出るんだろ。結婚前夜祝いなんか出ないほうがサルティルのためだよ」
マヨールは可笑しそうに肩をすくめた。二人きりの局長室でなければ、さすがにちょっとためらわれる会話だ。局員に慕われたいとは思わないけれど、不必要に嫌われるのも面倒だから。
「君は魔界に行ってみたい?」
「興味はあるわ」
「なら魔界を見せてやる。ついてこいよ」
僕は局長室の戸口へ向かった。マヨールが後に続く気配がなかったので、振り返る。
「何を驚いた顔して突っ立ってるんだ」
「……さすがだと思って」
僕は眉間の皺を深くする。
執務室を出ると、結婚するサルティルと仲の良い女性職員のヨシュが歩み寄ってきて、マヨールに「前夜祝いのことなんだけど……」と話しかけてきた。
「行けなくなった。局長と、仕事」
マヨールの返事に、ヨシュは衝撃を受けた表情になり、言葉を継げなくなった。
マヨールは勝ち誇ったような目をヨシュに向けると、おもむろに僕の腕をとり、先を急ぐように建物の出口へ向かった。
マヨールとヨシュは僕を競っている。けれど僕に認められたい点は大きくずれている。ヨシュは恋人として僕に選ばれるのを望んでいるのに、マヨールは僕に価値ある存在だと認められることを望んでいる。
わかっている。
マヨールにとって僕は、風変わりで興味深い上司であるに過ぎない。
ヨシュが僕を見るときに瞳に宿る熱が、マヨールの薄青い瞳に宿っているのを感じたことはない。
マヨールの瞳にあるのは、ある種の焦りだった。誰かに対する思慕のような、甘くせつない感情なんてなかった。
「片翼ですらない男と一緒になったって、せいぜい片翼が生まれるだけ……」
殺風景な板張りの廊下を歩きながら、マヨールがつぶやいた。曇った窓ガラス越しに朧な陽光が射し込み、亡霊のような影をつくる。
「君は両翼を産みたいの? マヨール」
「子供なんかいらないわ」
例えば、僕とマヨールのような片翼どうしが番いになったら。
生まれるのは片翼の子供、片翼の能力すらない子供――そしてもうひとつの可能性として、両翼の子供。
両翼の子供は赤ん坊のうちに『上層』へ迎え入れられ、『中層』に戻ることはない。
『上層』の両翼天使には『天属性』が二つある。母方からも父方からも『天属性』を受け継いで、二つ揃えば翼を持ち、秀でた能力と長い寿命を得る。
『天属性』には種類がある。僕は『上層』生まれの両親から『識属性』をひとつずつ受け継ぎ、『識々天』として両翼天使の世界に生を受けた。
しかし、僕の『識属性』のひとつは、劣化していた。
成長しても翼を発現することは叶わなかった。
調べたところ、僕の母方の血は不純元素が増えていて、天使として劣化したと断定された。母は両翼天使を名乗る資格なしとして『上層』を追われ、『中層』に落ちた。母が今どうなっているのかは僕の知るところではない。僕を産んだがために落ちぶれたわけだから、さぞ僕の出生を恨んでいることだろう。
僕は子供時代を『上層』で過ごした。
何もかも漂白されたように光り輝く『至高界』で。
白い石畳はなめらかに磨かれていて、中層の石畳のようにでこぼこもなく、窪みに溜まった泥もない。『上層』の者は皮の靴など履かず、すべらかな布の履物でやわやわと足を包む。気候が安定しているため防寒のための服は着ず、天使であることを示すためだけに裳裾の長い軽やかな絹衣を纏う。
僕が片翼となり『上層』を追われ、終わることのない雑事にまみれた『中層』に落ちて、泥で汚れた石畳の上を固い靴で這いずり回るようになっても、『至高界』は変わることなく、遥かな高みに存在している。
「魔界へはどうやって行くの? 仕事で行かされることになったから、行き方を知ってるの?」
建物を出て、吹き下ろす寒風に身を縮めながら、マヨールが僕に尋ねた。歩きづらそうな踵の高い靴を履いているが、並はずれた身体能力を持っている彼女の足取りは軽い。
マヨールはつまらない行政書類に関わるような者ではない。背中を丸めて机に向かうことほど彼女に向いていないことはない。彼女を僕の部署に配置した『上層』の行政官は、おそらく彼女のことをなにも分かっていないし、分かる気もない。
両翼天使にとって、翼のない下等な者の個性や適性など、わざわざ気にかけるようなことではないのだから。
「正規の行き方なんてしないさ」
「だって魔界へ抜ける『扉』は、中層にはないんでしょう?」
「この体ごと持って行こうとするならね。僕は『見せてやる』とは言ったけど、『連れて行く』とは言ってない」
マヨールの疑問を放置したまま、僕は目的の家を目指してくすんだ石造りの街を歩く。
もし、僕が劣化しないまま『上層』に留まっていたら。片翼や翼なき者たちの多くが『至高界』に持つ憧れ、それと同等の憧れを『魔界』へ向ける者がいるということに、気付いただろうか?
