ベニテングタケ
シラフィーと並んで腰を下ろしていたムスカリアは、何やら視線を感じてふと、樹上を見上げた。
木の葉の上の乾ききらぬ雨露に、太陽の光が反射してきらきらと輝いている。
山の中は生命に溢れており、今の季節が最も数多くの生き物たちが、生き生きと命を謳歌している季節の一つだろう。
空はどこまでも突き抜けるように青く、木々の緑は一層鮮やかに。
誰もが思わず微笑みを零ぼしてしまうような、穏やかな風景の中にそれはいた。
薄茶色の毛皮と、大きくてふさふさした尻尾を持つ、彼女たちの身長とそれほど違わないその生き物。
それは樹の枝の上から、じーっとシラフィーとムスカリアを見下ろしている。
「あー、リスさんだぁ」
シラフィーもその生き物に気づき、にぱっと笑うとゆらゆらとその生き物に向かって手を振った。
そう。シラフィーが今言ったように、その生き物はリスだった。
熱帯雨林から半乾燥の砂漠、北極圏に至るまで、地球上のほとんど全ての環境に生息する生物。それがリスである。
今、二人をじっと見下ろしているリスは、日本本土の至る所に棲息するニホンリスだろう。
リスは大きく分けて二種類に分類される。樹上で生活する樹上性リスと、地上を主な生活圏とするジリスである。
樹上性リスは木登りやジャンプを得意として枝の上や樹洞に巣を作り、ジリスは草原や砂地などに巣穴を掘って地上で生活する。
食性は草食を主とした雑食で、木の実、種子、果実、キノコ、草、昆虫などの多様多種なものを食べる。また、種によっては鳥類の卵やヒナ、爬虫類、小型の齧歯類までもを食べたという報告もある。
種子などを巣穴に貯めたり、土に埋めたりして貯蔵するのは、誰もが知っているリスの習性だろう。
樹の上にいるということは、このリスは樹上性のリスなのだろう。そのリスが今、二人を無言で見下ろしている。
大きくて愛らしい瞳がじっと二人を捕え、小さな鼻がひくひくと蠢いているのが見える。
ムスカリアはリスのその様子を見ている内に、なんだか嫌な予感がじわりじわりと沸いてくるのを感じた。
「……ね、ねえ、シラフィー…………?」
「なぁに、ムスカちゃん?」
「……リスって草食を主とした雑食だったわよね……?」
ムスカリアはリスから目を離すことなく、隣のシラフィーに尋ねた。
「うん、確かそうだよぉ。それがどうかしたのぉ?」
そして、思った通りの答えがシラフィーから帰って来た時、彼女は顔を青ざめつつごくりと唾を飲み込んだ。
「……あいつらって……木の実や果実だけじゃなく……キノコも食べるのよね……しかも枝にキノコを刺しておいて、乾燥させてから食べることもあるって……」
「……………………え?」
この時になって、シラフィーはムスカリアが何を考えているのかを悟り、その身体をぴきりと硬直させた。
そして二人がそんな会話を交わしている間も、リスはじーっと二人を見下ろしている。
ムスカリアはゆっくりと立ち上がり、シラフィーの手を引いて彼女も同じように立ち上がらせる。
もちろん、その間もリスからは目を離さない。
「……に、逃げるわよっ!!」
「う、うん……っ!!」
ムスカリアはリスに背を向けると一目散に走り出す。そして、その後を追うようにシラフィーも駆け出した。
彼女たちが走り出した直後、とん、という軽い着地音が走る二人の耳に届いた。
嫌な予感を感じつつ、ムスカリアが肩越しに背後を確認すれば、それまで枝の上にいたリスが地上に着地している。
そして、そのまま二人を追ってリスもまた駆け出す。
「やっぱりぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっ!!」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!」
二人は悲鳴を上げつつ、必死に足を動かした。
だが、ムスカリアもシラフィーも、走る速度は決して速くはない。
ムスカリアはふんわりとしたメルヘン調のゴスロリドレスだし、シラフィーもロングコート姿。しかも、彼女はブーツにアイゼンを装着している。これでは速く走れと言われても、絶対に無理な注文というものだ。
だが、そんなことを言ってもいられない。いられるような状況ではない。
ムスカリアはドレスの裾を掴みあげ、シラフィーもアイゼンに四苦八苦しながら、それでも必死に二人は走る。
弱肉強食が絶対の掟である自然界とはいえ、自ら進んで食べられたいと思っているわけではないのだ。
ムスカリアとシラフィーは、落ち葉の上を全力で駆ける。
クヌギの木の影に回り込み、シダの奥に飛び込み、岩の影に身を隠す。
