晩夏の星空
週間天気予報に、始業式の日の天気が表示されてしまうのはなんとも寂しい。残りの夏休みが目に見えてわかる。
もう、一週間を切ったのか。
僕は畳に横たわってアイスキャンディを舐めながら、感情の感じられない気象予報士の声に耳を傾けていた。
宿題がまだ終わっていない。高二の夏休みをこんなにだらけて過ごしていて良いものかと、ぼんやり考えながら目を瞑った。
さざなみの音が聞こえる、わけがない。
ここは海辺の別荘なんかではなく、山に囲まれた田舎の一軒家なのだから。目を瞑って聞こえるのは無機質なテレビの音と、虫とカエルの大合唱くらいだ。
この夏休み、僕は何をしただろうか。思い出という思い出が何もない。こんな田舎じゃすることがない。かといって勉強をする気にもならない。
夏休みって、こんなに退屈なものだったっけ?
することもないし、そろそろ寝るか。あ、部屋の中に蚊が飛んでいる。蚊取り線香はどこだったかな。
僕は起き上がりアイスの棒をゴミ箱に投げ入れた。
そのとき、ポケットからバイブ音が聞こえた。
震える携帯を取り出して、耳にあてる。
「もしもし?」
「もしもし、トモヤだけど。ミツル、今から外出れないか?」
幼なじみのトモヤからだ。
「おう、出れるけど?」
僕は腕時計を見た。九時五分。
外はもう深い闇に包まれている。
「星、見に行こうぜ!」
電話越しでも唾が飛んでくるんじゃないかと思うほど、トモヤの声は溌剌としていた。
「なんだ、星なら家の窓からいつも見てるよ」
僕はわざと退屈そうにあくびをして言った。
「そうじゃねえよ!終業式の前にさ、東京から転校してきたウチノさんっていたろ?」
「ああ、僕たちのクラスに入った綺麗な子だろ」
僕の頬が少し熱くなるのを感じる。
「そう!その子がさ、ここの星は綺麗だから友達と一緒に見たいって言ってんだよ!だからさ、行こうぜ」
「トモヤ、いつからウチノさんとそんな仲良くなったんだよ。僕ぜんぜん知らなかった」
そう言うと、携帯の中からトモヤの下品な笑い声が聞こえてきた。
「親友のお前が気づいてなかったとはな…ま、そんなこと気にすんな。もうカエデと一緒に学校の裏山にいるらしいから俺たちも行こう」
「カエデ…ああ、怪力カエデか。あいつもいるのね」
夏休み中は一度も会ってない、男みたいなショートカットで怪力の持ち主、カエデを思い出すと少し懐かしく感じる。顔は整っているのに、話していると男子と会話しているような錯覚に陥る。僕たち三人はいつも一緒に遊んでいた。
「じゃあ今からすぐ迎えに行くから、支度して待っ…」
トモヤは言い終わらないうちに通話を切ってしまった。まったく、せっかちな奴だ。とはいえ、僕の昔からの大親友だが。
まぁ、夏休み最後に面白いイベントができて良かった。美人な転校生と一緒に星が見れる。そう思うとなんだかどきどきしてきた。
僕は玄関の前に出て親友を待った。
家の中より外のほうが涼しい。見渡す限りの田んぼをそよ風が駆け抜ける。さわさわと心地良い音がした。見上げた街灯の光には地味な色の蛾が群がっている。いつもと変わらない田舎の夜だ。
自転車のライトが見えた。
トモヤは本当にすぐに迎えにきた。
「今さっき電話切ったのに。やけに速いな」
「すぐ行くって言ったろ。てか、なんだミツル、制服で行くのかよ」
「今日たまたま着てたんだよ。白いワイシャツは暗闇で目立って良いだろ?」
「まぁ、そうかもな。ほら、後ろ乗れよ」
僕はトモヤの自転車の後ろに跨った。
「つかまったか?そんじゃ、行くぜ」
自転車は田んぼの間を勢いよく走り出した。遠くには真っ黒な絵の具で塗りつぶしたような山が聳える。山のシルエットに近づいていくと、辺りの気温はどんどん下がっていった。少し肌寒く感じるほどだ。
ヒキガエルの声に混じって僕の好きなウシガエルの声が聞こえる。
空を見上げると、もうすでに星たちが輝いていた。
山まで行かなくても星は綺麗だが、山の上から見る星は手が届きそうなほど近くに見えてその美しさに言葉を失う。東京からの転校生がその空を初めて見て、どんなに驚くかを想像したら面白い。
「なんかミツル、軽くなったな。この暑さでバテたか?」
トモヤがペダルを漕ぎながら言った。
「そうだな。ここんとこアイスしか食べた記憶ないわ」
「へへっ、それはないだろ!」
トモヤの長髪が風になびく。こげ茶色に染められたそれは、彼の端正な顔立ちにとてもよく似合っていた。
ウチノさんとトモヤは、けっこう釣り合うかもしれない。
ふと、そう思った。
「なあトモヤ、ウチノさんのこと好きなのか?」
「なにバカなこと言ってんだよ!そんなワケねーだろ!」
段差もない平坦な道で、自転車が少し揺れた。今の反応で察しはついた。
