四章 その2
異常種の猛攻にさらされ、撤退を余儀なくされたレイ、千晶は戦場より少し離れた場所にいた。
レイの腕には包帯がまかれている。元々は清潔な純白だったのだろうが、今では血を吸って赤黒く変色している。
傷口はまだ開いており、現在進行系で包帯の染みが広がっている。
しかし、そんなレイはと言うと、
「千晶、そこに六フィート半径の白陣を」
「六フィート? 随分小さいのね」
「大きくしてもそんなに意味はないですからね、それぐらいでも十分なんですよ」
何事もなかったかのように千晶に指示を出していた。
理由は簡単。怪我をしているからである。
ちなみに白陣とは何の術式も記述されていなく、それだけでは何の意味も持たない陣の事であり、これに色々と魔術的記号を付与することによって一般的に「魔方陣」と呼ばれるものになる。
「それにしてもあの程度で怪我をするかな、普通?」
「召喚術なんて護衛が居なければただの的にしかなりませんよ。考えてみてください、こんな手の込んだ事、敵の攻撃を防ぎながら、しかも後衛だけで務まりますか?」
「あ~、無理だね」
「そうでしょう。まぁ、この程度の試験、アリエルだけで充分だと思っていたのですが、番狂わせですよ。あんな怪物が出てくるなんて」
「あれは、ね。私も今の武装じゃちょっときついと思う」
「投擲用、と小太刀二本、あと弦、でしたっけ? 武装は」
「そうそう、それだけ。まぁ弦だけでもどうにかできるんだけど、量がね……」
「足らないと?」
レイの質問に「えへへ」と言いながら頷く。
こんな状況だというのにその態度は変わらない。
「問題は多いようですが、今はこの陣を完成させることだけ考えましょうか」
陣は完成していた。と言ってもただ円だが。
レイはその陣の中心に立つ。
「アレリア、大丈夫なのかな?」
「どうでしょうね、まぁ仮にやられていたとしても、敵も無傷ではないでしょう」
「いや、やられていたらどうすんの!?」
「大丈夫、彼はそう簡単には死にませんよ。きっと」
「はぁ」
根拠のない発言にそうあることを願って頷く千晶であった。
空気が変わった。
森を踏みしめる不規則な足音。
赤く染まった双眼の主が森の暗部から現れる。
「……さて、分っていますね、千晶」
「結局一戦交えなくちゃいけないのね」
千晶は腰の小太刀を引き抜き、重心を落とす。
(千晶はこう言ってるようですが、恐らくは無理でしょうね。はやり彼でないと)
レイは異常種の足に目を向ける。
異常の後ろ足、その片方が欠けていた。
きっとアレリアがやったのだろう。
一対一でよくこんな傷を敵に負わせれたのだ、とレイは感心した。
異常が吼える。
同時に千晶も動いた。
千晶は時折刃物を投げ、敵を牽制しながら死角に入り、攻撃するという立ち回りをしている。
だが攻撃が届くことはない。
千晶の刃は全て敵の堅牢な甲殻によって弾かれている。
きっと千晶にはこの異常種を斃すことは不可能だろう。
そもそもの戦闘スタイルが対人に特化したものだから仕方ないのかもしれないが。
それはともかく――
「耐えてください。斃す必要はありません。生きることだけを考えて!!」
レイは叫び、陣の構成に取り掛かる。
陣の構成には時間がかかる。千晶が倒れるのが早いか、それともレイの構成が早いか。
レイの頬に冷や汗が伝う。
――アレリア、頼みますよ。
○
「あー、痛ぇ。
まったく、なんて運が悪いんだ」
アレリアは呟いた。
結論から言ってアレリアは死んでいなかった。
あの時体中に倦怠感が襲って、結果一撃貰うことになったのだが、幸いなことに異常種の鎌の刃がアレリアに当たることはなかった。根元の部分がアレリアにあたったのだ。
と言っても、異常種の攻撃は打撃だけでも人を殺すぐらいの威力を秘めていたが。