大勢の見上げるまなざしを頂点で浴び続けている者は、別の頂点を価値あるものとは認めない。僕だって両翼だったら、きっと認めなかった。
『上層』を頭脳だとしたら、『中層』はその手足だ。片翼たちは両翼たちの命ずるままに動く……動かないことには、この世界は立ち行かない……世界はそういう仕組みになっているから……両翼天使たちがそう言うから……。
そんなのは嘘だ。
「なあに。このあばら家」
マヨールはおそるおそる、僕が連れて行った町はずれの小さな家を見上げた。
迷路のような路地をくねくねと曲がるうちに、立ち並ぶ家の様子はどんどんみすぼらしくなっていった。そのどん詰まりに建つ陰気な家だ。
毛細血管の先に生まれた腫瘍のような、路地の奥に建つ一軒家。
「僕の隠れ家」
僕は上着のポケットから錆の浮いた鍵を取り出し、塗料の剥げた木製扉の鍵穴に差し込んだ。石畳の割れ目から生えていた雑草が、足元に茶色くしなびていた。
「なんのために隠れ家を持つのか知りたいものだわね」
「部下の女性職員をこっそり連れ込むため」
「堅物のあなたでもそういう冗談を言うのね」
つまらなそうにマヨールは言った。
彼女が警戒心を持たないのは、僕よりはるかに戦闘能力が高いからだ。
「堅物を気取ってるつもりはないんだけど」
「若いのに、前の局長よりとっつきづらいってみんな言ってるわ」
「ヨシュはとっついてきてくれてるよ」
「ヨシュの気持ち、気付いてるならつきあってあげればいいじゃない」
「じゃあ君が縁結びして」
「嫌よ。面倒くさい」
遊びをせがむ子供を突き放すみたいな言い方が可笑しかった。
ギイッと耳触りな音を立てて軋む扉を開くと、黴とほこりの匂いが鼻をついた。
「女の子を連れ込むための家だとしたら、失格よ」
真顔でマヨールが軽口を言う。
「じゃあ、どんな家なら合格か教えて」
「連れ込む相手によるわ」
「連れ込む相手は君」
「なら、このままでいいわ。ただし、説明が必要。この家はなんのための家?」
マヨールが僕の上着の袖を引き、自分の方を向くように促してきた。二階へ昇ろうとしていた僕は、彼女を振り返った。
「趣味のための家。誰だって上から与えられた仕事だけやって暮らしてるわけじゃないだろ。力天使の君はどこでどう持て余す力を発散してるのか知らないけど」
「識天使のあなたは、ここでどう持て余す力を発散してるの?」
「『識印』を編んで、魔界に魂を跳ばして発散してる」
「……それ、違反じゃないかしら。下手したら上層に対する反逆罪になるわよ」
「君に違反をバラしたことが僕の首を絞めないことを願うよ」
マヨールの言うとおり、僕は静かな反逆者だ。
勤務時間を終えた後、僕は毎夜毎夜、自分でもよくわからない欲望に引きずられて動いている。そうすることが自分にとって利になるのか不利になるのかも、わからないままに。
僕は『上層』の命令で動く組織の長であると同時に、反逆者でもある。僕の隠れ家には僕が『識印』を組んで編んだ『扉』がある。マヨールなんかを欲しがるくだらない体は通り抜け出来ない、魂だけが通れる扉。
『扉』の先は『魔界』に通じている。
『魔界』に行きたくて『扉』を編んだわけじゃない。魂だけの存在になって、体を出たかったのだ。片翼の重たい肉体を出たかったのだ。
体を出て、飛びたかった。翼があるのと同じように空に浮きたかった。体から一時的にでも離脱できればいいと思って、その目的で編んだ『識印』は、どういうわけだか『魔界』に通じてしまった。
通じてから思った。
ひょっとして僕は心の奥底で、『魔界』に行きたいと願ってたんじゃないか?
願望はいつも行為の後から発見される。
僕はマヨールに、もし怖気づいたなら帰ればいいと言った。『上層』にばれたら処分が下るとも言った。僕が無断で『扉』を編んだことを告げ口したければすればいいとも言った。
「馬鹿にしないで」
マヨールは白金の髪を揺すって憤った。
僕は彼女の怒った顔が好きだった。
僕が規則違反をしたことよりも、「帰ればいい」とか「告げ口すればいい」とか、突き放す言葉に怒る女だからこそ、僕は彼女が好きだった。
狭い階段を昇った先の、二階の粗末な部屋の床には、天界文字と魔界文字を重ねて組んだ文様がある。文字に手癖があると文様が『識印』の効力を発揮しないため、定規で直線的に書いた異様な書体だ。不気味さを狙って書いたつもりはないのに、『識印』はどう見ても禍々しかった。
さすがのマヨールも、夕刻の光に照らされた不気味な文様を見て、青ざめた顔をした。僕はマヨールの怯えなど無視し、彼女を引き寄せた。
力の強い『力天使』である彼女なら、頭脳ばかりで非力な『識天使』である僕の手など、簡単に振りほどけたはずだ。しかし彼女は僕が引く手に身を任せ、文様の中心にいる僕に抱き止められることに抗いはしなかった。
僕はマヨールのやわらかな体を腕の中に感じた。力いっぱい抱きしめたら崩れてしまいそうなこの肉体のどこに『力天性』がもたらす驚異的な力が隠れているのだろうかと、不思議に思った。けれど不思議を感じる以上に、僕は自分の震える指先と早鐘を打つ心臓を持て余し、狼狽していた。
マヨールを抱きしめた僕の心は、もう『魔界』などどうでもよくなっていた。けれど僕は義務をこなす役人のように、淡々と味気ない呪文を呟いた。
僕たちは共に『識印』で編んだ『扉』を抜けた。
魂になって『魔界』へ抜ける瞬間、文様の上に僕たちの体が重なり合って倒れているのが見えた。
なぜか笑いが込み上げてきた。