やっぱりそうか。
「ミツルだって、一目惚れしたんじゃないのか?」
僕の心臓が暴れる。
「なっ、なんでだよ」
「転校初日に、美人だなぁ、とか言ってたじゃねえか!」
「うるさい、美人と好きは違うんだよ!」
実は図星だった。僕は一目惚れした。
「おい、顔赤くなってんぞ」
へへっと笑ってトモヤが横目で見ていた。
「バカ、前見ろよ!危ないだろ!」
周りに家が少ないからか、僕たちは夜にも関わらず大声で騒いだ。それだけのことが、なぜかすごく楽しく感じた。
「あっ、家からアイスとか持ってくれば良かったな」
トモヤが言う。
「でも、そのカゴに入ってるリュックに何か入ってるんだろ?」
自転車の前のカゴにはトモヤが学校で使っているリュックが入っていた。
「ああ、コーラと紙コップとポテチだけ。でもやっぱ夏はアイスでしょー」
「まぁ、僕はさっき食べてたからいいけど」
「何味のを食べてた?」
「え、んーと…イチゴ…?いや、なんだったかな」
「おいおい、もう忘れてるのかよ!」
トモヤは前を向いたまま、また大きな声で笑う。
僕のほうは不思議な気持ちだった。さっきまで食べていたアイスの味が思い出せないのはなぜだろう。
「まぁいいや。ミツル、ガリガリ君の当たり棒出たらくれよ」
「なんでだよ。やらねーよ」
「ちっ、ケチ!」
トモヤにつられて僕も笑った。
辺りに民家が増えてきた。もうすぐ学校だ。
「なんかもう、ずっと夏休みならいいのにな!」
細い路地に入り、トモヤが言った。
「それなー」
僕もうんうんと頷く。
僕たちの高校の白い校舎が見えた。トモヤはそこまで立ち漕ぎをし、学校の前に着いた。
門に鍵はかかっていない。
田舎の学校は、校庭なら簡単に忍び込める。もちろん、校舎は無理だが。肝試しをしようものなら校長の許可がいるだろう。もっとも、今日は学校の裏口から山に入るだけなのでその必要はない。
リュックを背負ったトモヤが小走りで僕の前を行く。
「ほらはやく、ウチノさん待ってるぞ」
「わかってるー」
「あのさ…タクヤってイケメンだからウチノさん好きになっちまうかもな…」
いきなりトモヤが言った。
「なんだよいきなり。てか、タクヤって誰だよ」
「お前、タクヤ忘れんなよ。ウチノさんの隣の席のタクヤだよ。同じクラスでよく話してたじゃんか」
「え…そうだっけ」
「でもさ、夏休みってたまにクラスメイトの名前忘れることあるよな」
僕たちは裏口を出た。
舗道されていない、自然の道を歩き出す。
街灯の光は木々に遮られ、一層暗くなった。
「なんか僕、最近ここ来たばっかりな気がする」
「なんだ、ミツルは休み中に裏山来たのか。俺も誘ってくれりゃ良かったのに」
「いつ来たかは忘れたけどね」
「本当に忘れっぽいな!」
「大丈夫。トモヤのことは一生忘れないぜ」
僕は親指を立ててトモヤに突き出す。
「お、嬉しいねぇ」
薄暗い山の道を懐中電灯も持たずに歩く。危ないが、直に目が慣れる。
土を踏みしめる感覚がスニーカー越しに伝わってくる。そこで思い出した。
「あ、僕がこの前ここ来たのは雨降ってたときだ。たしか道がぬかるんでたもん」
「なんだ、最後に雨降ったのは終業式の日じゃん。けっこう前だな」
「ありゃ、そんな前だったか」
「急いで登ろうぜ。ミツル、今何時だ?」
「暗くてよく見えないな。えーと…九時五分」
「え?そんなわけないだろ。ほら」
トモヤは携帯の光を僕の腕時計に向けた。
「あれ、九時五分だ…てかヒビ入ってるじゃん。その時計、壊れてるぜ」
「え、マジかよ」
たしかに、硝子の部分に亀裂が入っている。
「当たり前だよ。俺が家出たの八時だぜ?そんなに時間経ってるわけないだろ」
「そうなのか…この時計、高かったのに。どこで壊れたんだろ…」
「まぁ最初から携帯見とけば良かったな…お、八時半だ。頂上までには九時過ぎるな」
「よし、行こうぜ」
僕たちは少し早足で山を登った。
山の中腹まで来て、僕は体に違和感を覚えた。
「なぁトモヤ、なんか喉が痛くなってきた」
「大丈夫かよ。さっき笑いすぎたんじゃないか?」
「そうかな…」
しばらく歩いていたが、痛みは徐々に増していく。息をするのがつらい。喉の奥に何かが刺さったような痛みに、とうとう耐えきれなくなった。
「トモヤ…喉が…いてぇ…よ」
「おい大丈夫か⁉」
倒れそうになった僕の体をトモヤが支えてくれた。
「引き返すか?親御さんにはちゃんと言ってから出てきたんだよな?迎えに来てもらうか?」
「あれ…母さん…?」
そう言えば、家に両親の姿が見えなかった。どこに行っていたのだろう。そして、なぜ僕は黙って出て来られたのだろう。
普段、夜遅くに外に出るときは親に一声かけて行く。なのになぜ…あれ、テレビの電源は消したっけ?