直撃では無かった。結果としてアレリアの左肩が暫く使い物にならなくなったのだが、死ななかっただけまだマシだろう、とアレリアは考えた。
「それにしても……これは無理だな」
アレリアは自らの右手に目を向けた。
そこには刀身がない剣が握られていた。
異常種の一撃で折れてしまったのだろう、とアレリアは考えた。
「武器はともかく、体も限界……と」
戦闘中に襲った倦怠感。
その原因については容易に想像できる。
鋼の仮面。その反動の所為だろう。
詳しいことは解らないが、この術は使えば使うほど反動が大きくなるらしい。
使用は本日三回。普段からこの術を行使しているとはいえ、このような連続使用には体が慣れてなかったようだ。
加えて、氷の女王も使っていて、強制的に術が解除された為か、頭の中はどうにも形容しづらい状況になっている。術式なんて構成できる余裕など無いほどに。
『使いすぎると戻れなくなりますので、多用には注意してください』
誰の言葉だっただろうか、あやふやで思い出すことはできないが、きっとこういう事なのだろうな、とアレリアは思った。
「さて、これからどうしようか」
思考のチャンネルを切り替える。
現在の状況は正直に言って芳しくない、と言うか寧ろ悪い。
状況を整理する。
武器は無い、強いていえば剣の柄なのだろうが、人間相手ではともかく、生半可の攻撃は通じない相手、先程一戦交えた異常種に有効に働くことはないだろう。
「……ハァ」
アレリアは嘆息する。
五体満足でもこの状況では異常種と戦うのは難しいだろう。
極東の島国をはじめとする東方の国では、武器を持たなくても異常種と対峙できる徒手格闘術が存在するらしいが、アレリアは知らない。
対人用の格闘術はそれなりに修めてはいるが、それだけだ。
千晶のような特殊な立ち回りができるのなら話は変わってくるだろうが。
「……どうするかな……」
何気なく呟いた一言だが、
『派手にやられてますね。大丈夫ですか?』
思わぬところから返答があった。
「アリエル……」
『はい、アリエルです』
亜麻色の髪の妖精はそう答えた。
「どうして一人で……?」
『今はレイから魔力の供給は受けていません。自身の魔力で現界していますので、召喚主に縛られることはありません』
「そうか、大丈夫なのか?」
ここでの「大丈夫か?」は「魔力が尽きても大丈夫なのか?」という意だ。
『別に、尽きたとしても、自身の世界に帰るだけですから』
「そうか、なら安心した。……それで、ここに来たって事は何か用があるんだろ?」
『はい。少し前のことになりますが、召喚主たちが異常種との戦闘に入りました』
「レイ」が「召喚主」と呼称が変えられたということと、今の報告とは何らかの関係があるのだろう。言うなれば、事務報告か。
『只今召喚主は新たな術式を構成中です』
淡々と、
『憶測ですが、召喚されるのは恐らく中位相当の精霊、魔獣の類でしょう』
淡々と、
『基礎白陣の半径は六フィート。記述後の陣は八フィート弱の予想です』
語られていく。
因みに陣は大きいほど記述量が多くなり、大規模な召喚魔術が可能となる。
極めれば陣無しでも召喚術を行使できるようになるらしいが、そのような偉業を成し遂げたとされる人物は歴史上でも数えるほどしかいない。
「……所要時間は?」
『不明です。今現在、鳳千晶が敵の足止めをしています。召喚主が言うには「あまり持ちそうにない」とのことです』
「なるほど、だから俺に早く復帰して欲しいと」
『ええ』
アリエルは肯定する。
「だが今俺はこんな状態なんだが……」
アレリアは自分の肩を示す。
『承知の上です』
「そうしれっと言われても……」
『それはそうと』
「ん?」
『口調が、態度もですが、先程と少し違うような気がしますが……』
何故なのか、という疑問詞までは省略されている。
