春のアミガサ三人娘
ばきっという音と共に、手の中の椀が砕けた。
「あ。やべ」
腕の中で砕けた椀を呆然と見下ろすのは、シャグマ・エスクレンタである。
髪は赤味を帯びた黒髪でワイルドに波打っており、どこか熊を思わせる。熊耳のアクセもちょこんと覗いているし。
瞳は真紅。その奥に宿る赤い輝きは、彼女──シャグマアミガサタケが毒キノコである証だ。
ツリ目で睫毛と眉毛が濃く、胸元には熊の足跡の刺青。熊をモチーフにした鋭い鉤爪の付いたグローブとブーツを愛用という、身体全体で熊を連想させるのが彼女であった。
腕力脚力共に極めて強く、全キノコの娘中でもトップクラスに数えられている。
その彼女が椀を持とうとすれば、それが砕けてしまうのも仕方ないというものであろう。
呆然と手の中を見下ろすシャグマを、彼女の前に座っていた女性が呆れた声を上げた。
「もう、シャグマったらまた壊したの?」
「仕方ねーだろ! この椀が脆すぎンのが悪いんだ!」
「あなたの馬鹿力にかかったら、大抵のものは脆くなっちゃうわよ」
肩を竦めて溜め息を吐くのは、シャグマの二人の姉貴分の一人であるモリーユ・コニカである。
きりっとした印象の長身の女性で、実はフランスの出身らしい。
暗褐色の髪を、複雑に編み上げながら上へ向けて立てている。だが、がちがちに固めているわけではないようで、彼女が首を動かす度にへにょんと歪に変形する。
しかし、当の本人はあまり気にならないらしい。
色の濃い粗めの生地をローブのようにその長身に纏っており、首周りにはファー、そして右腕にだけアームスリーブ。
ちなみに、靴は履かない裸足主義者とは本人の談。更には下着も着けない主義らしいが、こちらは確かめた者は誰もいない。
コニカは目の前に並べられた料理から、銀杏の欠片を器用に箸で摘み上げて口に放り込む。
「あー、銀杏美味しい」
コニカは幸せそうに目を細め、口の中の銀杏を咀嚼して嚥下する。
「ほら、きちんと力加減を調節すれば、こうしてお箸でだって料理を摘めるのよ?」
「ふんっ!! そんなまどろっこしいこと、やってらンねーってのっ!!」
シャグマは手近な皿を取り上げると、その上に乗っていた料理をざらざらと一気に口の中に放り込む。
「こっちの方が手っ取り早え」
「はぁ……ホント、困った娘ねぇ」
再び肩を竦めるコニカ。だが、その顔に浮かんでいるのは紛れもない慈愛。行動や仕草がワイルド過ぎるシャグマだが、コニカから見れば可愛い妹分には違いないのだ。
そんなコニカとシャグマのやり取りを、この場にいる最後の一人は微笑みと共に見つめていた。
モリーユ・エスクレンタ。それが彼女の名前だ。
複雑に絡み合い、網目状になった黄土色の髪。瞳の色は桜色で、その奥には毒キノコ特有の赤い光。
左右非対称の白のドレスを愛用し、足元はコニカと同じ素足派。なぜか、左の肩と足を露出させていることが多い。
そして、彼女もまたコニカと同じく出身はフランス。同郷のコニカとは姉妹のように仲がいいが、アームスリーブだけは彼女とは逆の左腕に装着。
モリーユとコニカ、そしてシャグマのこの三人を、誰が決めたのか『春のアミガサ三人娘』と呼ぶ。
アミガサタケのモリーユ、トガリアミガサタケのコニカ、そしてシャグマアミガサタケのシャグマ。春の活動期になると、こうして一緒に行動することが多い三人だった。
ちなみに、三種とも毒キノコではあるが調理法が確立されていて食用として利用され、トガリアミガサタケはヨーロッパではメジャーな食菌である。
モリーユは二人の仲間たちから目を離すと、そのまま視線を上へと向けた。
彼女の視界一杯に淡いピンクが拡がっている。
時は春。桜の季節。今、彼女たちは満開の桜の花の下で、毎年恒例の花見をしている真っ最中だった。
モリーユは好物の桜餅を頬張りながら、自身の頬を擽る風に意識を集中させた。
