シロテングタケ
ここはどことも知れぬ山の中。
豊かな植生を太陽の光が優しく照らし、生い茂った木々の間を涼やかな風が吹き抜けていく。
季節は初夏──の一歩手前。まもなく梅雨も明けようかという時期。
山のあちらこちらでは様々な生き物たちが命を謳歌していた。
地面では蟻が餌を求めてあちこちを歩き回り、木々の枝にはたくさんの野鳥たちが飛び回っている。
樹皮の割れ目から溢れ出した樹液を求めて、昼間でもクワガタ、カナブン、ヨツボシケシキスイ、数種類の蝶や蝿の仲間、そしてスズメバチなどが活発に餌場の争奪戦を繰り広げていた。
もう少しすると、蝉たちが一斉に土の中から顔を出し、煩いほどに鳴き出すだろう。
そんな山の中を、ご機嫌な表情でゆっくりと歩く一人の少女。
晩春だというのに黄土色の帽子と手袋、そして踝まであるロングコート。
全体的に白で統一されたコーディネートの中、その帽子と手袋、そしてコートの裾とブーツの黄土色が目立つ。
なぜかブーツにはアイゼンが装着されており、彼女自身もどこか歩き辛そうだ。
その上で白いマフラーまで身に着けた完全装備。だが、当の本人はまるで暑いと思っていないようで、その顔には始終笑顔が浮かんで。
髪も瞳も白。髪は極度の縮れっ毛で、瞳の奥では光の反射の加減で時折赤い光が宿る。
彼女がゆっくりと歩けば、髪の先や衣服の端が擦り切れるように零れ、足跡の代りに枯れ葉の上に白い軌跡を描いていく。
アマニタ・シラフィー。
それがこのどこかおっとりした雰囲気の、可愛らしい少女の名前である。
「えへへー。今日は久しぶりのお天気だから、お日様の光が気持ちいいねー」
シラフィーは眩しそうに目を細め、生い茂る木々の間から零れる太陽の光りを全身に浴びる。
梅雨の晴れ間。数日続いていた雨がやっと今日、降り止んだのだ。
樹上で歌われている野鳥の歌声に耳を傾けながら、シラフィーは雨上がり独特の匂いのする山の中を歩く。
特に目的があるわけではない。ただなんとなく山の中を歩いているだけ。要は散歩だ。
ゆっくりと歩く彼女の傍らを、ふくらはぎ程までの体高のハンミョウが、その独特なビロード状の黒紫色に白い斑点がある鮮やかな前翅を、太陽の光に煌めかせながら追い越していく。
ハンミョウはシラフィーを追い越すと、歩くのを止めて彼女を振り返る。
シラフィーはにこやかな笑顔のまま、こちらを見ているハンミョウにぱたぱたと手を振った。
「餌探しかなー? ご苦労さまー」
彼女の行動を確認していたわけでもないだろう。ハンミョウは再び歩き出した。
「うーん。今日は一日、いいお天気になりそうだねー」
誰に言うでもなく呟くシラフィー。
そして彼女は本当に気持ち良さそうに、両手を頭上で重ねて思いっ切り伸びをした。
「あれ? シラフィー?」
不意に背後から名前を呼ばれ、シラフィーは伸びの姿勢のままゆっくりと振り返った。
「あー。ムスカちゃんー」
背後にいたのが誰なのかを確認し、シラフィーはにぱーっと微笑む。
振り返ったシラフィーの目に飛び込んで来たのは、真紅に独特な水玉模様の大きな日傘。
シラフィーは知っている。
その日傘の持ち主はその日傘のデザインをとても気に入っていて、今持っている真紅だけではなく黄色とオレンジの同じデザインの日傘をコレクションしていることを。
そして、その日傘の下にはシラフィーと同じような白を基調とした、重ね合わせのメルヘン調のゴスロリ・ドレス。
淡いピンク色のドレスの上に純白のドレスを重ね、その上からドレスよりはやや濃いピンクのコルセットを装着しており、それらの淡い色が彼女の可愛らしさを強調している。
瞳の色だけはシラフィーとは違って真紅だが、肩口で切り揃えられた髪の方はシラフィーと同じ白。その髪の両サイドで、カバノキ属の雄花を模した鮮やかな緑の髪飾りが輝いていた。
シラフィーよりはちょっとだけ大人びた印象の、優しそうな雰囲気を纏った少女だ。
ムスカ──アマニタ・ムスカリアは、手の中の日傘をくるくると回しつつ、シラフィーに対して優しく微笑みながら尋ねる。
「こんな所で何をしているの?」
「んー、ただの散歩だよぉ? ほらぁ、今日は久しぶりにお天気がとってもいいしぃ、お散歩していると気持ちいいんだぁ」
