ムラサキヤマドリタケ
今回、ちょっとばかりグロい描写があります。ご注意ください。
一体何事なのか。
思わず身構える三人のキノコの娘たち。
そして、揺れる茂みの億から姿を見せたのは、暗紫色の網目模様の入った衣服に身を包んだ一人のキノコの娘。
長身でどこか気品を感じさせるそのキノコの娘は、切羽詰まったような表情を浮かべて周囲を見回した。
そして、シラフィーたちの存在に気づくと、慌てて彼女たちの方へと駆け寄って来る。
「シラフィー! ムスカリア! フリゴ! ああ、丁度良かったわ! お願い、助けてっ!!」
そう言いながら、シラフィーたちに助けを求めて来た彼女の名前は山鳥 紫と言う。
その本体はムラサキヤマドリタケ。名前が示す通り紫色の菌種で、一見すると毒キノコのように見えるが実は食用菌である。
香りや味、食感は抜群との評判も高く、外側がやや毒々しい暗紫だが内側は見事に真っ白で、様々な料理に合う。
ただ、夏の真っ盛りの一番暑い時期に山中に発生するので、人目につく機会はやや少ないだろう。
そんなムラサキヤマドリタケを本体に持つ紫もまた、落ち着いた大人な女性で、その物腰は上品そのもの。
その彼女がここまで取り乱すとは、どうやら余程のことがあったようだ。
「ゆ、紫ちゃん、何があったの?」
事態の重要さを理解したシラフィーたち。彼女たちも真剣な表情で紫の様子を確かめていた。
「そ、それが……出たのよ……っ!!」
「出た……? 出たって何がでたのよ?」
トレードマークの赤い日傘を手の中でくるくると回しながら、ムスカリアが首を傾げる。
「だ、だから……あ、アレよっ!! 私たちキノコの天敵……ナメクジが出たのよっ!!」
ナメクジ。
その存在を知らない者は日本では極めて少ないに違いない。
梅雨時になると家庭の庭先にも出没して、そこに残されたきらきらとした粘液跡を誰もが一度は目にしたことがあるだろう。
実際、ナメクジは農作業や園芸において植物を食い荒らし、直接的な被害をもたらすことが多い。
また、その見た目や家屋への侵入から不快害虫としての側面や、実際に寄生虫や病原菌の宿主となっている場合もある。
ちなみに、人家周辺でよく見られるものはナメクジやチャコウラナメクジで、後者はおよそ1970年代以降に見られるようになったヨーロッパ原産とされる外来種。
これらのナメクジは体長5~7センチほどだが、山野部にはヤマナメクジという10センチ以上にも達する大型種が存在する。おそらく、紫の言っているナメクジはこちらのヤマナメクジだろう。
野菜や植物を食い荒らすナメクジは、キノコにとっても驚異的な天敵なのである。
また、ナメクジはカタツムリと同様に陸上で生活する巻き貝の一種で、カタツムリから巻き貝が退化する方向に進化したものだとも言われている。
「こ、このままだと、私の本体が食べられちゃうのっ!! な、なんとかあのナメクジを追っ払う方法を考えないと……」
「うーん……ナメクジと言えばお塩だからぁ……ポルチーニちゃんのお店に行って、お塩を一杯もらってくるとか?」
「でも、私たちのこの小さな身体だと、ナメクジを退治するだけの量をポルチーニのお店から運ぶとなると……大変な重労働よ?」
「あ、それよりも、熱湯をかけた方が効果的だって聞いたことがあるけど?」
「それもナメクジに効果があるだけ用意するとなると……」
ナメクジの駆除方法には様々なものがあるが、キノコの娘たちが選択できそうなものは以外と少ない。全ては彼女たちの小さな身体が原因である。
「……こうなったら、天敵には天敵をぶつけるしかないね」
四人であれこれと智恵を絞ったものの、彼女たちに取れる手段は思いつかなかった。そこで、フリゴがそんなことを言い出したのだ。
「でもぉ……ナメクジの天敵って何かなぁ?」
俗に昔から「三竦み」と言われ、ヘビ、カエル、ナメクジはそれぞれの天敵とされてきた。
だが、実際はヘビがカエルを捕食することはあれど、ナメクジがヘビを襲って食べることはまずない──ナメクジの中には動物の死骸を食べる種類もいる──し、カエルもナメクジを捕食することはあるだろうが、紫の本体が自生している場所の近くには水場がなく、カエルもその辺りには棲息していない。