寒くて辛い冬を乗り越え、無事に春を迎えることができた生命たちが、早速賑やかに騒ぎ出している。
木々は花や葉を茂らせ、野草は新たな芽を芽吹かせる。鳥たちは煩く囀り、ミツバチが花の蜜を求めてあちこちを飛び交う。
「……今年も春を迎えることができたのね」
彼女は毎年春になると目覚め、活動期に入る。そして、夏を待たずに再び休眠期に入るのだ。
一年の内で春の間だけが活動期である彼女は、春以外の季節を知らない。だが、命の溢れたこの季節がモリーユは大好きだった。
特に、彼女が気に入っているのは桜の花。こうして、桜が咲く時期は必ず仲間たちと共に花見をするのが彼女のルールである。
「なあ、モリーユ」
不意に名前を呼ばれ、モリーユは視線を桜の花から外した。
「なに、シャグマ?」
「こうしていつもの三人で花見も悪くはないけどよ? たまには他のメンツも誘わね?」
「他のメンツ?」
「そうそう。何も春に活動しているキノコの娘はアタシたちだけじゃないだろ?」
確かにシャグマの言う通り、春に活動期に入るキノコの娘は数は多くはないが存在する。そして、そんなキノコの娘たちとは、活動期が同じということから少なからず交流がある。
「あら、いいわね、それ。椿ちゃんとか木蓮ちゃん、後は……」
シャグマの提案に、コニカも乗り気のようだ。
「キツネっ娘の双子とかどうよ? あいつらも今が活動期だろ?」
「あのね、シャグマ。キツネっ娘の椀ちゃんと槍ちゃんは、双子でも姉妹でもなく、親戚だって何回も説明したでしょう?」
「あぁ? そうだっけか?」
モリーユがシャグマの間違いを指摘するが、当のシャグマは気にした風もなく鉤爪付きの熊グローブで、がりがりと自分の頭を掻いた。
「何だっていいじゃねえか。どうせ花見をするなら、大勢でやった方が楽しいってもンだ」
「そうね。私の方から声をかけてみるわ」
「頼んだぜ、モリーユ」
シャグマの言葉に頷くと、モリーユはゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ、早速椿ちゃんたちを誘ってくるわ。椿ちゃんはツバキの木の近くにいるだろうし、木蓮ちゃんはモクレンの木、キツネっ娘ちゃんたちはクワの木の近くにいるでしょ」
「それは間違いないと思うけど、誘いに行くのなら気をつけてね?」
立ち上がったモリーユに、コニカが注意を促す。
「ほら、あなたって変な癖があるじゃない? 私、知っているのよ? あなたが時々気に入った余所様の家の庭に入り込んで、そのまましばらく居座ることがあるでしょ」
何年か前のことだ。コニカが数日に渡ってモリーユの姿を見ない日が続いたことがあった。
もしかして、何かの事故にでも巻き込まれたのではないかと思い、妹分のシャグマとあちこちを探し回った。
彼女たちも生き物である以上、外敵は存在する。毒を持つアミガサタケを食べる動物はまずいないが、それでも間違って襲われるという可能性はゼロではない。
心配してあちこちを探した挙句、とある民家の庭で日光浴をしながらにこにこと桜を眺めている彼女を発見した時は、怒りを通り越して呆れ果てたものだ。
「う、うぅ……それは……その……」
自分の変な癖を指摘されて、モリーユは赤面して視線を泳がせた。
「椿ちゃんたちを誘いに行くのなら、寄り道は絶対にしないこと。いいわね?」
「何なら、アタシが一緒について行ってやろうか?」
姉貴分と妹分からからかい混じりの言葉を投げかけられ、モリーユは更に顔を赤くさせる。
「わ、分かりました! そ、それに一人で大丈夫です!」
赤い顔を隠すように、モリーユはつんと顔を逸らせる。そして、そのまま足早にその場を立ち去った。
彼女の背中が見えなくなるまで見送っていたコニカとシャグマは、互いに顔を見合わせるとくすくすと笑い合った。