ヤマドリタケ
キノコノヤマ。
その山の最も標高の高い地域に、いい匂いが漂っていた。
各種の調味料を用いた、食欲を刺激して止まないその香り。
野ネズミが鼻先を空へと突き上げ、その匂いがどこから流れてくるのかを確認している。
木の枝の上ではビンズイやルリビタキが忙しなく首を左右に振っているのは、彼らも匂いの元を探しているのかもしれない。
その香りは風に乗って、キノコノヤマの中をゆっくりと漂う。
そして、その香りを感じ取ったキノコの娘たちは、また彼女が腕を振るっていることを悟るのだ。
そう。
彼女たちキノコの娘の中で、最も料理上手な彼女が。
ヤマドリ・B・ポルチーニ。
それがキノコの娘の名コックの名前だった。
周囲に満ちる匂いは、とある白樺の大木の洞から漂ってきている。
洞の中はきちんと掃除がなされ、常に清潔に保たれており、天井からは穏やかな暖かい光が投げかけられていた。
洞の片隅にはカウンター。そして、四人がけのテーブルが6セット。
壁には品のいい絵画なども飾られ、花も生けられている。そして、どこからともなく流れてくるのは、落ち着いた音楽。
そう。ここはレストランなのだ。
外観こそ木の洞だが、その中はしっかりと手入れが行き届いた、立派なレストランだった。
そして、この店を取り仕切るのが、ヤマドリタケを本体に持つポルチーニ。
彼女はカウンターの奥の厨房で、愛用のフライパンを片手に上機嫌で料理を作っていた。
ポルチーニがフライパンを振るう度、肩で切り揃えた赤褐色の髪がふわりと揺れる。特に前髪ともみあげに強い癖毛があり、まるで丸めた犬の尻尾のようだが、本人はそれが至ってお気に入り。
いつも身に着けている調理服とコック帽は、褐色から白へと至るグラデーション。上の方ほど褐色が濃く、網目を描いているのが分かる。
ワンポイントは、首元にあしらわれたトウヒの毬果を模したブローチ。
彼女の本体であるヤマドリタケは、様々な国で高級食材とされる美味な食菌である。
日本にも自生しているが、発生場所が高標高に限られるため、その事実はあまり知られていない。
低地にもヤマドリタケと良く似たキノコが見かけられるが、こちらは近縁種のヤマドリタケモドキであり、食用ではあるもののヤマドリタケより味は劣る。
ポルチーニが鼻歌混じりに包丁を振う。包丁はたたたたんと軽快なリズムを刻み、同時に食材も見事に刻まれていく。
開店準備中の今、レストラン内には客の姿はない。だが、洞の入り口では匂いに惹かれたのか野ネズミや野ウサギたちが、興味深そうに鼻をひくひくさせながら洞の中を覗いていた。
そのことを気づいているのかいないのか。ポルチーニは一心に料理を作っていく。
眼差しこそは真剣だが、そこには楽しげな光が揺れている。おそらく、彼女は料理そのものがとても好きなのだろう。
鍋の中でぐつぐつと煮込まれているのは、様々な山の幸を煮込んだシチュー。
ポルチーニは鍋からお玉でシチューを少し掬い、味見をしてみる。
と、その顔に浮かぶのは会心の笑み。どうやら、思ったようなシチューが完成したようだ。
ポルチーニは店の外へと出ると、営業中の看板を出す。同時に、本日のオススメメニューを小さな黒板に書き込んでいく。
そして、それらを全て終えると、彼女は大きな声で告げるのだ。
「はーい、只今より、レストラン『シュタインピルツ』開店でーす!」
ポルチーニのレストラン『シュタインピルツ』が開店すると、早速お客が訪れた。
「あ、いらっしゃーい」
「えへへ。お邪魔しまぁす」
入って来たのは三人のキノコの娘。
シラフィーとムスカリア、そしてヴィロサだ。
三人は慣れた様子でテーブルの一つを占領すると、早速メニューへと目を通し始めた。
「んとぉ……私はパスタにしょうかな……ボロネーゼもいいけど、ヴォンゴレも捨てがたいなぁ……うぅん、迷っちゃうよぉ」
「時間はあるんだから、思う存分迷いなさいよ。私はドリアにするわ。シーフードドリアね。ヴィロサは何にするの?」
「ふふふ、私は味噌カツ定食一択よ!」
拳を握り締めて宣言するヴィロサ。同時に、彼女の背中の翼がばさばさと揺れる。
「ちょっと! 飲食店の中で翼を動かさないでよ! 埃が舞うでしょ?」
「あはは。ごめんごめん。味噌カツ定食を前にして、ちょっとテンション上がっちゃった」
てへ、と舌を出すヴィロサ。
そんな彼女に仕方ないなぁといった感じの苦笑を浮かべたムスカリアは、隣でメニューをじーっと見つめているシラフィーへと顔を向けた。
「それで? シラフィーは何にするのか決まったの?」
「うん! 私は日替わりランチにする!」
「…………パスタ、全然関係ないじゃない……」
またもや、苦笑を浮かべるムスカリアだった。
「お待たせしましたー!」
ポルチーニによって注文した料理が運ばれてくると、三人は小さな歓声を上げた。
シラフィーの前には日替わりメニューのクリームシチューと海鮮サラダとロールパンに野菜ジュース。ムスカリアの前にはシーフードドリアとコーヒー。そして、ヴィロサの前には彼女のお気に入りの味噌カツ定食。もちろん、ほうじ茶もついている。
「じゃあ、食べましょうか」
「うんっ!! いただきまーす!」
「いただきますっ!!」
三人は笑顔を浮かべて、それぞれの料理に箸をつけた。
そんな様子を、厨房の奥からポルチーニが嬉しそうに見つめている。
やはり料理人として、自分の料理が誰かを笑顔にすることは至上の喜びなのだ。
「これよ、これ! 味噌カツに添え物のキャベツの千切り、それに白い御飯に赤だしとしば漬け! この組み合わせに勝るものはないわね!」
「ヴィロサちゃん、味噌カツ好きだよねぇ。ポルチーニちゃんのお店に来ると、必ず味噌カツ注文するもんね」
「本当よね。でも、実際に凄いのはポルチーニね。和洋中、どんな料理だって作れるし」
「そうそう。それにどれも美味しいしねぇ。ポルチーニちゃん。いつも美味しい料理をありがとうね」
「どういたしまして。そうやって笑顔で美味しいって言ってくれるだけで、お店をやっていて良かったって思えるわ。ところで、他にお客さんもいないし、私もご一緒していい?」
ポルチーニは厨房の奥から、自分の分の昼食を手にしながらシラフィーたちのテーブルへとやって来た。
もちろん、シラフィーたちに同席を拒否する理由はない。女三人寄れば姦しいと言うが、それが四人ともなれば三人以上に賑やかになる。
季節は夏の盛りだが、『シュタインピルツ』のある場所は高標高のためかなり涼しく、店の中を流れる風は冷たくて心地いい。もちろん、この風は天然の風でありエアコンなどは使用していない。
そんな中で、ポルチーニを加えた四人は、午後の一時を楽しく過ごしていく。
年頃の女の子たちの会話が尽きる、などということはないのだから。
どことも知れぬ山の中に、『キノコノヤマ』と呼ばれる場所がある。
そこには山には、とても美味しい料理を食べさせてくれるレストランがある。
そのレストランのコックの腕は極めて良く、和洋中どんな料理のリクエストにも応えてくれる。
だが、そのレストランは山の高い所にあるため、通うのはちょっと大変なのだ。
それでも、多くのキノコの娘たちがそのレストランに足を運んでいる。