「ああ、さあな。俺にもさっぱりだ。まぁ、恐らくは術の反動だろうさ」
『術、とは? 差し支えなければ教えていただけないでしょうか?』
「鋼の仮面、氷の女王」
そう述べた瞬間、アリエルの表情が凍った。ただででも無表情だったのが(今は、だが)のっぺりとした仮面をかぶったようななんとも言えない表情に変貌を遂げた。そしてアレリアの眼前へと迫り、
『まさか、重複発動ですか?』
「ああ」
今度は青ざめた。
「……どうした?」
『あなたは、事の重大さが分かっていないのですか?』
「重大さ?」
『……分かっていないのですね』
はぁ。と深い溜息をついて、頭を上げたときにはアリエルは既に事務的な無表情に戻っていた。
『まぁいいでしょう。今の様子から判断するとまだまだ壊れそうにはないですし、危険性云々はまたの機会にでも話しましょう』
「頼むよ」
『今はこれだけを約束してください。精神構造改変の術式の重複発動は控えると』
「とりあえずは了解した」
『とりあえず……と、言うことは約束を守らないかもしれないと?』
「時と場合による。できるだけ控えるさ」
『………』
「おいおい、そんな目で見ないでくれよ」
『まったく、どうなっても知りませんよ』
アリエルはぼそっと呟いただけなのだがアレリアの耳にはしっかりと入っていた。
『さて、では復帰してくださるということで話を進めますが』
「いや、無理だから」
『武器を失っているようですがどこかで補充しなければなりませんね』
「人の話聴いてるか?」
『聴いてません』
「なんだ、聴いてるじゃないか」
『……』
「まぁ、いいや。続けて」
このまま話しても埒があかない。そう考えたアレリアは負けを認めることで論争に終止符を打った。
『アレリア。あなたの事だ。何かそうなった時のための何かがあるのではないのですか?』
「……そもそも武器を失っても戦うということが想定されていないから、そんなことは準備していないし考えてもいない」
『しかしどうにかしなければ召喚主らの人生が終わってしまう。あなたはそれを望まないはずだ』
「……」
今度はアレリアが黙る番になった。
確かに、今彼らを失うのは痛い。こっちにやってきて最初に出来た友と呼べる者であるのも間違いではない。
だが、だからと言って「はい、助けます」とはいかない。自分の体が全快の時と今とでは話が違う。
今の状態で救援に向かっても助けになるどころか、足を引っ張って死期を早めてしまうのが目に見えている。
そのことをアリエルは十分に理解しているだろう。
『私には無理です。ですがあなたならば、あなたならば可能なはずです』
だが理解していて何故ここまで自分に戦線復帰を望むのか。
何故ここまで召喚主に必死になるのか、精霊をはじめとする「召喚されるもの」にとって召喚主など「たかが」ではないのか? 少なくとも王立では、術者は召喚されるものを「道具」として扱っていたし、召喚されるものも術者を「魔力の供給源」として認識していた。この認識は至極一般的なものであったし、誰もその関係に否を唱えるものでもない。
されるものとする者との間に絆と呼べるものなど生まれはしない。
「随分過大評価してくれてありがたいんだが……」
故の発言。
この常識がアレリアにある以上このような答えに行き着くのも無理はない。
俺に言うよりも、本部に足を向けたほうが良い。そう言おうとしたアレリアだが、次の言葉で固まることになった。
『……もう、あなたにしか頼れないのです……
できることなら、自分でやってる!!
ですが……無理なんです。私には……足らないんです。
お願いします。召喚主を、レイを……助けてください』
同時にアリエルは頭を下げる。
『もう、失うのはいやだ。別れるのはいやだ。私はもっと、語らっていたい。もう…もう…』
――召喚主の死を見るのは嫌だ!!