部屋の明かりは消したっけ?
家の鍵はかけたっけ?
父さん、母さんの…名前はなんだっけ?
「トモヤ…今…何時だ?」
「今か?今は九時五分だ」
それを聞いた瞬間、ミツルの脳に電流が奔った。すべて思い出した。
何もかも、すべてを。
身体中に激痛を感じ、喉の奥から何かが出てくる。僕は勢いよく吐き出した。
トモヤが携帯でそれを照らす。
吐き出されたものを見て、トモヤが乾いた悲鳴のような声を漏らす。
それは真っ赤なアイスの棒だった。
そのイチゴのような赤い色は、僕の血液だった。
「トモヤ…ごめん。僕はこの先には行けないや」
「ミツル、なんだよこれ…てか、どういう意味だよ…」
トモヤは怯えていた。その瞳は、大切な何かを失ってしまう畏れを抱いていた。
そしてその瞳は、なぜか僕の心を安心させた。
「僕は…終業式の日に死んでるんだ。この場所で。この時間に」
その日は一日中晴れる予定だった。
気温が三十八度を越える体育館で、校長の長々とした夏休みの注意事項を聞き流した後、僕は裏山で星空を見に行こうと決めた。こんなに良い天気なら、今日は星がよく見えるだろうと思ったから。
だから僕は夜遅くに制服のままアイスを持って一人裏山に出かけたのだ。
もちろん、母親に断ってから。
七時から星空を眺めていた僕は、つい、ふわふわの草の上でうたた寝をしてしまった。
鼻先に冷たい雫が触れ、目覚めた。
星たちは厚い積乱雲に隠され、雨が降り始めていた。雲の中では雷が夜の空を白っぽく光らせていた。
僕は溶けかけのアイスを食べながら急いで山を降りようとした。
本格的に降り始めた雨は、地面に水分を含ませ、柔らかく、滑りやすくさせていた。
ガリガリ君のソーダ味を食べ終わった僕は、棒を咥えて小走りで土砂降りの中を駆け抜けて行った。
そして、僕は、ぬかるみに足を滑らせ、転んだ。
喉に激痛を感じ、僕の意識は途絶えた。
それは九時五分の出来事だった。
「なんでほとんど記憶のない幽霊の僕が、トモヤのことだけハッキリ憶えていたのかわかったよ」
トモヤのすすり泣く声が聞こえる。
トモヤも気づいたはずだ。この夏休み、僕に一度も会わなかったことを。僕の家で親族だけの葬式が行われていたことを、彼は今思い出しただろう。
「…トモヤが親友だからだ。トモヤと、もう一回、最後に遊びたかったからだ」
「最後なんて言うなよ!俺はそんなの信じないからな!お前が死んでるだって?ふざけんな!お前が…お前が、死ぬわけ…ないだろ…」
トモヤは言いながら泣き崩れた。土の上でおうおうと泣いた。その声は、山の気高き獣のようだった。
「ごめんな」
僕の体が、白く淡い光に包まれる。
「最後に、お前に会えて良かった。ウチノさんのことは好きだったよ。一目惚れだった。でも、トモヤにだったらウチノさんを取られてもいいと思えるよ」
やっぱりトモヤのことは一生、いや、死んでも忘れなかった。
トモヤは僕のこと、憶えていてくれるかなぁ。
体に力が入らない。アイスのように溶けてなくなってしまうみたいだ。
下半身からどんどん薄くなって消えていく。意識も遠のいているみたいだ。
「トモヤ、元気でな」
「待てよ!待って…待ってくれ!お前がウチノさん好きだったって言いふらしちゃうぞ!いいのか⁈」
…それはやめてくれ。
「小学校の頃、お前が大きい方漏らしたこと、皆に教えちゃうぞ!」
…ああ、今まで黙っててくれてありがとう。
「冬休みになったら、一緒に温泉旅行でも行こうぜって、言ってたじゃん!」
…トモヤはウチノさんと行きなよ。
「ふざけんな!新学期がお前の死んだ知らせを聞いて始まるなんて嫌だよ!」
…悪い。許してくれ。僕は星になるから、後でカエデとウチノさんと一緒に眺めてくれよ…
「バカヤロウ!許さねえよ!許さねえからな…だから…せめて…安らかに眠れよ…ミツル…」
天に向かって小さな光が昇る山で、おうおうと獣のような泣き声が響き渡った。
君は僕のこと憶えていてくれるかなあ。