「そうね。今日は気持ちいいわね」
ムスカリアは目を閉じて、森の中を流れる風を感じ取る。
まだまだ水分を多量に含んだ、雨上がり独特の山の中の空気。
その中を緩やかに流れる風が、どこかに咲いている花の香りや樹液の香り、木の葉の緑の香りなどを運んで来る。それらはこの山の中で生きている生き物たちの命をはっきりと感じさせた。
「そう言うムスカちゃんは何していたのぉ?」
首をこくんと傾げ、口元に右の人差し指を当てながらシラフィーが問う。
「あら、私? 私は────」
ムスカリアがにっこりと微笑む。
「────私もあなたと同じで、散歩していたのよ」
キノコの娘。
彼女たちは自分たちのことをそう呼んでいる。
そう。彼女たちはキノコなのだ。
彼女たち自身、どうして自分たちが今あるような姿を取っているのか分かっていない。
いつの頃からか、彼女たちキノコの娘はこの山の中に現れ、同じキノコの娘や他の山の生き物たちと共に暮らすようになった。
もしも人間が彼女たちを目にすれば、妖精か妖怪などと思うことだろう。
彼女たちが暮らすこの山──キノコの娘たちはこの山を『キノコノヤマ』と呼んでいる──にも、時折人間は訪れる。
だが、人間が彼女たちを気にした様子はまるでなく、もしかすると人間には彼女たちは見えないのかもしれない。
彼女たちもまた、『キノコノヤマ』を訪れる人間を物陰から眺めることはあっても、積極的に関わろうとしたことはなかった。
例え人間との関わりはなくても、いや、人間との関わりがないからこそ、キノコの娘たちはこの森の中で平和に暮らしているのだ。
ちなみに、シラフィーはシロテングタケ、ムスカリアはベニテングタケと呼ばれる菌類であり、どちらも毒を含むいわゆる「毒キノコ」である。
だが、調理法によっては食べられないこともなく、地方によっては食卓に登ることもある。
彼女たち自身も、そこまで努力して自分たちを食べてくれる人間たちには、少なくない好意を抱いていた。
シラフィーとムスカリアは、森の中で並んで腰を下ろす。
ムスカリアは落ち葉の間からちょこんと顔を覗かせていた石に。そして、シラフィーは直接落ち葉の上に。
それどころか、シラフィーはそのままごろんと仰向けに寝転ぶ始末だ。
「はぁー、こうして寝転ぶと気持ちいいよねぇ。落ち葉の匂いを嗅ぐと、心が落ち着くよぉ」
「ちょっとシラフィー? そんなところに寝転ぶとコートが濡れるし、落ち葉がくっついちゃうわよ?」
「えへへ、いいもーん。ぜぇんぜん、気にしないもーん」
シラフィーは満面の笑顔でそう答えると、満面の笑みを浮かべて寝転んだまま大きく伸びをした。
そんなシラフィーを苦笑を浮かべながら見つめていたムスカリアは、ふと思いついたことを彼女に尋ねてみた。
「そう言えば、あなたも今年は随分と早く活動期に入ったのね。いつもなら梅雨が明けきった頃からが活動期でしょ?」
「うーん、今年は何となく早く目が醒めちゃったんだぁ。そういうムスカちゃんだって、今年は早起きだよねぇ?」
シロテングタケもベニテングタケも共に、夏から秋にかけてその姿を見かけるキノコである。そのため、梅雨もまだ完全に明けきっていない晩春の今の季節、その姿を見かけるのは稀である。
「私もあなたと同じで、なぜか今年は早くに目醒めたのよね。人間たちが地球温暖化がどうのこうのと言っていたけど……それと関係あるのかしら?」
肩に担ぐようにした日傘をくるくると回しながら、ムスカリアが呟く。
「難しいことは分かんなぁい。でも、早くに目が醒めたお陰で今年はムスカちゃんとたくさんお喋りできるんだから、私としては嬉しいなぁ」
上半身をがばっと起こし、シラフィーはムスカリアに向かってにぱーっと微笑む。
それを受けて、ムスカリアもまた、シラフィーに優しい笑みを向けた。
「今年もよろしくね、ムスカちゃん」
「こちらこそ。今年もまたよろしくね、シラフィー」
ムスカリアは白くて細い腕をそっと伸ばすと、シラフィーの髪やコートに付着した枯れ葉をそっと取ってやった。
どことも知れぬ山の中に、『キノコノヤマ』と呼ばれる場所がある。
そこには山に棲息する野生の動植物の他に、キノコの娘と呼ばれる愛らしい少女たちが笑顔と共に平和に暮らしている。