「………」
失いたくない、か。まさか「召喚されるもの」からこんな言葉が聴けるなんて、思いもしなかった。
恐らく、彼女は精霊の中でも異端の存在だろう。
だからだろうか、アレリアは親近感に似た何かを感じた。
「……わかった」
もうなるようになれだ。
「やってやるよ」
できる限りのことはやってやる。
だから――
「だからそんな顔をするな。あいつに元気な顔でも見せてやれ」
『あ……』
「ああ、そうだ。失敗しても文句を言うなよ? 俺だって万全じゃないんだから」
『……そうなったら末代まで呪ってやるわ』
あ、口調がもとに戻った。
「まぁ救ってやるから。心配するな」
『そこまで口が聴けるんなら問題ないですね……』
アリエルの体が透けてくる。
「帰って寝てろ。起きてくる頃には全部終わってるよ」
魔力が尽きてきているのだ。これ以上のこの世界に存在し続けることは、できない。
『……わかりました。言葉に従いましょう』
「ああ」
『最後に、これをあなたに渡しておきます。扱えるのかどうか、わかりませんが、挑戦する価値はあるでしょう。
これは、きっとあなたの役に立ってくれます。
では……』
そう言ってアリエルはこの世から去った。
下を見ると先程までアリエルがいた場所には鈍く、緋色に輝く指輪が転がっていた。
アレリアはその指輪を拾い上げる。
瞬間。脳裏にあるイメージがよぎった。
ノイズだらけの映像だが、端々は読み取れる。
「なるほど……まったく、用意がいいな」
そう言いながら立ち上がる。
倦怠感や脱力感などが残っているが一切無視。
アレリアはもたれかかっていた木に身をゆだねながらゆっくりと立ち上がった。
目指す先は決まっている。
ゆっくりとアレリアは歩き出す。
まだ覚束ない足取りではあるが、一歩一歩確実に踏み出していく。
遠くから咆哮が聞こえる。
恐らくはさっきの異常種のものだろう。
千晶たちはまだ戦っているのか。
アレリアはホッととした。戦っているということは死んでいないということ。彼らは生きているということだ。
脳裏に浮かぶイメージだけを頼りに道なき道を進んでいく。
奥へ……さらに奥へ……
岩を越え、倒木を越え、枝葉を踏みしめながら奥へと進む。
そして……見つけた。
一際大きい、大樹とも呼べるような木がそこにはあった。
木といってももう葉っぱひとつない、枝すらない枯れ木だが。
だが、枯れていてもその存在感はほかの木とは比べ物にならない。
まるで他の木がその木に膝まづいているかのような錯覚すら覚える。
まるで騎士のようだ。アレリアは思った。
主を守る騎士のように、堂々とした佇まい。
その騎士は見ている者に安心と希望を与えるような暖かい息吹を放っている。
木の前まで迫ったところでアレリアは足を止めた。
使い方は頭の中に入っている。
アレリアは指輪をはめた右腕を古木に翳した。
何かのスイッチだったのだろうか、翳すと指輪が一瞬緋色に光り、古木に大きな洞ろができた。
そして奥に足を踏み入れる。
「これか……」
そこには夥しい数の武器があった。
刃は欠け、あるいは折れ、錆び付き、見るも耐えない姿になっているが、素人でもわかる。これは――
「実際に使われた兵器かよ。おっかねぇ」
武器の錆び具合を見るとただ自然に酸化していったとは考えられない。
武器の本質から考えるとこの考えに行き着くのは自然だろう。
槍、剣、斧、ハルバード……
様々な武器がそこに揃えられていた。
武器好きにはちょっとした宝物庫に見えることだろう。
どれもこれも然るべき処置を施せば再び現役でも使えるだろうとは思うが、今は必要ない。
今必要なのは、即使える、劣化の少ない武器だ。
そしてアレリアはひと振りの剣に目を付けていた。
きっとそれを見たものは誰もが目を見張り、凝視するだろう。
それが錆びに埋もれた武器の中に存在する一つの異常だった。
それには時間の経過というものがなかった。
それには劣化というものがなかった。
まるである時から時が止まってしまったかのようにただ静かに鎮座していた。
眩い白銀の剣身を持つ片刃の剣。
他の武器とは圧倒的に格が違う。
手を伸ばしたのは半ば反射的な行為だった。
今この中で使える武器はこれしかない。そう直感したのと同時に、触れてみたい、使ってみたいという誘惑に襲われた。
アレリアはその誘惑に抗うことなく、剣の柄に手を触れた。
「なっ――」