「野山に棲息する鳥さんの中にはぁ、ナメクジやカタツムリを捕食する子たちがいるよぉ? そんな鳥さんたちを呼んでくればいいのかなぁ?」
シラフィーがそう言うものの、そうそう都合よく近くにナメクジを食べる鳥たちがいるだろうか。
早くしないと縁の本体がナメクジに食べられてしまう。本体を失うことは、キノコの娘にとっての死ではない。だが、それでも一時的に消滅するのは避けられない。
そして再びキノコの娘として目覚めるには、本体のキノコの次の発生時期を待つしかないのだ。
「ああ、それなら大丈夫。この前、この近くでアレを見かけたんだ」
自信満々にそう言って皆を先導して歩き出したのは、やはりフリゴだった。
それは目を背けたくなるような光景だった。
フリゴがシラフィーたちを案内したのは、すぐ近くの小さな石。その石に向かって彼女が呼びかけると、それは石の下から現れた。
そして、その現れたものを見て、シラフィーとムスカリア、そして紫は思わず息を飲む。
細長いその身体はとても長く、30センチはあるだろうか。それの中には1メートルにも達するものもいるそうなので、その個体はそれほど大きいというわけではない。
半月形の頭部を持ち、体長は先述した通りに10~30センチほど。だが、中には1メートルを越える場合もある。
対して、幅は1センチ、厚みは数ミリであり。極めて細長く平たい生物と言えるだろう。
この生物はプラナリアなどの仲間とされるコウガイビルである。
コウガイビルはミミズやナメクジ、カタツムリなどを主食としており、捕まえた獲物に体全体で巻きついて腹面の口から吻を伸ばし、肉を消化しつつ飲み込む。
正直言って、見ていて気持ちのいい生物ではない。そのためだろうか、シラフィーたちがこの生物を見た時、まさに卒倒寸前だった。
だが、フリゴはこの生物を見ても平気のようで、顔色一つ変えることなくコウガイビルに話しかけている。
「……と、言う訳なんだ。できたら、そのナメクジを退治してくれないかな?」
コウガイビルはフリゴの要請を快諾したのか、その半月形の頭をふるふると揺らした後、ゆっくりとフリゴが指し示した方へと移動を開始した。
しばらく呆然としていたシラフィーたちが正気を取り戻し、慌てて紫の本体が自生している場所へと駆けつけて見れば。
そこで、ナメクジを捕食しているコウガイビルという、とてつもなくグロい光景を目にしてしまったのだ。
ナメクジの身体に巻き付くコウガイビル。それはまるで狂気に犯された芸術家が生み出したオブジェのようで、見ている者に何とも言えない嫌悪感を抱かせる。
実際、シラフィーとムスカリアの顔色は青を通り越して白くなっているし、紫に至っては目を逸らして必死に込み上げてくるものを我慢していた。
ただ一人、フリゴだけは全く変化が見受けられなかったが。
「フリゴ…………あ、あなた、これを見ても平気なの……?」
「うん? 別に自然界ではよく見られる、弱肉強食の光景だよね?」
確かに彼女の言うことに間違いはない。
ライオンが生きるために草食動物を狩るのは当然のことであり、狩った獲物の肉や内臓を食らうのはごく自然のことだ。
それに当てはめれば、コウガイビルがナメクジを襲って捕食するのもまた、自然界の中では当然の光景であろう。
だがしかし。
ライオンが草食動物を食べるのとは、全く違った嫌悪感があるのも事実で。
「ううぅ……フリゴちゃんて……変わっているよねぇ……」
「そうかな?」
不思議そうに首を傾げるフリゴ。
何はともかく、紫の本体が守られたことだけは間違いなさそうだった。
どことも知れぬ山の中に、『キノコノヤマ』と呼ばれる場所がある。
だが、自然は綺麗なだけではない。時として、ちょっとグロい光景を見ることがあるのもまた、自然の掟の一つなのだ。
今回登場したコウガイビルですが、知らない方は各自で検索などしてみてください。
ただし、かなりグロい生物ですので、十分注意を。
昔、子供の頃に風呂場にこの生き物が出た時は、思わず叫びそうになったことが(笑)。
では、今年もよろしくお願いします。