だが、キノコの娘よりも遥かに敏捷性と速度に勝るリスは、あっと言う間に彼女たちに追いついてしまう。
「きゃああああああっ!!」
「助けてぇぇぇぇぇっ!!」
クヌギの木の影に回り込んでも、シダの奥に飛び込んでも、岩の影に身を隠しても。リスは執拗に彼女たちを追いかけ、そして追い詰めていく。
今もまた、木々の下生えの中に飛び込んで身を隠そうとしたムスカリアとシラフィーだったが、すぐにリスも下生えに突っ込んで来て、彼女たちに休息を与えない。
「……も……もう……だめ……ぇ……」
「……こ……以上……走れないよ……ぉ……」
走り続けて息が切れ、体力も尽きてきた。二人ともこれ以上は走れない。
とうとうムスカリアの足が縺れ、落ち葉の上に倒れ込んでしまう。
「ムスカちゃんっ!!」
シラフィーの切羽詰まった声。
倒れたムスカリアが顔を上げれば、いつものほほんとしたシラフィーが真剣な表情で自分を見つめていた。
「……に……げ……シラ……だけ……も……」
声にならない声。
ムスカリアは必死に顔を上げ、ぼろぼろと涙を流しているシラフィーに微笑んで見せた。
そこへ、とん、という軽い衝撃。
シラフィーへと向けていた視線を上へと移動させれば、のしかかるようにして自分を見下ろすリスの姿があった。
「あ……」
──そっか。ここで食べられちゃうんだ、私。
弱肉強食は自然界の絶対の掟。そして、彼女たちキノコは食物連鎖では底辺近くに位置する存在である。
そのため、他の生物の糧となる覚悟はできている。いつか、こういう日が来ることも何となく理解していた。
それでもその捕食者が目の前に現れると、恐怖で身体が動かない。
──せめて美味しいと思って食べてくれるといいな。
そんなことを考えながら、ムスカリアは覚悟を決めてぎゅっと目を閉じた。
間近に感じる獣臭い息遣い。
匂いを確かめているのか、ふんふんとリスが鼻を鳴らす音がする。
だが、いつまで経ってもリスが自分を食べようとする気配はない。
そのことを疑問に思い、ムスカリアはぎゅっと閉じていた目をそうっと開けた。
リスは自分を見つめている。いや、見定めている。
しばらく鼻を鳴らしていたリスだったが、何を思ったのか彼女から離れると、そのまま近くにあった樹に駆け登り、そのまま山の奥へと去って行った。
「あ、あれ……? どうして……?」
ムスカリアは上体を起こし、ぽかんとした表情でリスが姿を消した方向を見つめた。
「ムスカちゃんっ!! 大丈夫っ!? 怪我していないっ!?」
そんな彼女の元へ、涙を拭うことさえ忘れたシラフィーが駆けつけた。
「え? え、ええ、私は大丈夫……」
「よ、良かったよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
更に涙を溢れさせたシラフィーは、ムスカリアに抱き着いた。
「でも、どうして助かったのかしら……?」
ようやくシラフィーが泣き止み、ムスカリアはリスが自分を食べなかったことを不思議に思う。
「えっと……私、思うんだけどぉ……」
まだムスカリアに抱き着いたままのシラフィーが、彼女を見上げつつ口を開いた。
「ほ、ほら……私たちってぇ、毒キノコじゃない……?」
「え……? え、あ……あ、あああああっ!?」
そうだった。自分たち──シロテングタケとベニテングタケは、毒性はそれほど強くないものの歴とした毒キノコだった。
おそらくあのリスは、自分たちが体内に秘めた毒の存在に気づき、彼女を食べることなく去って行ったのだ。
「じゃ、じゃあ……なに? あ、あんなに必死に走り回らなくても良かったってこと……?」
「う、うん……そう……じゃないかな?」
「じゃあ……あの時逃げ出したりせず、じっとしていても危険はなかったってこと……?」
「そう……だと思うよ?」
「じゃあ……私たち、何を必死になっていたの……?」
「さ、さあ……?」
「そ、そういう大事なことはもっと早く言いなさいよっ!!」
「だ、だってぇ、逃げようって言ったのはムスカちゃんだよぉ」
「う、うるさーいっ!!」
ムスカリアは両手を振り上げ、むきーっと日傘を振り回して怒りを露にする。
その顔はベニテングタケの名に相応しく真っ赤で。果たして彼女の顔が赤いのは、怒りのためなのか恥ずかしさのためなのか。
シラフィーはそれを聞こうかと思ったが、敢えて聞かないでおいた。おそらく、聞くと怒りが更に大きくなりそうだし。
どことも知れぬ山の中に、『キノコノヤマ』と呼ばれる場所がある。
そこには山に棲息する野生の動植物の他に、キノコの娘と呼ばれる愛らしい少女たちが笑顔と共に平和に暮らしている。
でも、時にはちょっとピンチに陥ったりもすることもある。